切断と意志と責任について
先日の松葉舎の授業で塾生の方の一人が「切断」ということについて最近考えている、と話されていました。
その塾生の方はダンサーで、ダンスの中だけでダンスを考えるのが窮屈になってきたので、それ以外の視点や考え方でダンスについて考えるため松葉舎に入塾された方でした。その方が最近『〈責任〉の生成』という本を読み始め、その本に出てくる「切断」と表現されるものについて関心を向けている、とのことでした。
その方は「自分」というものを切り取られた(individual)個々の存在として捉えておらず、さまざまな関係の中で立ち現れてくるものだと捉えていると話されました。自分も人も環境も、常に動き続け変化し続けている。それらの相互の関係の中で立ち現れてくるものが「自分」「自我」というものだと思う。そのため、「溶け合う」とか「柔らかさ」といったものに関心を寄せているそうです。
「切断」という言葉は、その方がダンスでお世話になっている方に以前から聞いたことはあったそうですが、上記のような自分の感じている実感とは異なるのでその時は距離を取っていたそうです。
しかし、『責任の生成』を読んだり、儒教の本に触れたりする中で、「切断」というものの持つ意味や価値を改めて考え直しているところであるようでした。
私なりにその方の話を聞いて理解した「切断」とはこのようなものです。
物事というのは本来、様々な関係の中で相互に影響し合い、立ち現れてくるので、本来「誰々の責任」とか「何々が原因」と言えるものではありません。しかし、それでも人の社会として何かの物事について責任を取る必要がある場合、本来はそうではないけど仮に切断して(関係を切り取って)、責任や原因を固定しましょう、という行為を「切断」と呼んでいるように感じました。本来切断できないものを切断する意志、といったことも言われていました。
また切断とは勝つために行うことではなく、負け試合と分かっているところに「エイッ!」と飛び込むような意志のことを呼ぶのではないか、とも話されていました。
私がその方の話を聞いて思ったのは、切断とは責任を引き受けることだ、ということでした。
私もその方と同じように、物事は何か単一の原因によって生じるものだとは思っていません。しかし、人間社会においては何か問題が生じたときに責任を取る役割の人がいます。客観的にはその人に100%責任があるわけではないけど、事を収めるためにその人が立場上責任を取る、そういうことが社会ではあります。
この「本来的にはその人だけに責任があるわけではないけど、それでも敢えてその責任を引き取る態度」のことを「切断」と呼んでいるように感じました。
これは私も納得できるところです。私が環境改善活動を行っているのも、私なりに責任を引き受けようとする行為だからです。
自然環境が破壊され続けている現代において、環境改善について関心があり、活動できる身体があり、活動できる時間がある私が環境改善活動を行わないのは無責任である、そのように私は自分自身を捉えています。
言うまでもないことですが、私が自然環境について全ての責任を感じる必然性はありません。現代社会に生きているなら、全ての人は環境破壊に加担していると言えますので、私「だけ」が責任を感じる必要はないし、私「だけ」が責任を取る必要もありません。
ただ、私は自分の意志において、責任を取ろうと思いました。それは「切断」という意志に通じるように思います
「環境破壊」はさまざまな原因によって生じている現象であって、何か一つの原因、誰か一人の責任と言えるものではありません。ですが私はそのさまざまな要因を敢えて「切断」し、私に関わるところを切り取り、その部分を自分の責任として捉えようとしました。
塾生の方も言われていましたが、「切断」とは大きい話ではなく、本当に小さな、世界にわずかな割れ目を生じさせる程度のものです。私は私の関わる範囲の事象において、「いろんな原因があるから分からないね」という態度でなく「これは私の問題だ。私の責任として捉えるべきものだ」という態度を取るため、仮に責任を切り取って引き受ける行為。それが「切断」であると受け止めました。
「切断」と「意志」と「責任」との関係について、深く考えることができました。
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