自分しかいない現在から他者に向けた未来へ
環境改善のグループで、コアメンバーで集まって、自分たちがこのグループでどういう方向に向かっていくか何度か話し合っていました。しかし、自分たちだけではどうしても話が拡散してしまってまとまらないので、外部の人をファシリテーターに招いて話し合いをしよう、ということになり、先日、ファシリテーターの方を招いて話し合いをするための事前聴きとりみたいなものをしました。
ファシリテーターの方からいくつか質問をもらう中で、「このグループで活動するにあたり50年後、100年後、どういうもの(社会・自然環境・価値観etc.)を残したいですか」という質問をもらいました。
おのおのその質問に答えていたのですが、私はその質問を受けた時、「50年後、100年後」の未来について全く何のビジョンも持っていなかったことに気づいて愕然としました。
私は正直、日々生きるのにいっぱいいっぱいです。いっぱいいっぱいになってる理由は自分のことです。経済的な不安であるとか、精神的に浮き沈みの激しい自分のことでいっぱいいっぱいになっています。今現在のことでいっぱいいっぱいなので、未来にどういうものを残したいか、と聞かれた時、何も出てきませんでした。自分の考える範囲が今現在のことしかなく、さらに自分のことだけで他者がいなかったからです。
その時私は自分にがっかりしました。なんだよ自分のことしかないんかよ、と思ってがっかりしました。がっかりしながら、何かないんかお前、と思って自分の中を観ていたら、ふと言葉が浮かびました。「死ぬ麦になりたい」
私のとても好きな言葉に「地に落ちて死なぬ一粒の麦はただ一粒のままである。だが、死ねば豊かな実りを結ぶ」というのがあります(訳にはいくつかある)。新約聖書のヨハネによる福音書に記されている、イエスが最期の晩に語ったとされる言葉です。私は新約聖書は2度くらいしか読んでいないので覚えている逸話は少ないのですが、この逸話は非常に心に残ってなぜかずっと覚えていました。
それが、先日の話し合いでファシリテーターの方に「50年後、100年後」という質問を受けた時に思い浮かんだのです。そして、私は死なぬ麦ではなく、死ぬ麦になりたい、と思ったのでした。
私はかつて2度この言葉をnoteで取り上げました。その時私は以下のように解釈していました。
私にとって「死ぬ麦」とはこういう意味のものです。改めて言うなら、私利私欲や自分のエゴのために人生を費やすのではなく、エゴを滅却して他者のために人生を費やすことで、結果的に豊かな人生になる、といったところでしょうか。
その「死ぬ麦」になりたい、という思いが生じたのです。
ただ、この思いは実はファシリテーターの方の質問に直接答えるものではありません。
というのも、私のこの思いは「こういう社会を残したい」というものではなく、「『こういう社会を残したい』と思える自分になりたい」というものだったからです。「エゴを滅却するんちゃうんかい!」というツッコミが聞こえそうですが、大丈夫です。私が私に突っ込みました。
そう、これは私がなりたい姿を思い描いただけだったのです。他者に対しての思いではありません。やっぱり私の興味関心が向く方向には他者がいないようです。悲しい。
しかし、逆に、この質問によって私の中に他者がいないことが明らかになったので、自然と他者に思いを向けられるようになりたいと思いました。そして、私は「次代に残す、つなぐ」ということをもっと真剣に考えたい、と思うようにもなりました。
私はまだ自己受容の途上で、自分自身を素直に認め、受け止めることができていません。自分の問題がまだまるで解決していない状態では、他者に向かって何か働きかけることは難しいと思っています。そのため、すぐに他者を含めた未来を想像できるようになるとは思いませんが、今の時点で私の視界に他者がいない、と気づけたのは良いことだと思いました。私の課題が一つ見つかったわけですから。
慌てて答えを出そうとせず、しかししっかりこの課題を見つめ、深めていきたいと思います。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!