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自分のことしか考えられない私が人に良い影響を与えるために

 松葉舎の授業で非常に学びのある気づきを得ました。

 授業での私の近況報告の時、現在の自分の悩みについて話した時でした。

 現在、私が所属している環境改善グループの野土ぬづちにおいて行動指針を決める取り組みをしています。行動指針をまとめるにあたり、編集作業の責任者に私が任命されたため、各メンバーにその人にとっての野土ぬづちとは何か、野土ぬづちで活動する中でどのようなことがしたいか、と言ったことをインタビューしています。
 インタビューをする中で思ったのが、メンバーの人たちは「野土ぬづちでの活動を通してどのような社会にしたいか」と言ったビジョンを持っている人が多いということでした。例えば子どもたちに豊かな自然を残していきたい、とか継承してきた文化・風景をつないでいきたい、といった動機です。そして、それらのメンバーの話を聞いて逆に感じられたのが、私が野土ぬづちで活動する動機が内向的であることでした。

 私にとって環境改善を行う動機の大きい部分は、自分自身のためです。自分が自然に対して感じている罪悪感を払しょくするための贖罪行為であり、自分で自分を肯定するための行為です
 他のメンバーが子どもたちのためであるとか、文化を継承したいといった動機であるのに比べて、自分の動機のなんと利己的なことか。インタビューを続ける中でそれに後ろめたさを感じていました。

 という話を松葉舎でしました。
 すると、その話を聞いてもらった反応はおおむね「いや、それでいいんじゃないですかね?」というものでした。

 そもそも「環境改善」という行いは外に向けて行う行為であるわけで、その行為自体は決して内向的ではありません。私が拘っていたのは動機が内向的である、ということだったのですが、塾長の江本さんからも「環境改善という世間的に立派に思われる行いを『子どもたちのために』という立派な動機で語られるより、環境改善という行為を利己的な、内発的な動機で語ることで人々に『自分もやってみよう』思ってもらえる方が大事なのでは」と言われ、確かにそういう視点もあるな、と思えました。

 私はどこまで行っても利己的な動機しか生じない自分、自分のことしか語れない自分というものに後ろめたさを感じていましたが、よくよく考えると私自身が憧れる人は、その人の大義名分の部分に惹かれたのではなく、その人の内発的な動機の部分に共感して憧れていたことに思い至りました。
 私が「この人のようになりたい」と思っている人に甲野善紀先生高森草庵のシスターがいらっしゃいますが、私はあの方たちの大義名分に惹かれたわけではありませんでした。あの方たちもそれぞれ、どのような社会が良いという理想があり、そのための発信や活動もしていますが、私はそうした意見に賛同したわけではなく、あくまであの方々の生き様に感動し、「この人みたいになりたい」と思ったのでした。
 私が感動した生き様とは、甲野先生で言えば「人間にとって自然とは何か」という問いを探究していくということ、シスターで言えば常に神様に心を向けて生きていくということ。いずれも自分の心と向き合って生きている生き様です。

 私が感じている後ろめたさのより深いところには「私は人に働きかけていない、人に良い影響を与えられていない」という感覚があります。そしてその感覚の解消のために「人に直接働きかけようとする動機を持とう」と思うようになり、最初に述べたような悩みが生じていたのでした。
 しかし、もし利己的な動機によって環境改善活動をすることが人に良い影響を与えられるなら、例えば「私もやってみよう」と思うきっかけになるとしたら、私の後ろめたさは解消するように感じました。

 ただ、そのためには私の利己的な動機で環境改善活動をしているということを人に知ってもらわないといけないので、発信というものが必要になるでしょう。その発信活動は、現時点においてはnoteで行っている言語化です。つまり私はそうと知らず、人に働きかける活動をしていたことになります。

 授業の時にも言われたのですが、私の中に内発的に「こういう社会にしよう」という思いが生じていないのに、そうした思いを持とうとしても無理があるというか、歪みが生じてきてしまう可能性があるので、私としてはあくまでも利己的な動機というのを大事に持っていることの方が良いようです。
 ただ、その利己的な動機というのを内に秘めて誰にも語らないのではなく、人にも伝わる形で発信する必要があると思います。現時点ではnoteにおいてそれをやっていて、今後はどのような形になるか分かりませんが、発信活動は継続していきたいと思います。
 もちろん発信することで私の考えとは違う意見からの反論、批判などもあるでしょうが、そうした反応も含めた全体が人に良い影響を与え得ると信じたいと思います。そのためには、自分自身と向き合うこと、内省的な視点を忘れないことが大事だと思われるので、瞑想・言語化・身体というこれまでの軸において自己探求は続けて行きます。

 長年自分が悩んでいた自分の傾向性について、一つの解消の方向性が見えてきたので少し心が軽くなりました。


 本日は以上です。最後まで読んでくださりありがとうございました!
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