めんどくせえ奴
先日、引っ越しの書類に緊急連絡先として親の署名捺印が必要になったので、実家に帰る機会がありました。書類に署名捺印をしてもらい、親の免許証のコピーも取らせてもらい、「最近暑いねぇ」と言ったような世間話を少しして、実家を後にしました。
車で家に帰っている途中、唐突に「親が死んだら、私は生きる理由というか、生きる意欲みたいなのを失うだろうな」という思いが生じてきて、そういう思いが生じてきたことに困惑しました。
私と親は、仲が良い・悪いと一言で言い切れる関係ではないように思います。
親は間違いなく私を愛してくれていますし、私としても育ててもらった恩があり、感謝しています。具体的に私が困った時に助けてもらったこともありますし、今回のように私が親に用事を頼めば、親は喜んで協力してくれます。
ただやはり、子どもとして「もっと認めてほしかった」とか「理解されたかった」という恨み言というか、不満はずっと私の心にくすぶり続けています。
親、特に父親と私は価値観がまるで違います。
私が興味を抱く諸々のことは、すべからく父から見たら価値のないことで、時には手酷く否定されました。
私はゲームが子どもの頃から好きで、休みの日はファミコンやらスーパーファミコンをやっていたのですが(世代が知れるな笑)、父は「ゲームは子どものするもので、価値がない娯楽だ」という価値観があったので、私がゲームばかりするのを良い顔をしませんでした。そして大学生や社会人になってもゲームをしている私を見て「まだそんなくだらないことに夢中になっているのか」と見下すようなことをよく言っていました。
私は未だに息抜きとしてゲームをすることがありますが、ゲームをするたびに一抹の罪悪感を覚えるのは、父の影響があると思っています。
また、私は思春期頃から宗教や哲学や精神分析に興味を抱いて関連の書籍を読んでいて、その後宗教に強く関心を寄せるようになりました。父は典型的な「神も仏もねえ」という人でしたので、私が宗教に関心を寄せること自体も馬鹿にするような言動をしていました。
社会人になって仏教に傾倒し始めた私が熱心に仏教の良さを話した時も「悪い新興宗教に捕まったんじゃないか」というような心配をされてしまったこともあります。
ただ、このことについては、私は子どもの頃から一つのことに凝り始めると他のあらゆることを犠牲にしてものめり込む性質だったので、その私の性質を知っている親としては、あの時の心配の仕方は当然と言えば当然でした。ただ、私の心には「俺が良いと思ったものを親は理解してくれない」という寂しさが生じていました。
当然、私が仕事を辞めて出家したいと言った時も反対されました。まあこれも、私の親でなくても現代日本における一般的な価値観を持つ親なら、多くの方が反対するようなことだとは思うので仕方のないことなのですが。
逆に、私は父の興味があることに関心を持てません。
父は日々新聞やテレビのニュースをチェックして、国際情勢やら政治やら今世間で話題になっていることについて関心を寄せています。私が全く興味を惹かれない話題たちです。
そして、ふとした世間話で父がそうした話題を振ってきて、私が「分からない」というようなことを言えば、「社会人として知っていて当然だろう。なんでそんなことも知らんのや」とばかりに御叱責を賜ります。
私としては、全く知らないということでもなく、テレビや新聞で報道されている内容とネットなど他媒体で流れる情報は違うことも多く、その両方を見比べた時、どちらが正しいかはその話題についてかなり時間と労力をかけて調べないと分からないため、多くのことについて私は「そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。判断保留」としています。その結果として父から話題を振られたことについて「分からない」という言葉を発しているのですが、その判断保留としている経緯について父には説明しても受け入れてもらえなかったため、結果として父からは「こいつは何も知らん奴だ」という評価を下されています。(ただ、「オリンピックで日本は金メダルをいくつ獲った」みたいな本当に私が全く知らない話題の時もあります)
私が父に対して不満を感じるのと同じように、いや、親の気持ちとしては私の気持ちの何倍も、子である私に対して不満を感じているのだと思います。
お互いがお互いの不満を抱えている間柄での関係は、簡単に「良好だ」とは言えないでしょう。
しかしそれでも、今回久しぶりに親と会って話をしたら、親に対して「子の人たち好きだなぁ」という気持ちが湧いてきたのです。「好き」という表現で合っているのか分からないのですが、「この人たちが幸せであってほしいなぁ」とか「この人たちを悲しませることをしたくない」と言ったような気持ちです。そういう気持ちが湧いてきました。
私が自暴自棄になってしまった時、たしかに「ここで俺が死んだら親が悲しむな」という気持ちが湧いたことはありました。しかしそれは切羽詰まった時で、日常的に思っているわけではありません。
……「日常的に思っているわけではない」と思っていました。
でも今回、ふと「親が死んだら、私は生きる理由というか、生きる意欲みたいなのを失うだろうな」という思いが湧いてきたということは、案外、日常的に親を想って生きているのかもしれないな、と思い直しました。
愛憎一重という言葉もあるように、人を憎むことも愛することも紙一重の差なのかもしれません。私が父に否定されたことを未だに根に持って恨みに思っているということは、翻って考えればそれだけ「親に認めてもらいたい」と思っていることと同義です。好きでもない相手に「認めてもらいたい」と思うわけはないので、私が「認めてもらいたい」と思う気持ちの大きさと同じだけ、私は親に執着しているのでしょう。
私は親を恨んでいると同時に愛してもいて、その二つの根は同じなのでしょう。
そんな自分の心を観て「めんどくせえ奴だなぁ」といういつもの感想を抱いたある日でした。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!