他に働きかける妥当性、責任を取るということ
最近、様々な関わりが増えていく中で考えることがあります。それは人の考えや意見を変えるように働きかけることの是非、といったものです。
人が何らかのアクションを起こすとき、まず現状がどういう状態であるかという認識があり、それをどのような状態にしたいかという目指す方向があり、そのギャップを埋めるために行動を起こす、という流れが一般的にあると思います。
その行動が自分だけで完結するものであるなら特に問題は無いのですが、起こそうとする行動が外に影響を及ぼす類のものであった場合、その行動の妥当性はどのように測るべきだろうか、と考えてしまいます。
抽象的な話だと分かりにくいので具体例を挙げてみます。
仏教では輪廻転生を説いています。「私」は過去、数えきれないくらいたくさんの生き死にを繰り返し、今の「私」が死んだらまた別の命に生まれ変わる、という「物語」です(正確にはこの輪廻転生観は仏教的には間違っているのですが、話を容易にするために敢えてこのように示します)。
その物語を私だけが信じるのであれば特に問題はありません。他の人から「そんなのは非科学的だ」と非難されようとも、他の人が「死んだら消えてなくなるんだ」と考えていようとも、私は私が信じたい「物語」に従って世界を見て、生きていけばいいだけです。
しかし、それを人に働きかける場合は別の問題が生じます。
仏教では「死んだら消えてなくなる」という考えを断見と言い、邪見(間違った見解)として悪い業を生む見解であると考えます。「悪い業を生む」というのは「不幸になる」くらいの意味と捉えてください。
私が輪廻転生を信じていて、親が「死んだら消えてなくなる」と考えていたとき、私が「親は断見論者だ。このままでは親は悪業を重ねて、死後地獄道に堕ちてしまうかもしれない。親の断見を正そう」と思って、もし親を説得して考えを改めてもらうように働きかけるなら、その行為にどの程度妥当性があるでしょうか。
私は全くの親切心で親の死後を心配して「死んだら消えてなくなる」という親の考えを改めてもらおうとしていますが、親としてはそんなのは迷惑な話で、訳の分からない思想を押し付けられているように感じるでしょう。小さな親切大きなお世話というやつです。結果、親は私の話を信じないだけでなく、お互いの関係がとても悪くなるでしょう。
その場合、私が親の考えを変えるために起こしたアクションには妥当性が無かったと判断できると思います。
もう一つ別の例を挙げます。
私は環境問題について強く関心があり、そのため環境改善活動に関わっています。
私の現状認識としては、今の地球、少なくとも日本の自然環境はかなり危機的な状況で、いますぐにでも現代の土木方法を根本から改善しないと自然災害が今後どんどん頻発すると思っています。
そして、このような現状認識があるため、今よりも人間が自然を尊重する社会に変わるべきであると思っていますし、今のように自然から収奪することで成り立つ社会ではなく、自然を生かしてその恵みをいただく社会であるべきだという見解を持っています。
これらの現状認識、目指すべき方向に基づいた環境改善活動を私は野土において行っています。
この野土における活動が、活動メンバーの中だけに影響するものであるなら問題はありません。しかし、先日行った講座のようにこうした考えに基づいて里山の整備をしようと思うと、その地域・集落に住む人に必ず影響があります。私たちが良い活動だと思っていても、その地域に住む方々が同じように良い活動だとは思うとは限りません。そしてその地域に住む方々が活動に賛同してくださらなければ、その土地の環境改善活動をするわけにはいきません。
相手方が私たちの活動に賛同されない場合、相手方と現状認識や目指すべき方向性について話し合い、すり合わせを行い、一方の、あるいはお互いの認識や見解を変える必要性が出てきます。
この場合、「相手方の認識や見解を変える」という行為にどの程度の妥当性があるのだろうか、ということを私は考えてしまうのです。
私たちは情報を集め、考え、行動した結果として自分たちの現状認識や見解を構築しています。そのため、その現状認識や見解に一定の自信を持っています。
しかし、相手方もその人なりに情報を集め、経験した結果として現状認識と見解を構築しています。
両者が異なる見解を持っていた場合、それぞれを俯瞰してみたとき、「その人の知識と経験において自分なりの見解を作り上げた」という意味では両者に差はありません。優劣もありません。しかし、私(たち)は相手方の見解を自分たちの見解に変えようとしているのです。これは妥当性のある行為なのでしょうか?
例えば「地球は丸い」という見解を持つ人と「地球は平べったいお盆のような形だ」という見解を持つ人がいたとして、物理世界においては「地球は丸い」という見解の方が「正しい」と言えるでしょう。そのため、「地球は丸い」という見解を持つ人が他方の見解を変えることには妥当性があると言えるかもしれません。
しかし、現代社会において起きている様々な問題は「正しい」と言える見解や解決策はありません。誰も「何が正しいか」ということが分からないまま、それぞれが探究した見解や解決策で行動しようとしています。
もし「全知全能の神」がいて、「正しい答え」というのが分かる存在がいるなら、私の行動に「正しいか、間違っているか」は判断できるはずですが、残念ながらそういう存在はこの世にいないようです。
ただ、答えが分からないながらも、行動するうえで大事なのは「責任を取る」という態度なのだと、最近思うようになりました。
正しくないかもしれない見解に基づいて行動して、もし良くない結果が生じたとしても、生じた結果について責任を取る。「俺のせいじゃない」とか「こんなはずじゃなかった」などと言い訳をせず、生じた結果について受け入れ、対処する。
予想していなかった悪い結果が生じたなら、なぜそのような結果になったのか振り返り、見解が間違っていたなら見解を改め、悪い結果を少しでも良くするように次のアクションを起こす。これが「責任を取る」という態度の内実だと思っています。
この「責任を取る」という態度は、「答え」が分からない中で行動するにあたり絶対に必要なことだと思います。肚をくくる、とも言い換えられるかもしれません。
逆に言えば、責任を取る覚悟が無いなら、行動を起こすべきではない、とさえ思います。
私が持っている見解、起こしている行動がどのような結果をもたらすのか、究極的には今の私には分かりません。さらに私には自分が行っている行為について「本当に正しいのだろうか」という疑念どうしてもが付きまとう性分でもあります。しかしだからこそ、自分が行ってきた行為の結果については責任を取らないといけない、ということを忘れないで行動したいと思います。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!