愛の知能指数
私は20歳くらいの時、愛の知能指数はかなり低かったと認識しています。その時、この世界は、地獄だと思っていた。
現在、心を高める勉強をすることができて、愛の知能指数を少し高めることができたと思う。そうしたらこの世界はなんと喜びに溢れるのかと世界が変わった。
昔の私は、愛されることを渇望していました。自信のなさ、コンプレックス。
自分が人を愛していないのに、自分だけは愛されたいといのはなんと身勝手な人でしょう。心の底から誰かを愛しているという実感はあるでしょうか。と、自分に問いかけてみる。ないけれど、あると言い聞かせていた。それが曇りです。
自分の中に愛がないのに、もし相手にだけ愛を求めているとしたら、ちょっと自分に疑いを持ってみる。自分が求めているのは何なのかと。求めているものはもちろん愛ではない。そしてそれはいろいろな関係が壊れた時に気づくのです。自分の求めているものは愛ではなかったと。
次は「愛」を取引の対象にしている段階。愛したのだから愛されたいという感情。自分の愛に相当する愛を与えてくれないことに不満を感じる。相手の愛の質と量に不満を感じる時、愛を取引の対象にしている。実はそれは相手を思い通りにしたいのだ。それは愛ではない。それに気がつくことが大事。自分が欲しいのは愛なのか、偽りなのかを問うことが大事。偽りと決別したら次の世界に行ける。
次は、人を愛する人は愛されるし、人を憎む人は人に憎まれる。人を受け入れる人は、人に受け入れられる。人を否定する人は、人に否定される。という因果関係に気付けている世界。
実はこの因果関係に気づくのは相当に難しい。目というか、心が曇っているのです。自分が曇っているかもしれないという疑いが必要で、自分の愛を否定しなければ、愛していないから愛されないという因果関係にたどり着けない。自分が愛されない理由を、外部のせいにしている。自分を疑っていない。自分の中に愛がないのに、愛がない世界に憤る。そういう人は世の中が不条理であると思っている。自分は正しいけれどという、間違った前提にしがみついているのだ。
次は、人間は無条件に存在してもいいんだ。どんな人でも存在を肯定し容認する人は、誰からも存在を容認される。公平な視点でものを見れる人は、この立場に立てる。ねじ曲がっている人は、自分を特別視する。自分には立派な条件があるから認められるし、条件がないから認められないという認識でいる人は、他者の存在にも条件をつけていて、誰の存在も肯定していない。つまりそんな人は誰からも受け入れてもらえない。
次は、公平な立場から、さらに一歩進んだ絶対の世界。愛は愛なのだ。愛したいから愛すのだという世界。理由などない世界。実感だけが真実の世界。愛は無条件であり、全ての人を無条件に愛し受けいれる人だけが無限の愛の中に存在できる。崇高であるとか、少ない、醜いとか関係ない。自分の中の愛を信じる世界。
自分の中の愛を信じることができると不思議なことに、どこかで、またかすかに大いなる存在と通じる感覚になる。人間は愛の知能指数によって惹かれ合うと思う。釣り合うと思う。
ゆえに愛を学べねばならない。愛の知能指数が低ければ、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界になってしまう。