【長編小説】(3)永遠よ、さようなら
鳩羽あやめ、二十三歳、独身、彼氏なし。職業フリーター。ただし、ゆくゆくは画家として生きていきたいと思っている。
住んでいる家は大正時代に建てられたという超のつく古民家。元々は祖父母の家だったが、家主は二人揃って二年前に他界した。最初に祖父が死に、それを追うように祖母が。「あやめちゃんの大学の卒業式を見に行くのが楽しみだわ」なんて祖母は言っていたけれど、それよりも愛する人の元へ行くことの方が上だったらしい。
ど田舎の限界集落のまだ人が住んでいる家々から橋を一本渡った場所にあるこの家を、母に手を引かれって訪れたのが十五年前のこと。この場所に置き去りにされたのもその時で、以来母とは一度も会っていない。生きているのか死んでいるのかもわからない。祖父母がブランド物の野菜を作ってる農家でそこそこ収入があって、だから精神的にも金銭的にもそれなりに自由に暮らせてきたから、母の所在を気にするようなこともなかった。
特に何も考えずに生きてきたように思う。だから、親代わりだった祖父母が死に、大学を卒業して、本当の意味で自由になってしまったあやめは途方に暮れた。いっそ自分の夢を子供に押し付けるような親の元に生まれたならば、こんな寂しさを感じずに済んだのに。
大学を卒業して、あやめは家にこもって絵を描き続けた。自分に何があるのか確かめる作業だった。油、水彩、アクリル、鉛筆、細く切った野菜からケチャップまで、ありとあらゆるものを試した。
画材の探究に限界を感じてからは、ひらめきを求めて近所を散歩することが増えた。毎度最後は迷子になって、何故か毎回行き合う田中のおばあちゃん(幼い頃から何かと話をする近所のおばあちゃん。本当は田中さんではないらしいが、みんながそう呼んでいるし本名を知らないのであやめも彼女を田中のおばあちゃんと呼ぶ)に道を教えてもらって帰ったものだ。
それでもやっぱり何も得られなくて、焦燥を抱いたあやめがついに「近所」のその先へ飛び出したのは去年の秋のこと。山々が思い思いの「あか」に染まっているのを遠くに認め、スケッチブック片手に獣道のような山道を歩き出した。
そして、道に迷った。
「うん。そうだね。私はそういう人間だった。Googleマップのナビを使っても駅から徒歩二分のスタバにさえ辿り着けない。それが私」
ショックのあまり独り言に拍車がかかる。流石にこんな山道で田中のおばあちゃんに出くわすことはないだろうし、手にしたスマホの電波は圏外だ。街中でポジショニングの悪さにたまたま電波を手放すのと違い、三百六十度どこへ向けても復活する兆しがない。
カサカサと落ち葉が乾いた音を立てるプライムレッドとバーミリオンとクロムイエローの森の中に視線を一周させ、そもそも電波が戻ったところで状況が変わるわけでないと早々に諦めてスマホを尻ポケットにしまう。さてどこに向かったものかなと考えていたら、獣道があるようなないような足元の先に森の切れ目の光が見えた。
ひとまず開けた場所に出よう。もしかしたらあの光の中にコンクリートの道があるかもしれないなどという何の根拠もない思考と共に歩き出す。落ち葉を踏むたびに光が強くなり、何かに呼ばれるような感覚に意図せず両足が急く。何だか様子がおかしいなと思ったが時既に遅く、無色透明の刺すような光が視界いっぱいに広がってーーーー
ーーーー何かが起きそうな気がしたが、特に何も起きなかった。
鮮やかな紅葉を透過して届く柔らかい光に両目がすっかり慣れてしまっていて、森を出た瞬間両目を突き刺した、まだ微かに夏の気配を残す陽光に瞳孔が遅れをとっただけだった。
四方を森に囲まれた広い平原に、崩れて土に帰ろうとしている廃屋が点在している。かつては村だったのだろう。田畑は申し訳程度の凹凸を残して雑草に覆われていて、草と苔と土に覆われた廃屋は構造を見るに高度経済成長期より以前のもの。もしかしたら戦前かもしれない。
人口の流出か、それとも何か事件があったのか、住人を失って久しい村が森の一部になろうとしている直前。ならばここまで歩いてきたのは獣道などではなく、ここで暮らしていた人間が麓に出るために作った山道の成れの果てか。いつか誰かが暮らした場所が、静かに息を引き取ろうとしている。
秋の入り口の透き通った光に満ちたその中へ、あやめはスターターピストルを聞いたように走り出した。停滞と退廃と死がない混ぜになったその景色は、隅々までが宝のよう。息を切らせながらスケッチブックを開き、切り取る一面を探して視線を彷徨わせ、まずは廃屋の前で朽ちようとしている何かの農機具らしい木製の物体の前にしゃがみ込んだ。
一心不乱に鉛筆を走らせる。腐った細工木の表面の質感まで描いたら、次は屋内の腐って溶けた畳と欠けた茶碗を。続いて畑だった草むらに沈むカカシの麦わら帽子を。土に刺さったままの鍬の取っ手に生えた苔を。土壁についた何かの爪痕を。
景色の一枚一枚をスケッチブックの中の平面に切り取っていく。一枚出来上がるごとに、不思議と懐かしさが込み上げてきた。ここへ来たのは初めてなのに、どうしてだろう、「帰ってきた」ような気分だ。幼い頃から暮らした祖父母の家の蔵にも、よくわからない古い農機具があったからだろうか。腐った畳の色彩が、祖母の死に顔と似ているからだろうか。
村の死体を端から順に描いていき、集落の突き当たりの納屋に落ちていた何かの動物の骨と蝉の抜け殻を描いて顔を上げた時だった。
土に飲まれるように傾いた鳥居の赤が目に飛び込んできた。塗装が剥がれかけ、長い年月雨風にさらされてくすんだその色は決して鮮やかではないはずなのに、周囲の紅葉と一線を画す輪郭をもって視覚を捉えて離さない。その向こうには何かを祀っていたのだろう社が一つ。この村だけの、ここで暮らした人々だけが信じていた神様だろう。
住人がいなくなりずっと参るものがなかったのだと思うと、少し可哀想な気がしてきた。神様なんて信じていないけれど、あんなものがいる世界だ。もしかしたら普段人間に見えないだけで、どこかで寂しくしているかもしれない。
特に祈ることもないがせっかくだから参っておこうと鳥居をくぐり、何の神様なのか知る手がかりがないか社を覗き込む。野生動物にでも荒らされたのだろう内部に紙切れを見つけた。
「まがつ……かみ……さい?」
滲んだ文字で読み取れたのは”禍津”、”神”、”災”の文字。字面からよくないものを感じ取ったあやめはその場を後にしようと一歩、二歩と後ろへ。
視界の隅に何かが映った。
それを見てはならないと本能が叫ぶ。
けれど体は反して眼球を動かし、社の横に倒れているそれへ。
薄汚れた人の脚と、くすんだ布のほつれた表面があった。
ついさっきまで存在しなかったそれに「ひっ」と短い悲鳴を上げたのは反射に近い。何らかの事件か。捨て置かれた死体の第一発見者になるなんてごめんだと逃げようとした時、しかしそれが自分にしか見えないそれであることに気づいた。
実体のあるものと明確な差があるわけではない。けれど、それは大多数の人間が視覚で捉えている世界のものとは確かに異なる。祖父母が暮らすこの地に来てから見えるようになったそれに最初の頃こそ戸惑ったが、大人になった今は区別がつくようになってこんな風に突然でない限り見間違うことはしない。
社の横に回り込むと、その脚が倒れている男のものだとわかった。くすんだ色の着流しの、沼の底のような翠の髪をした、あやめより一回り弱年上に見える青年。
死人のような横顔の、柔らかそうでパサついた前髪の間でぎゅるりと瞼が開き髪と同色の眼球がこちらを向いた。思わず身を引こうとしたところを、腕を掴み引かれる。目の前いっぱいに男の瞳の翠が映る。それは焦点が定まってないようなぼんやりとした輪郭をしていたが、ぎょろぎょろと人間ではあり得ない動きを何度か繰り返すとあやめの表面に停止した。
「なまえ、よんで、もっと……」
生まれて初めて言葉を話したようなたどたどしい発音は神様というもののイメージとはかけ離れていたが、自然と彼がこの社の主であると理解した。名前を呼べと言われても出会ったばかりの彼の名前など知らない。しかし呼ばねば離してくれそうもない男の大きく骨張った手の力強さに首を捻ったあやめは、「もっと」という言葉に引っ掛かりを得た。
「えっと……」
起き上がった男の胸に、向こうの景色が透けて見える。腕を掴む手のひらの感触は本物だが、彼の存在は確定していないのだろう。ついさっき口走った自分の言葉の内、この男の名前らしいものを探し出す。
「禍津、災?」
苗字が禍津で、名前が災。
そんな素っ頓狂な名前があってたまるかと内心自分にツッコミを入れた瞬間、透けていた男の体が実態を得た。
「ありがとう、あやめ」
「いやいや礼には及ばな……え、あなた禍津災って名前なの?可哀想すぎでしょ」
「きみがよんでくれた。だから、いいなまえ。あやめの鳩羽あやめもいいなまえ」
「それはまた、ありがとう」
「きみのこの紺のかみとめによくあう。いいなまえ」
「紺なのに紫の名前かよって私はあんまり……」
そこまで話してようやく気づく。
「何であなた、私の名前を知ってるの?」
立ち上がった男は長身で、こちらを見下ろす顔は俯くように。無色透明な光が満ちる景色の中、彼の頬にだけ影が落ちる。
「また僕をたすけてくれた。僕はいつだって、きみのことをわすれたことはない。だいすきだよ、あやめ」
微笑む彼の頬がひび割れ、乾いた土のような頬の肉と一緒に隙間からムカデとカマドウマがこぼれ落ちた。それは光を浴びるともがき苦しむように体を捩り、地面に着くより早く、燃え尽きるように崩れて消える。まるで忌むべき魔のものを、この世界の光が許さないように。
帰ろうとするあやめのTシャツの裾を掴んだまま、何を声をかけようと男は黙って離そうとしない。仕方なしと歩き始めたのは夕方になってからのことで、自分をここに引き留めようとしていたわけではないらしい男が付かず離れずついてくるのを視界の端に捉えつつ、どうしたものかとため息をつく。
男の存在についてじゃない。帰り道がわからないことに、だ。
スマホの電波は未だ圏外。獣道のようなギリギリの道は一度通ったことがあるようなないような、左右前後どこを見ようとどこも同じ顔をしている。
「あやめ、そのふくの絵はなに?」
「リンゴだよ」
「でも、ナスってかいてある」
「そういうデザインなの。可愛いでしょう?」
「でざ……あやめのほうがかわいい」
男はTシャツから手を離し、スマホを持っているのと反対の手を掴んできた。にっこりとこちらを見下ろす表情は子供のよう。不器用な発音は赤子のようで、思考はきっと、子供のそれで。しかし姿は立派な大人の男であるというアンバランスをどこか危なっかしく感じつつ、同時に彼らしいと思ってしまう。
彼とは初対面のはずなのに、心の底では彼をずっと知っていたみたいに。
いよいよ日が暮れようという時になり、今更になって焦ったところで「あやめ、こまってる?」と男がこちらを覗き込んできた。
「え?」
「あやめ、さっきからずっとこまってる」
そりゃああなたみたいな謎の存在がこんな風に距離を詰めてきたらね、と言いかけてやめる。
「もしかして、帰りかたがわからないの?」
「いや、別に、そんなんじゃ……」
「こっちだよ」
ずっとこちらに合わせてるだけだった男の手が、自分の意思を持って動き出す。水を得た魚の如く生き生きと。その腕のヒビから蛆虫が落ちる。先を歩く男が振り返ると、その頬は嬉しそうに紅葉していた。
「ぼくがあやめのことを助けるよ。たくさん、助ける。だからぼくといっしょにいて。ぼくの名前を、よんで」
彼は子供だ。まだ自分の根本を知らず、他者の目を通してのみ自己の証明を見る時分の子供だ。
認められなければ存在意義がない。褒められなければ自分の良さが見えない。名前を呼ばれなければ、自分がここにいることさえわからない。だから他者に擦り寄って自分の有用性を証明しようとする。
自分にもそんな時代があったななどと考えながら、力強い彼の手を感じる。彼がいる生活を脳内でシミュレーションしてみるも、問題たり得るものは存在しない。体のそこかしこがひび割れて、誰もが忌み嫌い殺そうとする種類の虫がポロポロとこぼれ落ちる様は、人の目に映ればパニックを誘発するだろう。
しかしそうはならない。彼の姿はあやめの目にしか映らない。見えないものなど、そこにないのも同じことだ。
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