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【長編小説】(1)永遠よ、さようなら

 古い玄関の引き戸を開けると、宅配便のお兄さんは元気よく「お荷物お届けに来ました」と言った後、室内に視線を動かし不思議そうな顔をした。それからこちらを見て「お荷物どちらに運びましょう?」とあくまでも紳士的に、何も思ってない風を装う。「ここへ」と玄関脇を示すとお兄さんは「これ、二十キロありますよ?」と首を傾げた。小柄な女性の一人暮らしに二十キロの荷物の移動は難しいと思ったのだろう。いい人だ。
 鳩羽あやめは「大丈夫です」と微笑んで、(と言うのは本人の感覚であり、彼女の死にかけの表情筋はピクリとも動いていないが)荷物を置く場所を開けるために一歩後ろに下がった。お兄さんがプロの動きで荷物を置き、送り状から受取証を剥ぎ取り、立ち上がる。彼の「ここにサインをお願いします」の言葉に呼応して、あやめは左手を持ち上げた。
「ありゃ」
 そこに握っていたのは平筆だった。受け取りサインを書くためにボールペンを持ってきたはずなのに。ついさっきまで死体の内臓を塗っていたカドミウムレッドの筆先では、二センチ四方もない欄に名前を書くのは不可能だ。
「……ええっと、こちら、お使いに」
 いよいよ顔を引き攣らせた宅配便のお兄さんだったが、そこは彼もプロ、困惑の内心を頬にのみ留めて胸ポケットのボールペンに手を伸ばす。しかし彼が言い切るより早く、あやめの手の中の平筆が黒のボールペンに入れ替わった。
「は?あれっ……今、筆をお持ちでしたよね?」
「サイン、はい。書きました」
「ええっと」
「お世話様です」
 無理やりにこの場を終わらせるあやめの言葉に、お兄さんは何かを感じ取ったのか「では、失礼します」と足速に車へ。エンジンをかける音、タイヤが焦りを擦り鳴らし、ど田舎の静寂の道をこの国の誰もが知っている青と白のトラックが去っていく。木々の間にこだまするエンジン音が完全に消えるのを耳の端に捉えつつ、あやめは扉を閉めると届いた荷物にを持ち上げる”人影”を見上げた。
「変なことしないでよ、災」
 二十キロのダンボールを小箱でも扱うように持ち上げる骨張った手の指には、あやめが持っていた平筆が挟まっている。
「へんなこと、とは?」
 二十代後半に見える男の発音は、どこか子供のようにたどたどしい。
「宅配便のお兄さん、変な顔してたよ」
「君がびじんだからじゃないか?」
「あなたが筆をボールペンに変えたからだよ」
 宅配便のお兄さんの目には平筆がボールペンと入れ替わったように映った現象は、その実、あやめの手から男が平筆を抜き取り、ボールペンを持たせただけの話だった。
「だって、あやめは困っていただろう?」
「まあやっちまったとは思ったけど、別に困るってほどじゃあ……ペン持ってなかったら貸してくれるし」
「あやめをたすけるのは僕だ」
「助けるって、そんな大それた……」
 そこまで言いかけて、あやめはぴたりと言葉を切った。口を閉じ、男ーーーー災の着流しの裾から落ちる乾いた土のような欠片を目で追う。欠片は土間に着くより早く霧散する。続いて落ちてくるムカデも、蜘蛛も、同じように。
「あやめ」
 振り返る災の涼しげな目元を、緩やかなウェーブを描く柔らかそうな前髪が揺れている。「これ、どこに置く?」とダンボール箱を持つ手はがっしりとした男性のそれで、着流しがよく似合う長身を屈めて上がり框に足をかける背中は布地の上からでもがっしりとした造りであることがわかる。
 人間であれば道ゆく女子の誰もが振り返るだろう造形の彼であるが、その体の表面はひび割れ、土くれのような欠片となって落ち続けている。一般的な物理法則に当てはめれば、物体の一部が崩れて取れ続ければやがてその物体はなくなるはずだが、災はなくならない。前にそれを本人に訊ねたら、「それは神だからだよ」と答えになってるのかなってないのかよくわからないことを言われた。
「食料品だから、台所に置いて」
「わかった。開けてしまっておくから、あやめは絵のつづきをしなよ」
「どれが何かわかるの?要冷蔵も混ざってるけど」
「だいじょうぶ」
 災は自信満々に答えたが、正直あやめには不安しかない。彼は長く人間社会と離れて存在してきた。出会った頃なんて、レトルトカレーもカップラーメンも知らなかったくらいだ。
 箱を持った災に着いていくと、彼はキッチンのテーブルの上に箱を置いた。周囲を見回す。封を切るカッターナイフを探しているのだろう。あやめは「そこの引き出しだよ」と言いかけたが、「そ」を発音するより早く彼が人差し指でガムテープを撫でると、触れた部分から灰のようになって消えた。
「これは……」
 一番上に入っていた真空パックのチーズハンバーグを手にした災が早々に固まる。「さて、それは何でしょう?」とイタズラ心を含めて隣に立つと、少し考えた彼は「ふくろに入ってるから菓子だ」と菓子を入れている戸棚へ向かった。
「それははんばーぐだよ。れいぞうこにいれないとだめだよ」
 割って入った四つ足の影が、災の手からパックを攫った。前足を器用に使って冷蔵庫を開け、チルドの棚まで開けてパックを中へ。冷蔵庫を閉めてこちらに来ると、九本の尻尾をブンブン左右に揺らして、撫でられるのを今か今かと待ち侘びる。
 犬の形をした頭を「しっぽはよく知ってるね」と撫でてやると、パサついた毛の感触が、彼のその白が生来のものではないことを告げる。酷い何かに遭って色素が抜けてしまった毛並みだ。その証明に、彼ーーーーしっぽの頭の毛には真っ黒な束が一房だけ残っている。きっと生前の彼はみずみずしい真っ黒な美しい毛並みをしていたのだろう。
 黄色い虹彩の一つ目を気持ち良さげにうっとりと細めるしっぽの後ろで、災がじっとりとした視線をこちらに向ける。沼の底のような暗い翠の長い前髪の隙間から、同色の瞳が溺死体のような顔をしている。「じゃあ、みんなで片付けちゃおう」と促すと、彼はブスくれた顔で「僕だってできる」とよくわからない拗ね方をした。

 神様というものは聡明で、迷える子羊たる人間を超越した視点から観察し、導くもの。いつ誰に教わったか定かではないそんな常識が覆されたのは他でもない、この男ーーーー禍津災と出会ってからだ。そして、神様は決して万能でも絶対でもなく、移ろい滅びゆくものだということも彼によって知らされた。
 天気の予測も地震のメカニズムも、料理における火力の調整も太陽の寿命だって科学によって説明されるこの時代、世界を説明するための言語であった彼ら「神」はその地位を追われた。もう不思議なものなどなくなってしまった。神は死んだなどとどこかの誰かがいつかに言ったが、少なくとも、一人はここで生きている。
 人間一人、神様一人、どうやら狗神というものらしい一つ目の犬の霊一匹。誰の常識も常識たり得ない、これが鳩羽あやめの日常だ。

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