【長編小説】(3)別れを告げた半身を探して
依頼のあった復讐の被復讐者が住む豪邸の正門をくぐると、長いアプローチの四方八方から武装した男たちが迫ってきた。”圧縮屋”はため息をついて、両手をオーケストラの指揮者のように揺らす。その動きに連動して圧縮されていく男たちが血飛沫を撒き散らす姿はワルツでも舞っているよう。
・復讐等施行基本法第五十三条 管理庁によって承認された復讐を、何人も妨げてはならない。
・同法施行細則第二十七条 復讐代行者は、請け負った復讐を妨げる者が現れた場合、必要に応じてそれを退けることができる。これによって生じた傷害について、対象は何の損害賠償も求めることができない。
アプローチの石畳に染みていく赤を見下ろして満足げな笑みを浮かべた圧縮屋は、ワルツもカプリッチオもラプソディーも知らない。幼い頃より薄汚いスラムで泥水を啜って生きてきた彼の中には音楽なんて存在しない。
生きるか死ぬか、奪うか奪われるか、それだけだ。
しかし豪邸の豪勢な扉を勢いよく開けた彼の歩調は陽気な三拍子を踏んでいる。一斉にこちらを向いた銃口の全てをへし曲げて、弾丸の暴発に顔を歪めた男たちを音符の形に”成形”した。ほんの数時間前にたまたま通りかかった雑貨屋で、死にそうな顔をした女がカバンにぶら下げていたチャームの形だ。圧縮屋は音楽を知らないが、それが八分音符であることは知っていた。
マフィアに同僚を殺された刑事からの復讐依頼という何ともテンションの上がりにくい依頼であったが、その対象を確認した圧縮屋の気持ちは一瞬にして天にも昇りそうになった。復讐対象のマフィアのボスが、かつて彼の兄を殺した張本人だったからだ。憎き相手を合法的に、しかも復讐のように他者に委ねる必要もなく自分のこの手で殺せる。彼はスキップをしながら赤い絨毯が敷き詰められた階段を駆け上がった。
向かってくるマフィアの下っ端を片っ端から圧縮して、ついに静寂が訪れた。秋の肌寒い強風がカタカタと窓を鳴らし、どこかの隙間から吹き込んで穴が空いた喉のような音を立てている。最上階の一番奥。一層豪勢な扉をサイコキネシスで吹き飛ばした轟音に、「困ります」と淡い女の声が混じった気がした。
一斉に振り返った銃口の全てを圧縮して弾き飛ばす。視界を覆うほどの血飛沫が落ちると、壁に飾られた「ミシェル お誕生日おめでとう」の文字が目に入った。それから真ん中のテーブルの上にある大きなケーキと、部屋の隅に山積みの煌びやかな箱と、被復讐者の男と見知らぬ女。
人の誕生を祝う飾りづけだ。ミシェルとは、被復讐者の娘だろうか。あの女がそうなのだろうか。血縁者にしては、二人はあまりにも似ていないように思うけれど。
そんなことを圧縮屋が考えたのは数秒のこと。彼は真顔に戻りかけた口元に不敵な笑みを繕って、恐怖に顔を歪めた男を向いた。
「よお。娘の誕生パーティーの準備か?最高のタイミングだな」
殺しが楽しくて仕方がないイカれた男はきっとこんな顔をするだろう。下品で下賤で典型的な表情を浮かべた圧縮屋が一歩踏み出すと、被復讐者は奥歯をガチガチと鳴らしながら二歩下がった。
「どうして、圧縮屋が……最強の殺し屋がこんなところに!」
「お前、俺を知っているのか?」
「当たり前だ!」
「じゃあ俺を”覚えているか?”」
圧縮屋が奥歯を見せてニンマリと笑うと、被復讐者はその場にへたり込んだ。
「は?覚えて……知るか!お前のようなイカれた男」
「おうおう、寂しいねえ。俺はこの二十年、お前のことを忘れた日はなかったってのに」
「にっ、二十年?」
ここで圧縮屋はふっと真顔に戻り、
「二十年前、スラムで暮らす双子の兄を殺し、弟にその肉を食わせたことを覚えているか?」
地を這うような低音の、無機質な声で囁いた。
被復讐者は何のことかわからないとでも言いたげな顔で首を傾げた。圧縮屋はそれを予期していたように何の表情も浮かべず「ああそうかい」と呟いて、人差し指と親指を伸ばして銃の形を作った右手を男に向ける。「じゃあ、お前は」と言いかけて、不意にかち合ったシアンの瞳に言葉を切った。
被復讐者から二歩分離れた場所で、痩せた女が立っている。この部屋に入る前に聞いた声の主だ。男の様子を見るに、彼女はミシェルではない。自分と男以外の全ての人間が押し潰された肉塊となって、怯えた男がとうとう失禁して床に黄色い染みを作っているというのに、女は感情の読めない無に近い顔をしてそこにいる。
「この人を殺すの?」
水滴のようなポロポロと途切れた声が、至極当然のことを訊ねる。あまりにも現実離れした光景に頭がおかしくなっているのだろうか。面倒臭いものが居たものだと圧縮屋ーーーーアレックス・ペダチェンコはため息をつき、シルバーホワイトの前髪の間から目の前の女を観察した。
大人と言われれば大人に見えるし、子供と言われれば子供だと思う。そんな境界にいるような女だ。小柄で、ひょろっとしていて、ふっくらとした頬とくりくりした瞳は確かに女のものだが、身体はにはその性別らしい凹凸はない。纏ったオーバーサイズの白いシャツが隠しているのだろうか。着古したスキニージーンズと土汚れのついたスニーカーがどこか中性的な雰囲気を醸し出している。
見るからに一般人だ。マフィアの残酷な悪行も汚い金も、彼女を見ているとどこか遠くのものに思えてくるような。この血みどろの風景も、彼女と同じカメラフレームに収まると唐突に安物の舞台に見えて、何もかもが茶番だったと笑える日が来ると錯覚しそうになる。
「運が悪かったなあ!お前がどこの誰だか知らねえが、今日この時この場所にいたのが運の尽きだ」
妄想を振り払うようにアレックスが声を上げると、女は今日の夕食メニューでも考えるような魔の抜けた顔をして、
「……それはつまり、殺すってこと?」
「わかりきったこと聞いてんじゃねえ」
「それはちょっと困る」
「ああ?」
「まだお代を貰ってない」
白く細い指がスッと伸びた先にあるのは、テーブルの上に鎮座する大きなフラワーアレンジメント。
「私はあれの配達に来た。この人にお金を払ってもらわないと、帰れない」
「てめえ……自分は助かるとでも思ってんのか」
「助かる?」
「お前も一緒に死ぬんだよ」
「なぜ?見たところあなたは復讐屋のようだけれど、私は、」
女の声を、ガラガラ声の高笑いが遮った。排泄臭にまみれた被復讐者の男が床に横たわり、勝ち誇ったような笑みをこちらに向けている。
「ご苦労、オルガ・チケルリフ。君が時間稼ぎをしてくれたおかげで間に合ったよ」
爆撃にでも備えるように姿勢を低く整えながら言う男を、オルガと呼ばれた女は無表情に疑問符を乗せて見下ろす。
「時間稼ぎ?あなた……どうして私の名前を知ってるの?」
「知ってるさ。俺はこの国一のマフィアのボス。何だって知ってる。”あの研究所”で起こったことも、”オムニス”の存在も」
空気を拳でタコ殴りにするような足音が響いて、ライフルを抱えた男たちが部屋に突入してきた。被復讐者の男が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。男たちが一斉に銃口を構える。それぞれの人差し指がトリガーに触れ、引きーーーー
「クソが」
真っ赤な血飛沫が室内を覆った。男たちが潰れてできた肉塊が、ベシャリと粘性の音を立てて床に張り付く。天井や壁にぶち当たって跳ね返った血が自分に付かないようにサイコキネシスを器用に操作して、アレックスは血の雨の中を見回した。
「あーあ。殺しちまった。何だったんだあの女。それに、オムニスって……」
血が落ちて、微粒子となった赤血球が霧のように揺蕩う。薄く赤いベールが張った室内を見渡しつつ、アレックスは奇妙な女の印象的なシアンの瞳を思い出し、被復讐者が言った『オムニス』の続きを考え、
「は?」
血みどろの室内に立つ真っ赤に染まった人影に口をあんぐりと開いた。
「急に何?びっくりした」
聞こえてきたのはあの女の声。
「びっくりって、てめえ……何で……」
「あーあー、血まみれ。この後も仕事があるのに」
血染めの人影からブワッと煙が上がり、吹き飛ばされるように、焼き払われるように赤が消えて女のーーーーオルガのアリスブルーの髪がふわりと舞った。同時に、彼女の周りに”落ちて”いた肉塊から火が上がる。「どうしてそっちが燃えるかなあ」と彼女がぼやくと、どこからともなく現れた水が肉塊の火を止めた。
オルガがキョロキョロと辺りを見回すと、床に張り付いた肉塊の一部がボコリと次々に浮き上がる。血と肉に塗れたそれがくるくる回転すると中から財布が現れて、中の紙幣が彼女の元へ集まっていく。その中から汚れの少ないものを選んで掴むと、彼女は何事もなかったかのように部屋を出ようと歩き出した。
「おい、ちょっと待て」
当然、アレックスはそれを呼び止める。
「これは一体どういうことだ」
「どうって、何が?」
「俺はお前も一緒に圧縮した」
「圧縮……ああ、だから”圧縮屋”なのね」
視界に入っているけれど認識はしていない。そんな顔で去ろうとするオルガに舌打ちをして、アレックスは自身の能力に力を込めた。目の前の人間に意識を集中させ、圧縮のイメージを固める。オルガの足元の床が能力の余波を受けてひび割れたが、彼女が潰れる気配は一向にない。
「何なんだてめえは!さっさと死ね!」
「そんなこと言われても……私も”やりたくてやってるわけじゃない”。そもそも、何であなたは私を殺そうとしてるの。復讐代行の対象はあの男だったんでしょう?」
「そんなもん、決まってんだろ。俺が最強であるためだ!」
「最強?」
誰もが何かしらの超能力を持って生まれる世界で、二つの能力を持つアレックスは特別だった。未来を見て、念動力で思うがままに破壊して。彼の二つ名の”圧縮屋”は最強の復讐屋の代名詞として、その界隈で知らない人はいないほどだ。
だから”思うがまま”にできないものがあるのは彼にとって大問題だった。最強の復讐屋として人々の中の恐怖の象徴となることは彼の生きる意味であり、唯一の目的だったから。それをようやく叶えたというのに、こんな小さく細く弱々しい見目の女に勝てなかったとあっては立つ背がない。これまでの全てが水泡に帰すことになる。
アレックスは身体の髄に力を込めて、ありったけの能力をオルガに浴びせた。しかし彼女は倒れない。そこにアレックスのサイコキネシスなど存在せず、春の木漏れ日の下にでも居るような顔をしている。
「てめえ、どうして……」
彼の頭を不意によぎったのは、被復讐者の男が残した『オムニス』の音。
「まさかっ、オムニス……”全能の能力者”か!」
「……違う。私は、そんなんじゃない」
「じゃあ何だってんだ。俺のサイコキネシスが効かない、熱を操ったかと思ったら水を出現させた。これが一つの能力だって言うのか?」
「もう私は行くよ。お代も手に入れたし、早く帰らないと店長待たせてるから」
オルガが歩き出して彼女のアリスブルーの髪の先が揺れた瞬間、アレックスのサイコキネシスが弾けるように
霧散した。
「は?」
能力が無効化されたのかと思いきや、そうではないらしい。
世界から重力が消えたように身体が宙に浮いて、何事かと周囲を見回したアレックスの目に映ったのは崩壊していく室内だった。浮遊する家具がパーツごとに分かれていき、窓からカーテンが外れ、窓枠とガラスが離れていく。家を構成する数多の部品が繋いでいた手を離すように、全てがバラけて浮遊する。
背後に消えたオルガを探そうとアレックスは宙を蹴ってみたが、地面に足をつけていることを前提に作られている身体の向きは変わらない。宇宙飛行士は宇宙でどうやって身体を動かしているのかなんてことを考えてみて、自分がそんなことを知っているわけがないと思い至る。そのことに苛立ち、目の前を流れていく誕生日ケーキにさらに苛立ち、「オルガ・チケルリフ!」と叫んだところで唐突に重力が戻ってきた。
落ちる。バラバラになった家と共に。瓦礫に埋もれる直前、屋敷のアプローチに立ったオルガが「はあ……またやりすぎた」とため息をつくのが見えた。
彼女の憂鬱な様子が、さらにアレックスの神経を逆撫でる。こんなに強い能力を持っていて、一体何が不満なんだ。あんな風に生まれたなら何を奪われることも、失うこともなかっただろうに。
瓦礫と共に着地した瞬間、アレックスは覆いかぶさってくる障害物を能力で全て弾き飛ばした。感覚を頼りにアプローチの方を向く。血濡れた壁紙が邪魔でどかすと、そこにはもう彼女の姿はなかった。
「くっそ……」
彼女をこの手で倒さなければならない。能力をぶつけ合い、圧倒しなければならない。出会ってしまったから、触れてしまったから、白黒つけなければ前に進めない。
踏み出すと、誰かの手だったものを踏んでベシャリと耳障りな音がした。少しして、靴の中に生暖かくぬめった感覚が広がる。ブーツのどこかに穴が開いていたのだろう。アレックスは盛大な舌打ちをすると、あの日以来使っていなかったフォアサイトを起動した。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?