【長編小説】(7)生まれてきたからあなたに会えた
養護教諭はとっくに退勤していて保健室は無人だった。自分でできると何度言っても受け入れてくれない砂月に根負けする形で椅子に座った私は、消毒液を探す彼の背中を眺める。理科教諭の幽霊の方は変なものについてそれなりの知識を有している様子だったが、彼はどうだろう。
「あの人体模型、一体何だったんでしょうか」
ようやく消毒液とガーゼを探し当てた砂月が「あったあった」とこちらを向く。
「あれはテケテケさん理科室バージョンですよ」
「……理科室、バージョン?」
「テケテケさん。知りませんか?」
「都市伝説の、上半身だけで追いかけてくる化け物としか」
確か、列車事故か何かで上半身と下半身が切断された人が、自分を見殺しにした人への恨みから襲いかかってくるとかそんな話だった気がする。両腕で移動するその歪な追跡から逃れられなかった場合、確か、
「追いつかれなくてよかったですね。捕まったら縊り殺されてるところでしたよ」
「くびり……え?」
「あれ、あなたにとっては願ってもない状況でしたか?僕、もしかして余計なことしました?」
「いや、助けてくださって本当に感謝でした」
縊り殺されるというと、あの悍ましい姿にのしかかられて樹脂の手で首を締め上げられるというところか。そんな強烈死亡風景はごめんだ。死ぬ時は静かに、一瞬でこの世を去りたい。
私の返答に「よかった」と短く返す砂月は本当にそう思っているようだった。胸を撫で下ろす仕草をして、確かに強張っていた筋肉が弛緩するのが服の上からも見て取れる。何をそんなに緊張していたのか不思議に思っていたら「朝陽さんは何に憑かれてるんですか?」と突拍子もない質問が降ってきた。
「はい?憑かれ……え、私、その話しましたっけ?」
「その話とは?……普通の人に見えないものが見えるのは、そちら側のものと繋がりがあるからなんですよ。だからてっきり、僕と同じで何かに憑かれているのかと」
「ああ、なるほど、そういう」
それを知っていたから、砂月宵に憑いている幽霊は私が買ったロープに何か憑いてたかと訊ねたのか。今さらになって忘れかけていたことの答えが見つかって、少しだけスッキリした気分になる。
「朝陽さんはどういう状況ですか?困ってません?」
「困って、と言うと?」
「僕は同意の上というか、互いの利害が一致して悪霊を憑けてますが、そんなものはレアケースでしょう?僕に憑いてる彼も何だか少し強引なところがあるので、もしかして一方的に憑かれてるのかなと思いまして」
「一方的……」
と、言えば確かに一方的だろうと迅を思い浮かべる。急に押しかけて(しかも数年に渡って私を監視していて)家に居座って、こちらの同意を得ずに好き勝手に振る舞っている。(その好き勝手は行き着く果てで私に還元されるような類のことだけど)
しかし恐らく砂月が危惧しているような状況とは少し違う。迅の行動力にはいつも引きずられて大変だし、彼の私を真人間にするという計画は私の願いを真正面から破壊するものだが、それを悪とは思えない。
「まあ、一方的ではありますが、困ってはいませんよ」
答えると、砂月は難しい顔をして唸り、黙り込んだ。彼が私の腕を治療するテキパキとした動作音だけが室内に響く。脱脂綿に消毒液を含ませて、傷口を消毒しつつ入り込んだ砂つぶを払う。綺麗になった傷にガーゼを当てて、固定のために上から包帯を。
「……なんか、大袈裟じゃありません?」
「普通ですよ。落ち着くまでしっかり清潔に保たないと、この面積で化膿したら大変です」
「それはまあ、そうでしょうが」
「ほら、反対の腕も見せてください」
砂月に腕を引っ張られ、手当が完了した腕を見る。包帯は一部の歪みもなくピッタリと、傷口に痛みを与えるほど強くなく、しかし簡単に取れるほど緩くなく巻かれている。まるでプロだ。包帯巻き選手権があったなら、彼はけっこう上の方に食い込むだろう。
自然と「包帯を巻き慣れているのかな」と思ったが、そんなことは決して口に出さない。例えば彼が本当に巻き慣れているとして、そんなものが良い記憶なわけがないから。
「幽霊の消し方、教えますよ」
消毒の流れに走る痛みを思っていたら、脱脂綿に染み込んだ血と土の色に硬い顔をして砂月が言う。玄関と言えど室内でどうしてこうも土がつくのかと私は不思議に思ったが、土足で歩いていた立待を思い出して思考を止めた。
「……どうして生徒はああして土足で上がるなというところに土足で上がるんでしょうね」
「消し方、知りたくないんですか?」
「いや、そういうわけでは」
「彼らは本来この世に留まるようなものではありません。自然の引力というか、重力のような物理現象によって、死んだ者の魂はここではないどこかへ引き込まれていきます」
こちらの返答を待たずにつらつらと話し始めた砂月に、思わず「……はぁ」と気のない相槌を打ってしまった。何を思ってこの話を始めたのかわからないが、こんなリアクションをとっては気分を害されると思いきや、
「だからこの世に留まるには繋ぎが要る。僕の場合はこれです」
話の切れ間に合わせたようなタイミングで包帯を巻き終えた砂月が、ジャケットのポケットから万年筆を取り出した。木製の持ち手にヒビが入って、キャップに添えられていただろう装飾が剥げて木目が剥き出しになっている。
「就職祝いに父がくれた、最初で最後のプレゼント」
「……最後?」
その万年筆に何があったのか考えていたら、「そんな顔しないでください」と彼は困った顔をした。そんな顔とは一体。私は今、どんな顔をしているのだろう。
「この万年筆自体はどうでもいいんですよ。つまり僕が伝えたいのは、生前に強い思い入れのあったものを媒介に幽霊はこの世に留まるということです」
「あなたにとって、これはとても大切なものだった?」
「まあそうです。したがって、幽霊を消したい時はその繋ぎを探し出して破壊すればいいということです」
淡々と説明を済ませて万年筆をポケットにしまう彼は、それにまつわる記憶を話すつもりがないのだろう。こんな気になるアイテムを出しておきながら何も語らないのはどうかと思ったが、そこに食い下がるほど私は彼に興味を持っていない。
繋ぎ。そういえば黎子もそんなことを言っていた。彼女は神に近い存在になりそれを必要としなくなったようだが、彼は、迅は、きっと違う。
「じゃあ、その万年筆を破壊すればあなたは砂月さんから出ていくってことですね?」
確認の意味を込めて問うと元理科教諭の霊は「そう来たか」と言いながら、何もかもが想定内のような笑みを浮かべた。
「てっきりあなたは僕と同じだと思ったんですが、違いました?」
「確かに私も幽霊に憑かれてますが、彼は復讐なんて考えてません。普通の……口うるさいお母さんみたいな幽霊です」
「口うるさいお母さん……いや、そうではなく。幽霊ではなく、あなた自身のことですよ、朝陽未来さん」
「私?」
「あなたは学校にいい思い出がないタイプの人間でしょう?キラキラしているクラスの中心を、仄暗い教室の端から眺めているようなタイプだ」
「ちょっとそれけっこうな悪口だって自覚してます?」
遠い事実なので言い当てられたことに驚きも悲しみもしないが、こうもあっけらかんと言われるとちょっと引く。一応のパフォーマンスとして半目で睨みつけて指摘すると、「ああ、失礼しました」と砂月もまたパフォーマンスでしかない謝罪をした。(いや、今話しているのは中身の幽霊だから、厳密には砂月宵ではないけれど)
「学校で働こうなんて人間は、大なり小なり学校にいい思い出を持っているものです。僕もそうでした。楽しい思い出があって、そこに先生がいた。自分もあそこに行きたいと……でも、あなたは違う。だから僕と同じだと思ったんですよ」
「違うのに、同じなんですか?」
「そうです。今の僕と同じ。やり残したことを精算するために、わざわざ待遇も労働環境も悪い学校に戻ってきたんでしょう?」
つまり彼は、私が生徒だった頃の何らかの憎しみを精算するために、端的に言ってしまえば復讐のためにここにいると思っているわけだ。それは違う。恐らく、違う。
確信めいた顔で言い切る彼に、私は否定も肯定も返せなかった。ヘタをすると私は、数ヶ月前に出会った彼よりずっと私というものをわかっていないかもしれない。
前職を離れて再就職先を探していた。生まれたいと願ったわけでもないのに生きていて、生きるために働かなければならないことは不服でしかなかったが、それでも自然と仕事を探した。そしてここの求人を見つけた。研究職だった自分ならできると思った。他にも前職のスキルを生かせる仕事などいくらでもあったが、私はここを選んだ。
理由はわからない。
「気配でわかります。あなたに憑いている幽霊は善のものでしょう。そしてあなたとは馴染んでいない」
消毒液やガーゼを素の引き出しに片付けた砂月は、振り返ると私の手を取った。両手を両手で包み込む。重なり合った手の奥で、境目で、黒い何かが身じろぎをした気がした。
「そんなものはあなたの障壁にしかなりません。困っているでしょう?ならそれの繋ぎを探しなさい」
屈んで視線を合わせてきた彼の右の眼孔にムカデが一匹這うのを見た。この言葉を発した思考体が死んだ男の霊なのか、その器となっている男なのかはわからない。
一つだけ確かなのは、彼らは何かを求め、しかし手に入れることのできなかった人間であるということ。だから復讐という発想が生まれる。何かに阻まれたという現実があるから。
故に、やはり、私と彼らは同じではない。
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