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【長編小説】(8)永遠よ、さようなら

 高校に上がって初めてバイトをした時からずっと問い続けてきたことがある。これは答えの出ない命題であり、世界の謎で、超常現象だ。どうしたって証明しようもない、誰も答えを教えてくれない、そして誰も答えがわからないこと。
 なぜ、クレーマーは決まって店主が不在の時に現れるのか。
「だから、俺はこの辺の名物が湯葉だって聞いたから、それが食いたいっつってんだよ」
 恐らく仕事でこの土地を訪れたのだろうサラリーマン風の中年男がレジに居座り続けてかれこれ三十分が経とうとしている。あやめは男の頭の向こうにある壁時計の針を眺め、藤の帰りを待ち侘びていた。
「ですから、当店ではそのようなものの取り扱いがないので」
「『そのような』って何だよ、ちゃんと言え!」
「うちでは湯葉は売ってないです」
「何だその態度は、ふざけやがって」
「ご期待に添えず申し訳ございません」
 なぜだかこの手の人間はいつの時代も都会も田舎も関係なく一定数存在する気がする。高校生の時も、大学生の時も、大人になった今も、同じような経験をしている。
 こういう人間は相手をぶちのめしたくて難癖をつけている。だから対応における最適解はしおらしく傷ついた顔をして謝罪を繰り返すこと。そうとわかっていてもそうできないのがあやめだった。
「てめえ、ちょっと美人だからって調子に乗りやがって」
「私が美人でも不細工でもここに湯葉がないのは確定事項なので、他店をお探しください」
「他に店がねえんだよ!どこもシャッターばっかりで俺がどれだけ歩いたと思ってんだ」
「さあ?存じませんし、田舎なのでシャッターは仕方がないことかと」
「いい加減にしろ!責任者を出せ!」
「店長でしたら買い出し中です」
「じゃあてめえが土下座しろ!今すぐ!」
 お客様第一のチェーン店ならここで土下座をするべきなのだろうが、ここは個人経営の小さな弁当屋であり、店主の藤はこの手の客を冷たくあしらう方針だ。あやめがバイトを始めた頃に彼がクレーマーに対してあまりに塩対応だったので大丈夫かと訊ねたら、「お客様は神様ですをしてるから、ああいう人間が世に蔓延るんだよ」ともっともなことを言われた。以来、あやめも彼の方針を実践するようにしている。
 こんな日に限って藤の帰りが遅いことを呪いつつ、今すぐムキムキの強面男に転生したい衝動に駆られる。いっそ藤になり変わるでもいい。いつもなら彼が光属性を反転させた何人も人を殺したことのあるような形相で「お引き取りください」と凄むだけでこういう客は尻尾を巻いて逃げ出すというのに、あやめがいくら冷たい顔を作ろうと中年男は一向に帰る気配を見せない。
「早くしろ!土下座!」
「お客様、土下座の強要はカスハラですよ」
「カスだと!てめえ、誰に向かって口聞いてんだ!」
「いや、カスタマーのカスとハラスメントのハラですよ」
「訳わかんねえカタカナ並べてんじゃねえ!」
 もうどうしたって平行線だ。面倒くさいのでもう無視して藤の帰りを待とうとあやめが思った矢先、なぜか会話からワンテンポ遅らせて怒りを爆発させた男が拳を振りかぶった。
 殴られる。咄嗟に目を閉じて奥歯を噛み締めた。しかし男の拳は一向に頬骨を砕かず、「ううっ」と微かな呻きが聞こえて薄目で窺うと、
「えっ」
 男が両手で口を押さえていて、指の隙間からムカデやクモが這い出ていた。
 もがき体をくねらせる男の向こう、隅の影の中に佇む災が、右手の人差し指を男に向けている。災がふいっと指先で弧を描くと、男は踵を返し逃げるように走り去っていった。
「……災、何したの?」
 問うと、災は指先をくるくると動かし、不気味なくらい屈託のない微笑みを浮かべた。
「何もしてないよ。ただ、指を動かしただけさ」
「とぼけないで」
「ああしなきゃ、君はあの男に殴られていたよ。本気で殴るつもりだったみたいだから、奥歯の何本か砕けてしまったかも」
「何もしないでって私、言ったでしょう?」
「言ったね。でも、僕は承諾していない」
 ずっと抱いていた違和感が膨れ上がり、名前を得る。
「昨日、あの老人を見て気づいたんだ。この世界のそこかしこに害悪が存在する。戦国の世が終わって、大きな戦争も終わって、貧しく飢えた民が飽食の時代を迎えても、それらは変わらずここにある。だから、ただ君の言いなりになって待っているだけじゃ君を守れない」
「……何を、言ってるの?」
「君を守るのは僕って話だよ」
 これは羽化だ。蛹の中でドロドロに溶けて意思を失っていたものが、感情を抱いて羽を伸ばした。世界に背を向けていた頃にはもう、戻れない。
「災、あなた……」
 言いかけたところで「ただいま、あやめちゃん」と藤の明るい声が響いた。
「なんかオッサンが血相変えて走ってったけど、大丈夫?なんかあった?」
 もう少し早く帰ってきてくれればという感想は通り過ぎた南風でしかない。
「ただのクレーマーです。湯葉が食べたかったとかで」
「この店は地元のお客さん向けだからね、そんなありきたりな名産品使ったって売れないよ」
「そう説明したんですが、理解を得られませんでした」
「それでどうしたの?変なことされなかった?」
「殴られそうにはなりましたが……」
 藤の足元の踏まれるギリギリのところを、ムカデが機械的な足取りで去っていく。
「急に体調を崩されたようで、帰りました」
 男の口から転がり出た虫たちは、何食わぬ顔で店を後にした。

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