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【長編小説】(4)生まれてきたからあなたに会えた

 今日が日曜日の授業参観の振替休日だということをすっかり忘れていたのは私の落ち度に違いないが、だからと言ってこっちの世話を勝手に焼いているだけの幽霊にあれこれ小言を言われる筋合いはないと思う。
「お前はいっつもそうだよな。どっか抜けてるというか、アホというか、やる気ないというか、とりあえずもう少し生きてる自覚を持て」
「だから謝ってるじゃん。ていうか、別に私が早起きしなきゃならなくてもそうじゃなくても迅には関係ないでしょう?」
「大アリだっつうの。こっちはお前よりずっと早起きして朝飯作ってんだ」
「頼んでない」
「でも早起きは早起きだ」
「幽霊って睡眠必要なの?」
「……必要、ないが……」
 丁寧な暮らしの朝食フルコースを挟んだ向かいでガツガツとご飯をかき込む彼の分の食事を誰が負担しているのかとは思っても言わないことにしている。睡眠が必要ないということは代謝がないということだ。ならば食事も必要ないんじゃないかと思うけれど、それを指摘するのは流石に鬼すぎるだろう。
 箸の進まない私を「さっさと食え」と迅が急かすのは彼と出会ってから二ヶ月余りの恒例行事。それに私が「朝は食べられないんだって」と応えるのもまた然り。
「そんなんだから元気が出ねえんだぞ。無理にでも食え」
「別に、元気じゃなくてもいい」
「それはお前の都合だろう。俺には由々しき問題だ。だから食え」
「自己中……」
 曰く、彼は私を「真人間」にするために姿を現したという。自ら何かをせずに事態が好転するのを待っていたらしいが、私が首を吊ろうとしたので流石にまずいと声をかけたとか。何でも私が真人間にならない限り彼はこの世界に留まり続けることとなり、魂の浄化も転生もならないとか。
 魂の浄化なるものが何なのかよくわからないけれど、気になったのは事態が好転するのを「待っていた」のところ。前後の文脈から察するに、私を監視していたことになる。
 私の頸動脈をぶっ潰して脊椎を完膚なきまで破壊するはずだったロープを彼に燃やされてイライラしていた私の問いに答えた彼の「数年前にお前をやっと見つけてな。ずっと見てたぞ」に背筋が凍りつくのを感じて、「ドコマデミテタノ」と思わずカタコトになった私に「ずっとっつったらずっとだ。朝から晩まで、朝起きてから眠るまで。お前は恐ろしいほど病的な顔をしてるからな。いつか死ぬんじゃないかって危惧してたら、その通りになりやがった」などとどこか誇らしげに語った彼にカラテチョップをお見舞いしたあの日から二ヶ月も立ったのかと思うと感慨深い。
 現時点で彼についてわかっていることは少ない。幽霊であること、おそらく太平洋戦争で死んだ誰かだということ、転生を待つ身であること。
 それから、彼が望みを叶えるためには私が真人間に昇華し、日々を楽しみ謳歌するような人間に生まれ変わる必要があること。それは文字通り、私が生まれ変わらなければ叶わない幻のように思う。
「ほら、全部とは言わねえから、食えるもんだけでも食え。好きなもんないのか、こん中に」
「……焼き鮭の油っぽくないとこなら」
「じゃあ食えよ」
「骨取るの面倒くさい」
「はあ?」
「目がしょもしょもしてよく見えないし、何か手がプルプルしてるから絶対骨取れない。取り残した骨が口に入ったら最悪。だから食べない」
「お前はよぉ……」
 生きる気力のない人間に魚の骨を取る気概などあるはずない。もうどうしたって彼の願いは叶わない。他の誰かで代わりが効くなら早々に他の人を真人間にしに行けばいいという意味で言ったつもりだったが、迅は盛大なため息をついて私の前から焼き鮭の皿を取った。
 皮を剥ぎ、背骨を取り、身の間に伸びている魚特有の細く多い肋骨を丁寧に除いていく。皿を目の高さに持ち上げて右から左から切り身を睨め付けて骨が残っていないことを確認し、「ほら、食え」とこちらへ。どうして彼は諦めないのだろう。
「他人が口つけた箸で触れた食べ物はちょっと……」
「お前、本当にいい加減にしろよ」
 迅のこめかみに浮いた血管がピクピクと引き攣る。この手の幽霊を怒らせると家具が浮いたり窓が割れたりしそうだが、彼が怒っても何も起きない。頬を掴まれ無理やり口を開けさせられ、骨を取った焼き鮭をねじ込まれるくらいだ。
 東雲迅は幽霊なので人間にはない能力を持っているが、使うのを見たのは一度きり。出会ったあの日、私の首に括ったロープを焼き切った時の炎。私の皮膚の微かな表面さえ傷つけず、熱も痛みも伝えず、ロープだけを灰にした。
 彼には気に入らないものをことごとく破壊する力がありそうな気がするが、あれから二ヶ月、どんなに彼の期待を裏切ろうと彼を怒らせようと、その力が使われることはなかった。魚を焼くときはちゃんと魚焼きグリルを使うし、部屋を出る時は壁をすり抜けたりせず扉を開けて行くし、宙に浮いて移動したりしない。まるで生きている人間のように振る舞う。
 そうあることが、彼の望みであるように。

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