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【連載小説39】もう戻らない破壊の葬送

無機質なステンレスのテーブル、所狭しと並ぶガラス器具と、無骨な機械の数々。そこにある全てがあの日のままで、世界がぐるりと変わってしまったというのに、この実験室だけ時が止まったようだとレイチェルは内心溜息をついた。
耐燃性の実験台の上を指先で撫でるダンカンの横顔はどこか過去を尊んでいるようで、歪に吊り上がった口角は200年の渇望を思わせた。「さあ、始めなさい」と彼に促されたが、レイチェルの意識は部屋の隅に捨て置かれた水槽の方へ向かっていた。
120cm規格の、分厚いアクリルでできた水槽。中には大型の爬虫類が暮らせるように土と朽木と日向ぼっこ用の石と、生きた植物が入っていたはずだが、今は空っぽ。住人の不在を叫ぶように、歪んだ向こう側を透過している。

「あなたが、あの中身を捨てたの?」

問うと、ダンカンは退屈そうに答えた。

「ああ。そうだ。ヴィクターが居なくなってからしばらくそのままになっていたが、中身が腐って異臭を放ち始めたのでな」
「真ん中に入ってた石は?彼の、お気に入りだった」
「それも一緒に外に放り出した。雨風にさらされて、もう残っていないだろう」
「そう……」

水槽の真ん中に置いたマダラ模様の石の上で、ヴィクターはよく紫外線ライトの日向ぼっこをしていた。首を伸ばして光を感じながら、ゆったりと瞬きをして、やがて目を閉じる。かくりと項垂れて、そのまま微睡の中へ。
200年前の景色が、昨日のことのように蘇る。何でもないと思っていたそれらは、過ぎ去ったからこその輝きを放って、今の自分をチクリと刺す。今の自分を過去に誇れるのかと、どこかの誰かが問いただすように。
水槽を起点に想起される過去の風景を見つめていたら、「早く始めるんだ、レイチェル」とダンカンに急かされた。レイチェルは周囲を見回し、脳内で既に組み上がっている設計図に必要なものの現在地を確認した。すぐにでもウイルス開発に取り掛かれる状態だが、彼に聞いておきたいことがある。

「あなたが作ったその宿主の遺伝子を破壊する遺伝子コードを、人間に特異的に感染するウイルスに乗せてばら撒いて現存する人間を殺し尽くしたとして、その後の惑星は私たちも生きられない環境になると思うのだけど」
「ワクチンを作ればいい。人類が天然痘の撲滅に至るまでの歴史を再現するんだ」
「あれは撲滅まで3000年かかってる。科学でウイルスに打ち勝つより、私とあなたが死ぬ方が早そうだね」
「いいや、私も君も、3000年生きる」
「は?」
「ホラ・イニティウムによる生命の延伸は、それほどということだ」

栄光を謳うように、ダンカンは話し始めた。

「アルファをはじめとするミセルマウスのイニティが全く衰えないことに、私は誰よりも早く気づいた。通常、ミセルマウスの寿命は1年であるにも関わらず、アルファは3年経ってもピンピンしていた。そこで私は気づいた。ホラ・イニティウムには生物の寿命を伸長する性質があると」

まるで英雄譚を声高く称える吟遊詩人のように。ミュージカルの主演のように。

「試しに、目的生物の情報を乗せる部分を空白のままにして、ハエの成虫に施術してみた。そのハエはハエのまま、1年経っても飛び続けていた。だから私は同じ処置を自分に行った。それから200年が経ったが、肉体年齢は2歳程度しか老いていない。単純計算で、私はあと4000年生きることになる」

それは彼にとって祝福なのだろう。喜び、讃え、享受するものなのだろう。一つの国が国としての自我を持ち、まとまり、文化を育んで栄華を極め、やがて静かに沈んでいくまでの時間を、1人きりで生きることが。
ダンカンに再びの催促を受け、レイチェルはようやく白衣に袖を通した。棚からビーカーを、試験管を、マイクロピペッターを取り出して実験台の上へ。冷凍庫の扉を開けると、偽物の生物を作るのに十分すぎる全てがそこに詰まっていた。
機械的な動作の中で、彼女はいつか出会った老いた鹿のイニティのことを思い出していた。それから、自分を殺してくれと縋ったイノシシのイニティと、石になったものたちの墓場。200年という時間の中、答えにたどり着いた者たち。

「あなたは私の”思想”を”受け継いだ”と聞いたけど……」

ウイルスの膜を作るタンパク質、脂質、それからDNAのパーツと、それを繋ぎ合わせる酵素。全てが入った密閉容器を手に取ると、凍った温度が手のひらを焼いた。自分も、あの白い部屋でこんな温度で眠っていた。コールドスリープ・カプセルに触れたヴィクターの手には、これと同じ感覚があったのだろうか。
必要なものを実験台の上に並べながらダンカンに言葉を投げると、呑気に椅子に座っていた彼は口髭を指先で弄びながら「ふうむ……」と息を吐いた。

「サフィラスから聞いたのかね?」
「彼を知ってるの?」
「ああ。人間を守るとか言って、心底邪魔な男だ。奴はどこにいた?」
「それを聞いてどうするの?」
「当然、殺しに行くのだよ」
「なぜ?どの道あなたの計画が成功すれば、人間は勝手にみんな死に絶えるのに」
「いいや、奴は死なん」

だから殺しに行かなければならない。何としても、あの首をこの手で掻き切らなければならない。
そう断言するダンカンからは隠しきれない狂気が滲み出ていて、レイチェルは閉口してビーカーの中に等張液を注ぎ入れた。コポコポと液体が呼吸をする音だけが、しばらくの間この実験室の唯一の音となった。

「私はお前の思想を受け継いだ。この惑星を人類の支配から救済しなければならない。そのために人類を終わらせなければならない。我々は進化に失敗した。リセットが必要だ、と」

椅子から腰を上げたダンカンは、部屋の片隅に置かれた標本棚へ。そこにはかつてこの惑星に存在した生物の骨やホルマリン漬けになった内臓、生きている姿を再現した毛皮の塊なんかが置いてある。その中から手のひらサイズの箱を一つ取り出して、レイチェルの手元へ。
真っ黒な合成樹脂でできた密閉タイプの箱が彼の手によってゆっくりと開かれていく様は、この世の真理が暴かれる瞬間のように思えた。中にあるのはこの世の恐怖を凝縮した何かで、開けてしまったら、もう元には戻れない。
恐ろしいものがそこにあるとわかっているのに、レイチェルは彼の動きから目を逸らすことができなかった。眼球が磁力で引かれるように固定されて自由がきかない。叫びをあげることも、顔を背けることもできない。
箱の中には、透明な樹脂の台に広げられた人間の右手の骨があった。小さな子供の手だ。

「レイチェル、君ならわかるだろう。私は彼女に誓った。必ずや、この仕事を成し遂げると。世界を変えると、誓ったのだ。君があの家で、失った家族を想ったように」
「……あなたも、何かを失ったの?」

問うと、薄気味悪い笑みがこちらを向いた。
ダンカンは箱の中から右手の骨の標本を取り出し、空箱をゴミ箱へ落とした。そのまま射熱滅菌装置の前へ。透明な装置の中に標本をぞんざいに放り入れると、蓋をしてスイッチを入れ、射熱温度を最大に設定した。
骨を覆っていた樹脂が溶け落ちる。あらわとなった骨に熱が通り、表面から火が起こった。燃えていく。かつて生きていた誰かの痕跡が、消えていく。

「この喪失は起点に過ぎない。単なるきっかけ。過冷却における振動の一つと同じだ。悲しみは先に進むための燃料として使った。もう残っていない。全ては通過点でしかなかった。しかし、それも全て今日で終わる」

きっとあれは彼の大切な誰かの骨であっただろうし、彼が最初に踏んだ一歩は、間違いなくその喪失への愛でできていた。気泡の一つも入らないように丁寧に作られた標本の表面を見て、レイチェルはそれを確信していた。
しかし、今の彼はそれを何の躊躇いもなく捨ててしまう。射熱装置の中で消え入りそうに燃え続けている骨のかけらに見向きもせず、実験台の上に目を向けて「エンベロープはつけるのか?」などと訊ねてくる。200年という歳月は、何よりも大切なものの存在さえ希釈してしまうということなのだろうか。

「もちろん、つけるよ。絶対に免疫系を回避できる構造を作らないと」
「楽しみだ。早く全てを終わらせよう。そしてお前と私で理想郷を作るのだ。人類の失敗はここで終わる。お前もそれを、望んでいた。だからホラ・イニティウムを作ったのだろう?」
「……さあ、どうだったかな」

早急に終わらせることには賛成だ。この長ったらしい物語を急いで終わらせなくては。読者もそろそろ飽きてスクロールを止める頃だろう。
レイチェルはぐるぐると思考を廻らせ、この旅の終わりにふさわしい最適解を探していた。誰も傷付かず、誰も苦しまない、誰もが当たり前に穏やかな日々を遅れる世界の形をイメージして、試験管の中にヌクレオチドの溶液を一滴落とした。


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