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【長編小説】(1)生まれてきたからあなたに会えた

 なぜ、生まれてきたのだろう。
 なぜ、生まれてこなければならなかったのだろう。
 いつの間にか生まれさせられていた私は、今日も存在し続けるための義務を背負って生きている。
 生きるためには働かなければならない。働くには、誰かと関わりを持たなければならない。他者と関われば傷つくことも苦しいこともある。それらは自分で何とかしなければならない。なぜなら、生きるために必要なことだから。
 では、どうして私は生きているのだろう。生まれたいと願った覚えはない。生み出してくれと乞うた過去はない。押し付けられた生誕の悲劇の代償を、なぜ私が払い続けなければならないのだろう。まるで親の借金のために売り払われた子供のようだ。
 寝る前、布団に横たわってこんなことを考え始めてしまえば、眠れぬまま夜を明かすことになるのは必至。予想通り一度も目を閉じることなく白み始めた空を認め、枕元に置いたタバコに手を伸ばした。
 タバコ一本で寿命が五分三十秒縮むらしい。つまり寿命を一年縮めたいならタバコを二十四万三千本くらい吸えばいい。日本人女性の平均寿命が八十七歳。今の私が二十七歳だから、残り六十年の寿命をタバコで帳消しにするためには千四百六十万本のタバコが必要な計算になる。
 千四百六十万本の始まりに火をつけながら暗算を始め、終わった頃には一本吸い終わっていた。五分三十秒という数字は副流煙を計算に入れてなさそうな気がする。ならば、この締め切った寝室ならばもう少し多く寿命が縮むだろうか。
 分を六十で割ると時になる。時を二十四で割ると日になる。日を三百六十五で割ると年になる。この場合、閏年は条件に入れない。中高理科でよく出てくる思考をしてしまったから、一睡もできなかった今日も仕事に行かなければならないことを思い出した。憂鬱だ。出勤時間まで残り四時間。その間に千四百六十万本を目指すには一本あたりどれくらいの時間で吸えばいいだろう。
 目標に向かって走り出そうと二本目のタバコに火をつけたところで、西向きの掃き出し窓が勢いよく開かれた。せっかく室内に満たした一本目の煙が開け放たれた窓の向こうに拡散していく。代わりに吹き込んできた夏の緑を含んだ風が、否応なしに朝の訪れを告げる。
「お前は朝っぱらからまたそんな不健康なことをして!」
 寝転んだまま咥えていたタバコを、男の骨張った手がむしり取る。毎度毎度、彼は私から取り上げたタバコの火を握る潰すがどうして火傷しないのだろう、などとは考えない。それよりも次のタバコに火をつけることが優先だ。出勤まで時間がない。
「おい、こら。無視すんな。そしてまたタバコを吸おうとするな」
「まだ四時半だよ。起きるには早い」
「とか言ってお前、寝てねぇだろ」
「知ってるなら邪魔しないでよ」
「不眠とタバコがどう関係するってんだ」
「睡眠ゼロでフルタイム勤務は地獄すぎるから、回避方法を考えてた」
「で?」
「タバコ一本で寿命が五分三十秒縮むから、それを利用して出勤までに寿命を終わらせることにした」
「馬鹿野郎!」
 私の手からタバコの箱を、畳の上からカートン箱を取り上げて廊下の方へぶん投げる。彼は乱暴でガサツだ。ついでに人の気持ちなどガン無視であれこれかましてくれるから始末に負えない。
 半分以上が税金でできている私の生活必需品が無様に転がっているのを救出するべく起きあがろうとしたら、分厚い手に阻まれ布団の上に押し戻された。こめかみの部分に指先くらいの穴の空いた軍帽が頭の横に落ちてきて、彼の枯れ草のように乾いた髪がパサりと広がる。茶褐のくたびれた軍服姿が覆い被さってきたと思ったら、厳つい視線が体を貫通した。仄暗い紫を底に宿した彼の瞳に、疲れた顔の私が映り込んでいる。
「起きるには早いってんなら少し寝とけ。二時間は寝れるだろ」
「こんなときめきシチュエーションで眠れないよ」
「クソが。茶化すんじゃねぇ」
 太平洋戦争の頃のものだと思われる無骨な軍衣姿と少女漫画のツンデレ男みたいな反応が不協和音を奏でる。恥ずかしげに視線を逸らす彼はこの手の掛け合いに不慣れな様子。彼が生きていた時代にはこういう文化がなかったのだろうか。
 投げられたタバコの無念を晴らすべく恥じらう彼に視線を突き刺し続けると、居た堪れなくなったのだろう大きな手のひらが私の視界をすっぽり覆った。
「ほら、寝ろ」
 生きていない彼の手のひらを温かく感じる自分は命の終わりに片足を突っ込んでいるのだと信じたい。いっそ彼が死神で、誘われるまま眠りにつけばそのままあの世に行けるとかだと最高だ。そこまでが無理なら、人の命を奪う系の妖怪だとありがたい。
 あれこれ妄想を巡らせてみるも、彼は死神でも危ない妖怪でもないことを知っている思考は一過性の喜びを偽ってすぐに白けて沈んでいく。彼の名前は東雲迅。神様みたいな「なんとかのみこと」とかって名前でなければ、神でもなく、ただの幽霊だ。
 ただの、あの戦争に行って帰って来れなかった誰かの幽霊。
「……寝たか?」
 しかも、特殊能力の一つも持ってやしない。目を閉じて言葉を発さず規則正しい呼吸を繰り返せば、私が眠っていると誤解するほど平凡だ。
「今日の朝飯は甘塩鮭を焼いたのと、ナスと油揚げの味噌汁と、ピーマンのおひたしときゅうりの糠漬けだ。ちゃんと食ってから仕事行けよ」
 耳元で囁かれた朝食メニューに「そんなに食べられないから!」とツッコミを入れそうになって必死に堪える。旬の夏野菜を積極的に使う辺りは私の健康を考えてのことか、それとも旬の食材は大体安いからか。
 なぜかこの幽霊は私の世話をやく。コーンフレークさえ喉を通らない朝の弱さだと何度言っても品行方正な朝食を用意する。加えて掃除も洗濯も庭の草むしりもするし、この夏はついに家庭菜園を始めた。
 そんな彼に、私は決してお礼を言わない。労いもしない。一見すると私のために、私を思ってやっているように思えるこれらの行動の全てが、他でもない彼自身のためのものだと知っているから。
 どこか夏の陽光が似合う軍服姿の彼との出会いは、一昨年の春の半ばに遡る。桜の花の最後のひとひらが舞い散らんという頃。目新しい日常に人々が慣れ始めて、もう何も生まれないと諦める時分に彼は唐突に現れた。以来、私は彼に、健康的な生活を強いられている。生きていたくないから、早く死にたいと願っているのに。

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