【長編小説】(6)生まれてきたからあなたに会えた
幽霊やら換気扇の中に蠢く白いウネウネしたもの、教室の隅に溜まってる黒いゴワゴワしたものなんかが見え始めたのは数年前のこと。迅と黎子の話を要約するに、恐らくそれは迅が私を見つけたことをきっかけとしていて、彼と関わりを持っていることによる何らかのエネルギーによって続いているものらしい。
それ以前の私は、当然ながらそんな非科学的なものを見ることはなかった。オカルトや霊的な話は信じていなかったし、幽霊と呼ばれるもののこちらから触れられないとか壁を通り抜けるなんて話を総合するとそれは物質じゃなくてエネルギー体だろうとしか思ってなかった。つまり、私の理解ではこの世に存在する思考体は原子で構成されていることが必須要件であり、ゆえに一般的イメージの幽霊など存在するはずがないと確信していて、それを裏付ける彼らとは無縁の日々を過ごしていた。
それなのに、どうして。
「いやああああ!来ないでえええ!」
どうして、私は得体の知れないものに追われて学校の廊下を走っているのだろう。
放課後、今日使った実験器具を片付けるために理科室に行った。使用済みビーカーやら試験管やら駒込ピペッターやらを洗っていく間に洗剤が切れて、ストックの場所がわからずあちこちの棚を開けて回った。どうせここは違うだろうと開けずにいた、どう見ても人体模型が入っていそうな大きな棚以外は全て開けたが見つからず、ならばこの人体模型入れが消耗品ストック棚になっているのかと思って開けた。四十人クラスで囲んで見るには不便な模型を使って授業をするより、プロジェクターで3D模型を映した方が合理的だと知っていたから。
しかしその棚の中には人体模型が入っていた。古めかしい樹脂製の男性型。開けた瞬間剥き出しの眼球と目が合って少し驚いて、ああ違ったかと思って閉めようとしたら。
棚は、閉まらなかった。
黄ばんだ樹脂の指が扉を掴んだ。予想だにしない事態に固まったらぼとりと音がして、目の前から剥き出しの眼球が消えていて、視線を下に動かすと、輪切りになった人体模型の胴体の、十二指腸の断面が見えた。上半身はその下。バキバキと固まった筋肉をほぐすように両腕を動かし、両手のひらを床について上半身を浮かせるとーーーー
ーーーーひと呼吸先に踵を返した私を追って、凄まじい速度で直立二腕走行を始めた。
「無理無理無理無理マジで無理!ほんと無理!絶対無理!嘘でしょほんと、」
理科室そばの北側階段を駆け降りて、南北に長い校舎一階を駆け抜ける。下校時間をとうに過ぎた生徒用玄関は無人。いっそ誰かいてくれればなどと考えつつ、職員室に助けを求めることに考え至った時には既に南側階段を最上階まで駆け上がっていた。
後ろを張り付いてる足音(手音?)の速度は変わらない。走っている内に酸素不足に陥った脳がこれは全て幻だと言ってきたので振り返ってみるも、やはり上半身だけの人体模型が追ってきているのに変わりはない。
「ほんと、いい加減っ……何が目的だぁ!」
最上階の廊下を南から北へ。再び北側階段を駆け降りる。やっぱり人体模型(上半身)はついて来ている。階段の踊り場を回るたびに視界の端に黄ばんだ樹脂の表面がチラついて、恐怖のあまり職員室がある二階をまた通り過ぎて一階まで降りてしまった。
ガッデム。次の南側階段では必ず。そう自分に誓って一階を駆け抜ける。生徒用玄関の下駄箱、一年生用、二年生用……
「うわっ!」
「え?」
下駄箱の間から急に人影が現れたのに対応し切れず、ぶつかると思いつつ身を捩る。向こうも私に気付いたようで驚きの声を上げて、それから、ひらりと私をかわした。
「ぐえっ!」
向こうが避けてくれるなら変に体勢を崩さなければ良かったと思った時にはもう転んでいた。ツルツルのエナメル質の廊下が不幸中の幸い。これがコンクリートとかだったら上腕外側の皮膚が全てズル剥けになっているところだ。
「ええっと……未来ちゃん?大丈夫?」
戸惑い半分、心配半分の顔でこちらを見下ろしたのは学ラン姿の男子生徒。長めの前髪を苺のモチーフ付きのヘアゴムで上げた、全体的に丸っこい童顔の少年。どこか軽薄で陽気なこの声には聞き覚えがある。
「あー……あなたは確か、二年の」
「立待だよ」
「ああ、そう、立待くん」
「どうしたの未来ちゃん。そんな走って」
「いや、ちょっと、運動をおおおおお!」
「わっ!え、何?」
この二十七歳高校職員らしからぬ行動を生徒にどう説明したものか悩みつつ起き上がったところで、視界に入ったのは立待の後ろを全速力で近づいてくる人体模型の上半身。あれに捕まるとどうなるのか全くわからないが、もしかしたら尻子玉の一つでも取られるかもしれない。そもそも河童が奪うというその尻子玉なる体の部位がどの臓器に当たるのか不明だが、取られないに越したことはないのは事実。
人体模型が迫る。私に到達するよりその前に立つ立待に触れるのが先だ。起き上がって彼を退けるのは間に合わない。彼に説明するのも、私の行動を不審に思ったのだろう立待が振り返るのさえ。
これは走馬灯。いや、違う。スポーツ選手が稀に体験するゾーンというやつだろうか。
全てがスローモーションに見える。緩慢な世界の中で思考だけがクリアだ。それに合わせて体も動けばいいものを、まるで脳と体が切り離されたみたいに動かない。
回る思考の中、後悔だけが醸成されていく。そもそも私が理科室から逃げ出さなければ、こんな風に生徒を巻き込むこともなかった。立待の尻子玉が抜かれることはなく、私の尻子玉が抜かれてそれで全ては終わっただろう。やはり尻子玉が何なのかはわからないけれど、それが魂的な何かだったら最高じゃないか。そこで全てを終われただろう。私は変死体として発見されて、学校の七不思議にノミネートされることはあっても残念な自殺者の烙印を押されることはない。
全てが、丸く収まっていた。
それなのにどうして、私は逃げてしまったんだろう。
後悔ばかりが膨れ上がる。人体模型が近づいてくる。立待が振り返る。あの悍ましい造形は、若い彼の心に傷を残すだろう。
ああ、最悪だ。どうして私は、いつもーーーー
ガシャんと耳をつんざく騒音がして、人体模型の上半身が壁にぶち当たってバラバラに砕けた。同時に振り返った立待の目に映ったのは、何故か生徒玄関で人体模型を足蹴にした理科教諭の姿だろう。人体模型の上半身が迫り来る光景じゃなくて良かった。
「……えっと、砂月先生、何か嫌なことあった?」
まあ、困惑する光景に変わりはないけれど。恐怖がないだけマシだ。
顔を引き攣らせる生徒を前に、砂月はしれっと「学校のこういう古いものをいつまでも取っとくところ、俺、嫌いなんだよね」と嘯く。
「だからって人体模型を蹴り飛ばしちゃダメじゃない?てか何でここで蹴ったの」
生徒のもっともな返し。さて、彼は一体どうするつもりなのだろう。こんなツッコミどころ満載な状況を。
「捨てようと思ってここまで担いできたら、下半身忘れて来ちゃってさ。イライラしてやりました」
「ちょっ、下半身忘れたとか、ウケる」
良かった、おウケあそばした様子だ。
「でも蹴っ飛ばしちゃダメでしょ。壁に傷とかついたら弁償しないとなんじゃない?」
「大丈夫だよ。この学校ボロくて至るところ傷だらけだから気づかれない」
「そういうの先生が言っちゃダメなやつ」
「先生だって人間だから、言いたくなることもある」
上手く誤魔化せたのか判別がつかない状況を、砂月が「てか、いつまで残ってるの。早く帰りなさい」と強制シャットダウンに持ち込む。「はーい」と軽い返事をした立待が自分の靴箱に向かおうとして、立ち止まり、振り返り、「未来ちゃん、大丈夫?」ひょこひょここちらにやってきてしゃがみ込む。
そこで私は自分が倒れたままなのにようやく気づいて、瞬間、羞恥で顔が熱くなった。きっと真っ赤な顔をしているだろう。恥ずかしい。「大丈夫です」と勢いよく立ち上がったら、服に擦れた腕が痛んだ。
「うわっ、痛そう」
それを見た立待が目を瞬かせる。コンクリートの床を想定した場合のズル剥けは回避されたものの、摩擦で表皮がところどころ剥げている。
「保健室、いきましょうか」
カゲロウでも掬い取るように私の手を取って砂月が言った。保健室、つまり治療が必要と脳内で変換した途端に、転んだ時に打ちつけた体のあちこちが痛み出す。こんなに全速力で走ったのは数年ぶりなのも考慮に入れると、明日は全身筋肉痛と打撲の痛みに悩まされるのが確定だ。何という日だろう。今すぐ消えてなくなりたい。
ため息をつきつつ「はい」と答える。ふと視線を上げるとニマニマ顔の立待がこちらを凝視していた。その思考は誰の目にも明らか。
「いや、立待くん、違いますからね」
「えー何がー?俺何も言ってないけど?」
「あなたの思考は百パーセント誤りです。今すぐ捨ててください」
「いや、俺は間違いじゃないと思うね」
こちらの主張は全面拒否で、「俺、応援してるよ!」と言い残して走り去る。靴を履き替えないのかと思ったら彼は既に外履きだった。じゃあなぜこんなところを歩いていたのか気になるところだが、それより何より、彼の誤解の方が問題だ。
「ちょっ、立待くん!」
「朝陽さん、早く行きましょう」
「いや、それより彼、絶対勘違いしてましたって!」
「勘違い?いいじゃないですか、好きにさせれば。箸が転がるのも恋バナに変換するお年頃です」
砂月に手を引かれ、そもそも彼がこんな触り方をしてきたのがそもそもの問題だと思い至る。八つ当たりも甚だしいと自覚しつつも手を引くと、「あれ?もしかして僕に悪霊が憑いてると知って怖くなりました?」と。
「それは、その……」
そう言えばそんな設定があったな程度にしか思ってないけれど、言われてしまうと少し怖い。自分の死地へ、復讐のために戻ってきた幽霊だ。何をするかわからないし、学校という大きな対象の中に私も入っているかもしれない。
と、そこまで考えて。彼が引っ込めようとした手を握り留めた。恐ろしいものから距離を取るという発想は、まるで生きていたい人だから。
「あなたは、どっち?」
問うと、砂月は一瞬鳩が豆鉄砲でもくらったような顔をして、それからニンマリ笑うと私と視線を合わせるように長身を屈めた。
「先日は採点を手伝ってくれてありがとうございました。おかげでけっこうしっかり仮眠が取れて、どうにか危機を乗り切れました」
「じゃあ、」
「そうです。僕は砂月宵本体の方。でも同時に、あなたが首を吊りたいタイプの人間であることも知っています」
人の良さそうな笑みを取り繕って人を試すようなことを言ってくるのが気に食わなくて、「……それはつまり?」とじっとりとした視線を演出すると、彼は口の中で何やらモゴモゴと言って、
「僕は砂月宵であり、同時に過労死した前任の理科教諭でもあるんです。同時に存在している。僕らは溶け合っているけれど、しかし自我は個別にあり、内側で問題を相談し合ったりします。でもやっぱり同じものだから記憶も感情も共有している」
「あの日は幽霊が分離されてたみたいですけど?」
「ああ。彼は自由奔放だから。死ぬとみんなああなるんですかねぇ」
そんな「夏場のバナナはすぐに黒くなって困る」みたいなテンションで言われても困る。と、思っていたら砂月はこちらの思考などお見通しみたいな顔をして肩を窄めて見せて、
「そんなことはさておき、早く保健室に行きましょう」
こちらから掴んだ手を握り返して、彼の脚の長さではあり得ない鈍足で歩き始めた。どうやら私の歩調に合わせているようで、短足と思われるのは癪なので最大早歩き速度で歩いたら体のあちこちが痛んだ。
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