【長編小説】(5)生まれてきたからあなたに会えた
真人間には太陽光が必要とのことで夏の午後の屋外に引き摺り出された私はきっと古式ゆかしい吸血鬼のように灰となって消えるのだと思ったら、迅に手を引かれてしばらく歩いても焼け落ちるどころか熱中症になることさえなかった。山裾の少し高い場所にある我が家の近隣は他より平均気温が低いようで、おまけに山の木々と土が不要な湿気を吸着するのか吹く風は夏の割に温度が低く涼やかだ。
どこに行くにも時間がかかるあの家の立地は便利とは言い難いが、人里離れた場所ゆえに外に出ても滅多に人に出くわさないのは利点だと思う。こんな風に取り憑かれた幽霊に無理やり散歩に連れ出されても、誰かに見られて一人パントマイムをしていると思われずに済むから。
「ねえ、迅。もう帰ろうよ」
「まだ家を出てから一時間も経ってないだろうが」
「一時間歩けば十分過ぎだよ。疲れた」
「お前は体力が無さすぎる。だからいつまで経っても真人間になれないんだ」
体力と真人間の因果関係がわからない。体力がなくても真っ当に美しい日々を過ごしている人なんて五万もいるだろうに、彼は至極当然のことみたいに言う。
「体力がなくて何をするにも疲れるから、そんな無気力になるんだ。できることが増えればやりたいことも自ずと出てくるだろ」
「それは……一般的な人はそうかもしれないけど、私は別に、やりたいことなんかない」
「じゃあお前も一般的な人間になれ」
「あなたのために?」
「そうだ。俺が転生するために」
転生、と言うことはまた生まれたいということか。どうして彼はそんなことを望んでいるんだろう。生まれたって、何もいいことなんてないのに。
「迅は生まれ変わったら何になりたいの?」
「何だ、俺に興味が湧いたか」
「いいや、全然」
「何だそりゃあ」
「でも、転生したいっていうのには少し興味がある。どうして?何になりたいの?」
「どうしてって……人間になりたいに決まってるだろ。ゾウリムシに生まれ変わりたい人間なんざそういねえだろが」
なぜ人間に生まれることの延長線上にゾウリムシがあるのかよくわからないけれど、どうしても生まれ変わらなければならないなら私はゾウリムシを選ぶ。目が覚めたら人間の足元に行って、ぷつりと踏まれてそれで終わり。
「どうして人間に生まれ変わりたいの?」
天の中天を過ぎた太陽が、世界のそこかしこに影を落とす。田んぼの畦道を進むと首を垂れた稲穂が風にざわめき、まっすぐな葉脈の間の影が刻一刻と形を変える。夏の青い空気に目を細めた迅の横顔はどこか遠くを見据えていて、視線の先を追うとくっきりと真っ白な入道雲が山の頂を通過するところだった。
世界の輪郭をあらわにする透明で強い光の中、彼の纏う茶褐の軍服だけが色褪せて見える。大きな背中が、時間に置き去りにされた子供のように少し悲しい。
「あの夏……俺が死んだ、あの夏。夏が来るたびに思い出す。だから、だ」
ずっと私の手を引いて少し先を歩いていた彼が、不意に立ち止まり、こちらを向いた。しわくちゃの軍帽の向こうの空に、爆撃機の黒い影を見たような気がした。遠目には毛虫のフンくらいにしか見えない無数の粒を落としていく。少しして、空気に衝撃が走る。地平が燃え上がり、誰かの悲鳴が木々にこだまして、顔に当たる生ぬるい風に生き物が生きたまま焼かれる匂いを捉える。
鮮明な幻にハッとした。目の前に生きている人間のように立つ幽霊の彼が歩いてきた長い道のりの中、あの光景は確かにあって、彼はいまだに地続きだ。説明になっていない彼の言葉の、ぶっきらぼうで足りない声の端に、その意味を深く感じ取る。
「今の自分を終わらせたいってこと?」
「ああ、そうだ。普通だったらぐしゃっと死んでそこで終わるはずだったのに、お前が自殺願望の廃人のおかげで……くそっ」
「それって私のせいなの?」
「それはっ……その……」
「ぐしゃっと死んでって、迅はぐしゃっとなって死んだの?」
「……お前、何で死に方の話になるとそんな生き生きするんだ」
げんなりとした顔をする彼の理解は少し違っている。私は彼の死に方に生き生きしたわけではない。そもそも今の自分が生き生きしているとは思わないけれど、そう見えるなら理由は一つ。
彼の願望。それがまるで、私のそれと同じだったから。死にたいわけではない。殺したいわけでもない。ただ、自分が自分として存在し続けるのが受け入れられない。早く自分を終わらせたい。この、空虚で詰んでる、この存在を。
迅、あなた、もしかして。そんなことを言おうとした私の思いを感じ取ったのか、ふっと真顔になった彼はこちらに向かって一歩踏み出した。私もまた彼の方へ。互いに恐る恐る距離を詰めて、手を伸ばし、触れる、直前。
何かに背中の真ん中を掴まれたと思ったら一気に迅が遠退いて行った。正確には遠退いてるのは私で、畦道を一気に背中で進んだと思ったら、四辻のところで何かにぶつかって停止した。
「未来ちゃん、日中に会うのは久しぶりね」
振り返ると青みがかった瞳のまっすぐな黒髪が美しい妙齢の女性が、お手本のような笑顔を浮かんべて私を抱きしめていた。髪をかけた片方の耳で、ガマズミの耳飾りがくるりと揺れる。
「月村、さん」
「嫌だわぁ未来ちゃん。黎子って呼んでって言ってるじゃない」
「……黎子さん」
「それはさておき、こんなところでどうしたの?何か嫌な気配がしたのだけれど……」
白い着物姿に、上品で整った顔立ち。古き良き日本の女性を絵に描いたような彼女は「女性」であるが「人間」ではない。この四辻に住む(存在する、と行った方が正しいか)幽霊。数年前に突然変なものが見えるようになった私が最初に出会った話の通じる「変なもの」であり、それについていろいろ教えてくれたのがこの月村黎子だ。
不自然な箇所で言葉を切った黎子が、私が引かれて通った道を睨め付ける。美人がきつい顔をするとより一層美人で怖いななどと考えていたら、向こうから近づいてくる声がした。
「おーい、未来……お前、急にどうし」
追いかけてきた迅だ。こちらもまた変に言葉を切って急に足を止めたと思ったら、
「お前っ、離子塚の化け女か!」
焦った様子で私に手を伸ばしたが、避けた黎子によってすんでのところで届かず。
「くそっ、そいつを返せ!」
「返せとはとんだ言い草ですこと。殿方はいつもそうやって女を物みたいに扱って」
地団駄を踏んで追ってくる迅をひらひらとかわす黎子は空を飛べるし、それを日々生かすタイプの幽霊だ。稲穂の上を駆けるようにふわふわと飛ぶ彼女は、迅の手から逃げながらも彼が追いかけて来れるように畦道沿いを飛んでいる。親切なのか意地悪なのか。そして私は彼女の手の中で落ちたら少し痛そうな高さで振り回され、痛いのはごめんだと肝を冷やしている。
「殿方云々は今関係ねえだろうが!」
「変だと思ってましたの。普通の人間に急に私の姿が見えるようになって、しかも硝煙のような胸糞悪い匂いを纏っていて」
「え?私、臭いの?」思わず口を挟んでしまったら「そんなもん今はどうでもいい!」と迅の怒号が足元から飛んできて、「未来ちゃんはいつもお日様みたいないい匂いがするわ」と黎子がさっきの発言が無かったみたいなことを言った。
「あなたが関わったから、未来ちゃんは見えるようになってしまったのね」
「だったら何だ!」
「まあ、あなたご存知ないの?私たちのような存在は生者と関わるべきではない。関わってしまえば、割を食うのは生者の方なのですから」
「んなことは」
「知っているなら、追いかけないでくださいまし」
ゆらゆらと左右に揺れながらゆっくりと上昇していく。彼女の腕の中はまるでゆりかごのようだと思ったら、細く冷たい手のひらが頬に触れた。
「いや、ちょっと!片手とか流石に落ちるよ」
「私が未来ちゃんを落とすなんてヘマをするはずないでしょう?」
「高いって、怖い!」
「じゃあ私に掴まっておきなさい。大丈夫よ、決して離さないわ」
「でもぉ……」
高所恐怖症というわけでなくとも女性の細腕一本で支えられてのこの高さは流石に怖い。どうやって降りようかと足元を見下ろすと、迅が懐から拳銃を取り出すのが見えた。
まあ軍人の幽霊で軍服を着ているのだからその装備もあったって変じゃないよねとか、じゃあずっと銃刀法違反状態だったのとか、でも幽霊には法律も何も関係ないかなどと考えているうちに銃口がこちらを向いた。撃ち落とそうということだろうか。
「さあ、未来ちゃん。遊びましょう。今日は『シゴトガエリ』ではないのでしょう?時間あるわよね?何をしましょうか。おはじき?折り紙?あやとり?」
照準を定めるべくゆるゆると動いていた銃口がぴたりと止まり、しばらく。拳銃を下ろした迅と目が合った。
「黎子さん、降ろして」
「え、どうして?」
「迅が呼んでる」
「迅……あの軍人の亡霊のこと?彼はダメよ」
「どうして?」
「私、あの人のこと知ってるもの」
そこから何かを語ろうとした黎子だったが、何を思ったのかゆらゆらと下降を始めた。ダメだと言った迅のすぐそばに降り立ち、しかし私の腕を掴んで離さない。試しに少し引いてみたけれど、人間の女性としてはあり得ない、もっと言えば男性でも、そもそも人間としてあり得ない力でびくともしない。
「あなたは東雲迅。朝陽家で世話してもらってた孤児ね」
私への説明も兼ねているのだろう。迅に向かって言い放つ。
「薪拾いやら炊事洗濯やら、コマ使いのように働かされていた痩せっぽっちの子供。大人になって、朝陽の当主に赤紙が来て、代わりに戦地へ送られて戻らなかった。そんなあなたがどうして未来ちゃんに憑いてるのかしら?」
「……俺の生い立ちは、関係ない」
「そうかしら?ここにはもう朝陽の末裔はこの子だけ。ゴミのように働かされてゴミのように捨てられた、あなたがこの子に憑く理由なんて一つしかないとおもいますけれど?」
「お前が考えていることは何もない」
「嘘おっしゃい。あなた、この子に復讐するつもりでしょう?あの家の人間があなたにしたことを、この子に償わせる気に決まってるわ」
「そんなこと」
ない、とまで彼は言い切らなかった。私の方を見て、目が合って、何かを考えて、口を引き結ぶ。
彼が私にしたことを考える。いつだって彼は私の希望の逆を進んだ。首を吊ろうとしたのを止めて、要らないって言ってるのに無理やり朝食を口に突っ込んで、出たくないと拒んだ手を掴んで外に引き摺り出して。私の嫌なことばかり。
「未来ちゃん。あれと一緒にいては危ないわ。いつの時代も男はみんな私たち女を蔑ろにする。好き勝手やって要らなくなったら捨てる。だから私と一緒に遊びましょう。お人形もすごろくも、シャボン玉だってあるわ」
「いや、私、遊ぶなら拳銃乱舞オンラインの続きを……」
「まあ、拳銃だなんて物騒なこと言わないで。女の子は綺麗に着飾って、しとやかに座敷遊びをするものよ。こんな目の下に隈なんか拵えて、痩せちゃって、睡眠も食事も許されていないなんてあんまりだわ」
「隈も痩せてるのも私のせいなんだけど……」
「いいから、あなたは私と一緒にいなさい。まずは自分を整えて、他のことはそれから考えましょう」
手を引かれる。黎子の背後の田んぼの風景に、ぽっかりと穴が開いた。向こうに華やかな木製の大きな平屋が見える。あれが彼女の家だろうか。
迅が言った「離子塚」の言葉が引っかかる。確か、子供と離れ離れになって怨霊と化した母親の霊を供養するために建てられた塚だとか。その記憶もすっかり風化して数十年前に塚は壊され田んぼになったとか、そんな話があったような無かったような。
「離子塚はもう随分前に取り壊された。それがなぜ、まだこの世に漂っている」
迅の硬質な声が響いた。見た目だけのハリボテのように思っていた彼の元軍人という設定が確固たるものと確信させる威圧的で排他的な声だ。少し驚いて彼を見ると、背後に向かって吹く風を額に感じた。
「私はあなたのような低級霊とは違いますの。多くの人の目の中で、私は様々形を変えましたわ。時には怒り狂う母の妖として、不遇の中で死した哀れな霊として、そして伝承が風化する中、曖昧ゆえに抱かれるようになった畏怖に由来する神性……」
風は吹いているのではなく吸い込まれている。ここではないどこか。あの蜃気楼のような景色の世界へ。
「霊であり、妖であり、神である。私にもう繋ぎは必要ない」
優しさを物質化して固めたみたいな顔で微笑む黎子が「さあ、行きましょう、未来ちゃん」と。
彼女と共にあの世界に行ったらどうなるんだろう。きっと人間は一人もいない。多分私と彼女だけの世界。よくある物語のように食べることも眠ることも必要とせず、楽しいことばかりをして永遠の時間を過ごすことになるのだろうか。苦痛も悲しみもない心穏やかな世界で、彼女と一緒に折り紙をしたり、おはじきをしたりして。
彼女は私が抱えている違和感を知っている。ここにいたくないという衝動を知っている。だから自分について来ると確信しているのだろう。腕を掴む手が緩んだ。
「未来ちゃん」
離子塚。その原型は、国のため、お家のためにと出産装置にさせられた女が体を壊して我が子を抱けぬまま死んだことに由来するという。
爪の先まで美しい彼女の手を振り解き、私は走って、迅の後ろへ。予想外の行動に黎子は驚いた顔をしたけれど、もっと驚いていたのは迅だった。
「おい、お前」
「私、おはじきの遊び方知らないし、折り紙は鶴しか折れないから」
「……そんな理由で?」
困惑しつつも私と黎子の間に立ち塞がる彼は死してなお軍人というところか。いや、赤紙が来て戦地に赴いたということは職業軍人では無かったか。「私がなんでも教えてあげるわ」と微笑む黎子を警戒しつつ、いつでも動けるように重心を低くする。
「黎子さん、私はあなたの子供じゃないよ」
言うと、黎子はどこか傷ついた顔で「知ってるわ」と唇を震わせた。
「知ってるわよ。あなたはあの子じゃない。あなたの母君は別にいて、幼いあなたをここに置き去りにした。おかしな人。せっかく生まれてきてくれた命を、手の届かない場所に捨て置くだなんて」
「そう。私のお母さんはどこかに行っちゃった。だから黎子さんが私に何かをする義務なんてないよ」
「それは違うわ。全ての母には、全ての子供を抱きしめる義務がある」
ふっくらとして艶めいた黎子の頬に、痩せて乾いた皮膚の幻が重なる。きっとそちらが彼女の本当の姿なのだろう。真っ白で上品な着物の上にはボロ切れ同然の肌着が、丸く整った指先には爪が剥がれてささくれ立った皮膚が。
「お腹の中から、私のいる世界に出てきてくれた。私たちのもとに来てくれた。生まれる場所を自分で選べない、それでも生まれてくれたあの子たちを、幸せにできないでどうするの。生誕が悲しみの始まりだなんて、あんまりだわ」
ポロポロとこぼれ落ちる透明な涙が、落下と共に赤く色を変える。地面に落ちたのは粘性のある真っ赤な血の雫。それは現実の土と馴染むことなく、蜃気楼のように揺れて消えた。
両手で顔を覆って泣き出した黎子を前に、迅が張り詰めていた警戒を解く。彼の全身から力が抜けるのが背中からでも見て取れて、顔を覗き込むと眉尻を下げて典型的な困り顔を浮かべていた。思わず笑いをこぼしてしまった私を見逃さず、すぐに冷徹な顔に戻ったけれど。
「ありがとう、黎子さん」
嗚咽を漏らす彼女に届くように少し大きめの声で言ったら、震えていた肩がぴたりと止まった。そろそろと顔を上げる彼女の片方の眼孔は死体のそれのように落ち窪んでいて、やっぱり黎子さんは美しいと思った。
彼女の瞳の表面の青は、きっと今までに流した涙の結晶だ。だからあんなに透き通っていて、見てると悲しくなるのだろう。ぴたりと合った視線の上で、彼女は何かを感じ取ったのだろう。こくりと一回、深く頷いた。
迅の影から出て、彼女の方へ一歩を踏み出す。手を掴まれてクンと引かれて、振り返ると迅が意味ありげな視線をこちらに向けていた。骨張ってカサカサした手のひらを握り返す。
「同情で腹は膨れないけど、でも、ありがとう」
「お前、もうちょっと言い方ってもんが……」
私の言葉に慌てふためいた迅は、横目にちらちらと黎子の様子を窺う。ついさっきまで敵対していたくせに、こういうところを気にするのが彼らしい。
「どうしようもなくなったらあなたの世界に行かせてね」
「おいい!」
頭のてっぺんにゲンコツを食らうだなんて迅と一緒にいなければ遭遇し得ない体験だろう。かなり手加減なしの一発に両手を頭に当てて痛みに耐えていると、夏草のさざめきと共にクスクスと控えめな笑い声がした。
「あなたの望み、叶うといいわね」
光の粒を纏った黎子の姿が透けていく。言葉の内容的には迅に向けられた囁きと思われるが、彼女が彼にそんなことを言うわけがないし、けれど私に言われるような心当たりもない。
黎子の言葉の意味を考えあぐねていたら、彼女は再び笑い、そして消えた。のどかでどこか物悲しい田園風景に開いていた空間の穴が閉じて、そこに何も存在しないことを証明するように山から吹き下ろす風が通り抜ける。高い山の裾に差し掛かった太陽が、地平を鮮やかに照らし出した。
こんな別れのシーンには気の利いたドラマチックな最後の言葉の一つでもあるべきかと思うけれど、現実なんてそんな大層なものではない。むしろこのくらいが丁度いいだろう。そう思っているのはどうやらこの場で私だけのようで、傍の迅を見上げると「何だったんだ、あいつは」と不完全燃焼の顔をしていた。
「さあ、もう散歩は終わりにして帰ろう」
「はあ?お前、あそこから全然歩いてないだろう」
「そんなことないよ。ここまで移動してきたじゃん」
「離子塚の化け女に引っ張られてな」
「化け女じゃない。月村黎子さんだよ」
訂正の意味で言うと迅はバツの悪そうな顔をして「ああ、そうだな」と視線を彼女が消えた場所に移した。緑の中を乱反射する陽光に、少し眩しそうに目を眇め、「誓って、俺は復讐のためにここにいるんじゃない」と続ける。
それは、月村黎子の話が事実であることを暗に示していた。
「確かに、あの頃は少し思うところがあった。どうして俺だけ土間で飯を食わなきゃならないんだとか、あの家の子供たちが遊んでいる間に俺だけ働かなきゃならないのかとか、俺だけ学校に行けないのは何故だとか、俺が戦場に行く代わりに助かるこいつに生きる意味はあるのかとか」
「かなり思うところあったね」
「でも、もういいんだ。結局死ねばみんな同じだし、それに……」
去り際の黎子の姿に重なったあの無惨な姿が本当の彼女だったとしたら、あの隙間なく美しい彼女の姿は彼女の理想だったりしたのだろうか。生前手に入れられなかったものを、物理法則からさえ解放された死後に成した。だとしたら。
目の前のこの男は、どうだろう。
孤児で、暮らしていた家では冷遇されていた。一般的な生活水準が今よりずっと低い時代だ。幼少期の栄養状態が劣悪だったのは目に見えている。そんな子供がこんな大きく育つものだろうか。人の顔にはそれまで歩んだ人生が反映されるという。思うところありまくりの生涯だった彼が、こんな邪気のない整った顔になるだろうか。
「それに、今はちゃんと居間で飯を食わせて貰ってるからな」
ニッカリと笑う、彼の本当の姿はどんなだろう。平和資料館なんかに展示されている写真にあるような、痩せっぽちで小柄で、どこかひしゃげた顔をしている少年だったりするのだろうか。凄惨な時代で報われない日々を過ごした彼の目に、私の姿はどう映っているだろう。
頭ひとつ半高い位置から平然と言ってのける彼に「それ、あなたが勝手にしてるだけでしょう」とツッコミを入れると、本日二度目のゲンコツが降ってきた。こんなのは全時代的な家庭風景のアイコンに他ならず、昭和を誇張した表現に過ぎないと思っていたけれど、もしかしたらそれは私の勘違いだったのかもしれない。
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