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【長編小説】(13)別れを告げた半身を探して

 ハッとして目を開けると、埃っぽい梁の木目が見えた。屋根裏部屋の、三角の天井。空に面した窓から差し込む朝日が、室内を舞う埃を白く照らしている。
 ああ、いつもの目覚めだ。いつもの屋根裏部屋、いつものカビ臭いベッド、窓際の萎びた観葉植物と描きかけの油絵。
 目覚めの悪い夢を見た。脳内で未だ再生され続けている崩壊の感覚と目の前の静かな朝のアンバランスに眩暈がしそうだ。こういう日は丸一日寝るに限る。アレックスは持ち上げかけた頭を枕に落としたが、視界の隅に入ったものに驚き飛び起きた。

「なん、だ……これ」

 窓のない壁に巨大な水槽がはめ込まれていて、南国の浅瀬のような珊瑚礁の中をカラフルな魚が泳いでいる。目を擦ってみても消えない。それは確かにそこにある。こんな現実離れしたもの、ここにはなかったはずなのに。
 よく見ると室内のそこかしこに違和感がある。理路整然と並んでいる家具は順番が変わっているし、簡素な机は繊細な彫刻が施された重厚なものに、真っ直ぐな木製の椅子は柔らかそうな革張りに進化している。
 ここは確かに拠点としている老夫婦の家の屋根裏だが、いつもの屋根裏ではない。そう確信した瞬間、夢のように脳内を転がっていたものが夢ではなかったと気づく。
 アレックスは階段を転がり落ちるように降りた。一階の床を踏んだ瞬間、ソーセージとパンを焼く香りが空腹を撫でる。走ってリビングへの扉を開けると、古く埃っぽい老人の家はアンティーク調の木目と金の装飾で統一された小洒落た空間に変貌を遂げていた。
 元の間取りと家具配置を尊重しつつ、全てを新しく作り替えたような室内に思わず「なんてこった……」と声を漏らすと、三つの視線がこちらを向いた。一つはここの家主である認知症の老人、それから、

「あら、やっと起きたの。お寝坊さんね」
「店長、私はもう帰りたいんだけど」
「ダメよお。ここをこんな素敵にしたのはオルガちゃんなんだから、ちゃんと礼くらい受け取らないと」
「いや、別に……いつも通りやりすぎただけだし」
 忘れもしないシアンの瞳が無表情でこちらを一瞥して、
「じゃあ、私はこれで」
 席を立とうとするオルガを、「まあまあ、朝ごはんがもうすぐできるから」と老人が引き止める。
「家をこんなに綺麗にしてくれて、お嬢ちゃんはすごいねえ」
「だから私は、意図してこうしたわけじゃなくて」
「ありがとうねえ。飴ちゃんをあげよう」

 状況を理解していない老人の澱みない笑みに気圧されるように飴を受け取ったオルガがソファーに座り直し、「助けろ」とでも言いたげな視線をこちらに向ける。アレックスは反射的に能力を発動しようとしたが、それより早く予期したオルガに能力を消された。まただ。彼女の前では戦いの入り口すら成り立たない。
 奥歯を噛み締め、大きく息を吸い込んだところで背後から「朝ごはんできたわよ」と声がした。見ると目一杯に皿を乗せたトレーを持った老婆が立っていて、ぐらぐらと揺れる手元でスープの皿が今にも床にぶちまけられそうで、アレックスはシワシワの手からトレーを奪い取った。

「だから、一度に全部運ぼうとするなっていつも言ってんだろ」
 苛立ちを露わに言うと、老婆は「いつもありがとうねえ、アニーちゃん」と微笑んだ。
「あなたが来てくれてから色々安心だわ」
「うるせえ。いい加減ちょっとは警戒心とか慎重さとか持ちやがれ」
「大丈夫よお。アニーちゃんがいてくれるもの」
「クソが……ここに置くぞ」
 ダイニングテーブルの縁より少し内側にトレーを置く。
「ありがとう。並べるのは私がやるから、アニーちゃんは座りなさいな」

 老化ゆえの震えのある手で朝食を並べていく老婆にハラハラしつつ、ずっと見守ってやる義理もないと振り返ったらボケっとした顔のオルガと目があった。横に座った女のような男が、面白いものでも見つけたような顔をしている。

「オルガちゃん、本当にあれが有名な圧縮屋なの?」
「多分……この前配達に行った家の人が言ってました。サイコキネシスも使えるようですし」
「そうなの。何だか……意外といい子なのね」
 心外甚だしく「うるせえ!」とアレックスが叫ぶと、「何よ、照れ隠し?かわいいわね、『アニーちゃん』」と男が微笑んだ。
「だいたい何なんだてめえは!勝手に上がり込みやがって」
「あら……」
 男はそこで言葉を切り、何かに耳を澄ますような顔をして、
「でも、ここはあんたの家じゃないでしょう?」
 確信めいた顔で言った。
「はあ?」
「あんたは彼らの孫なんかじゃない。”アニーちゃん”じゃない。親を失い、スラムに流れ、たまたまこの家の前に行き着いただけよね?」
「てめえも俺を調べたってか」
 アレックスが奥歯を噛み締め唸るように問うと、
「”も”?……いいえ。調べてなんかいないわ。あんたの”声”を聞いたのよ」
 不敵な笑みを浮かべた男が続ける。
「アレックス・ペダチェンコ。オルガちゃんと戦いたい思いは、諦めた方がいいわ。この子は人に能力を向けたりしないし、この子と戦ってもあんたの”最強”は証明できない」
「……てめえ、何で俺のことを知ってる。何者だ」
「アタシ?アタシはアロン・コミンスキー。オルガちゃんが働く花屋の店長をしているわ」

 アロンがウインクをして部屋の隅を示す。綺麗な楕円に整えられた爪の先を追うと、艶のある木目調の棚の上に花瓶があった。割れたはずの花瓶。そこに生けられた、バラバラに砕けたはずの鮮やかな花。

「その花、アタシが選んだのよ。ハイセンスでしょう?驚いた?」
「んなことはどうでもいい。俺の質問に答えろ」
「アタシはテレパシスト。こんな風に、」
『念話で言葉を届けるだけじゃなくてね、』頭の中にアロンの声が響いて、アレックスは首の後ろに鳥肌が立つのを感じた。脳を直接撫でられるような感覚に本能的な嫌悪感を抱く。
「相手の思考を読むこともできるわ。それで、道だったすれ違った男が不穏な思考を持ってこの家を探しているのに気づいたから、追ってきたのよ。せっかくの新規客が死んでしまったら残念だからね」
「こじつけがましいな。本当は俺を探してたんじゃねえのか」
 こちらの警戒心を感じ取ってか、アロンは『心外だわ』と念話を発した。『あんたみたいな恥ずかしい男と関わりたくなんてないわよ』とアレックスにしか聞こえない声で続けるので、「このクソ男女が。何が言いてえ」と食ってかかると、淡い色のグロスで輝くアロンの唇が動く。
「そうね……例えば、都市伝説のように語られる”全能の能力者”ーーーーオムニスをあんたがずっと探していたこととか、それを倒して自分が都市伝説になりたいと思ってたこととか……まるで思春期真っ盛りな思考で恥ずかしいわ。あんた何歳?」
「うるせえ!」
「へえ、28歳なの。アタシと同年代じゃない。それなのにエレメンタリーの学生みたいなことを考えてるの?」
「黙れ!」
 苛立ちを露わにするアレックスの前髪がふわりと浮いた。能力を使えることに気づいた彼がアロンを絞り上げようと考えると、途端に能力がぴたりと消える。
「クソが。回りくどい事してんじゃねえ」
 ジロリとオルガを睨め付けると、薄くふわっとした唇がかすかに開いて、
「直線ルートだよ」
「さっさと勝負しろ、俺と戦え!」
「嫌だよ。もうやめてよそういうの」
「嫌なら俺を殺せばいいだろ。さっさと能力を使え」
「だから……」
 オルガが小さくため息をつく。
「超能力を他人に向けるのは、嫌なの」
 その言葉に、背筋をゾワッと撫でる感覚があった。思い出したくないものを思い出して、二度と抱かないと決めた感情が溢れてくるようだ。アレックスは「はっ」と短く嘲笑を発し、
「同じことを言ってた奴を、俺は知ってる」
 無力に、無抵抗で、無知のまま死んでいった双子の兄を思い出す。
「そいつは死んだ。呆気なく、強欲な奴らに根こそぎ奪われて死んだ。人に能力を向けたくないだとか、そんな甘ったれたことを言ってたら死ぬ」
 ずっと名前がつかなかった感情が、言葉と共に溢れ出す。
「この世界は弱肉強食だ。強い者は富み、弱い者は何もかもを奪い取られる。家も金も家族も……自分さえも。お前みたいな平和主義の偽善者は、いつか必ず負けて死ぬぞ」

 無表情で黙っていたオルガが、ゆっくりと口を開き、モゴモゴと動かしてまた閉じる。何かを言いかけて、それをためらって飲み込んでいるようだ。どっちつかずの様子にアレックスが苛立ったところで、「それはいいね」と雨垂れのような声がした。
 聞き間違いかと耳をそば立てたアレックスの頭の中に、ひっそりとした声が響く。アロンの念話ではない。これは、”彼女”の。

『婚約者を失った女性は、空飛ぶ鯨に出会い、大切なものを差し出していく。どれも違うと言われて、どんどん失っていく。でも最後に……何もかもを失った果てに、彼女は正解を導き出し、会いたい人に会うことができる。まるで君の言う”弱い者”だと思わない?』

「そのレールに乗れたなら、終着駅はハッピーエンドだよ」オルガの囁きに、彼女の隣に座っているアロンが「何の話?」と首を傾げる。問わずとも心を読めばいいのにと思いつつ、アレックスの中には焦燥に似た何かが広がっていく。
 誰もが超能力を持って生まれてくる世界で、能力の中身はその人の在り方だ。強い能力を持つ者は強く、汎用性の高い能力を持てばゼネラリストに、役に立たない能力ならば役立たずの人間となる。
 その点、全能の能力者である彼女はまさしく全能ーーーー何にでもなれるし、何にも負けない。その点では正しく”最強”だ。
 しかしアレックスは自問する。”こんな小さな女を倒したところで、最強の名は自分についてくるのか”。
 誰も知らない最強を殺したとして、人々がその事実をもって自分を「最強」と呼ぶことはないだろう。誰にも知られない戦いは語られることなく、存在自体があやふやだ。彼女と戦ったところで無意味であるとさえ思える。
 だが、乗り越えるべき壁が目の前に存在していることは確かだ。出会って数日、未だ彼女を倒せない自分がここにいる。手を出すことさえ、触れることさえ叶わない、高い位置に彼女は立っている。それは自分が”最強”であることの否定だ。自分が”何者かに脅かされる可能性のある不完全な存在”であることの証明だ。
 ここまで考えて、元来難しいことを考えるのが苦手なアレックスは匙を投げた。どうすればいいのかよくわからない。そんな時は本能の従うに限る。自分の心は「こいつを殺せ」と叫んでいる。立ちはだかる者は全て排除して、己が求める結果に忠実たれ、と。

「じゃあ……てめえはここで俺に全てを奪われろ!」

 オルガがどうやってサイコキネシスの発動を抑えているかわからないが、その能力を上回る力を発動すれば振り払えるはずだ。そう考えたアレックスは身体の髄にありったけの力を込めて、全神経を超能力に集中させた。ぎりぎりと奥歯を噛み締め、「何なのこの子、思春期メンタルな上に脳筋なの?」とため息をつくアロンを無視して。
 眠たげな無表情のオルガがこめかみをピクリと動かして、隣のアロンに目配せをする。彼女の思考を察知した様子のアロンは、ソファーの上で懐かしの映画でも見ているような顔をしている老夫婦のところへ。彼らに寄り添い、こちらに注意を向ける。オルガが何かを仕掛けてくるのだろうか。

「あ?」

 呆けた声を出したのは自分だった。
 うんともすんとも言わなかった能力が微かに瞬き、細く青いサイコキネシスの閃光が目の前で弾けるのと同時に、身体の中がボコボコ蠢き出した。この感覚には覚えがある。表裏反転、弾け飛びそうな反発力。スタンレーとミシェルと対峙した時の能力暴走の感覚と同じ。
 理性を失ったような、自分のものとは思えない呻きが自分の口から漏れ出す。自分ではない誰かが背中を割って羽化しようとしている。早くこれを何とかしなければ、押さえつけ、支配下に置かなければ。自分が自分でなくなってしまう。

「ダメだよ。君の能力はオーバーヒートしかけてるんだから」

 涼やかで平坦な声。オルガの薄氷に似た瞳と目が合って、それが何だか救いの女神のように見えて。こちらにかざされる彼女のほっそりとした白い手に何かを期待する自分を感じて、アレックスはその思考を振り払うべくかぶりを振った。
 同時に、身体の中を蠢いていた自分ではない何かがだんだんと無に収束するのを感じた。動きを止めるのではない。存在が失われていく。オルガが手をゆっくりと握り込む、その動きに合わせるように。

「君が”持ってる”サイコキネシスは強い。この家を一瞬でバラバラにしてしまうほど。だから暴走させちゃダメだよ。君の大切な人を傷つけてしまう」
「は?『大切な人』だあ?」
「その人たち」
 彼女が示した先には老夫婦の姿が。すかさず否定しようと口を開いたアレックスだったが、言うべき言葉が見つからない。
「生来、人の身体は超能力を制御するのに向かない。だから一人ひとつの能力を、使い過ぎないように使わなければならないんだよ」
「何だそりゃあ。じゃあお前は何なんだ」
「私は……”こうあるように作られた”から」
「作られた?」
「それはさておき。それ以上能力を無理に使ったら、君は暴走した自分の能力に殺されることになるから気をつけた方がいい」
「あ?何でお前にそんなことがわかる」
「そう言う研究をしているところにいたから、知ってる」
「研究って……」
 この国では、住民の能力の把握から使用までの全てを国の機関が管理している。超能力の利用や研究に関しては厳しい制限が課せられていて、民間企業でその分野へ手を出すものはない。それゆえに、オルガが”そう言う研究”の場にいたと言うならば、彼女の出自はおおよそ見当がつく。
「異能管理庁の研究所か?」
「……まあ、そんなとこ」
「あそこは十年前の爆発事故を機に縮小されたと聞くが……ああ、お前はその時リストラされた研究者か。だから詳しいのか」
「いや、全然違うよ」

 コントロールを失って暴走しようとしていた能力がぴたりと動きを止め、暴走を操ろうとしていた身体の中の”誰か”が姿を消した。オルガが握り潰したのかと思って見ると、きつく握られた彼女の手の中から燻る煙が漏れていた。
 アレックスの視線に気づいたオルガがパッと後ろに手を隠したが、その行為に結果はない。アレックスの思考に浮上したのは、ミシェルが言った”圧縮”と”燃やす”。オルガの手のひらを燃やしたのが自分の中にある能力だと仮定すると、何とも形容し難いむず痒いような感覚が胸の奥で身じろぎをした。

「私は研究される側。研究者とは対岸にあった」

 彼女の瞳の上には自分が映り込んでいるが、彼女が見ているのはここではない。どこかぼんやりとした、何を考えているのかわからないオルガの目元の柔らかそうな皮膚を見つめて、アレックスは不得手な思考を動かす。
 自分の能力の暴走で死ぬ人間は一定数存在する。その死の影にはきっと、巻き込まれた誰かの不遇が張り付いているだろう。誰もが超能力を持って生まれる世界。当たり前の話だ。
 それなのにどうして、よりにもよって彼女は自分を助けに来たのだろう。世界中を回って他人の能力の暴走を止めていると言うことはないはずだ。特異的に、例外的に、普段はしないことをしに彼女はここへ来た。出会ったばかりの、自分の命を狙う男の能力を止めるために。
 そこに何かがありそうな気がして、学も知恵もない鈍重な思考を巡らせていたが、「不穏な思考を察知したアタシがオルガちゃんを連れて来ただけよ」などとこちらの思考を読み取ったアロンが横槍を入れたので、アレックスの思考はそこで立ち枯れとなった。

「てっめえ!勝手に人の思考を読むな!」
「あらなあに?読まれちゃまずいことでも考えてたの?」
「そっ、んなことはねえが、何か……普通はダメだろ!」
「あんたって本当に”理論”とかと無縁な男ねえ」

 茶化すようなアロンの物言いに、アレックスはこめかみの血管がドクドク脈打つのを感じた。思考を読まれたことに対する羞恥に顔が熱くなり、やっとの思いで組み立てた思考が砂の城の如く崩れていく。消えていった問いは、もう戻らない。

 オルガ、お前が空飛ぶ鯨なんて馬鹿げたものを探すのは、会いたい人がいるからか?

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