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道の真ん中で鳩が潰れていた

人間社会における月曜日はとても憂鬱な日だ。
昨日までの穏やかな日々に別れを告げ、アラームの無機質な音に叩き起こされ、まだ眠っていたいと叫ぶ体に鞭打って身支度をして、通勤ラッシュのバスに揺られて行きたくもない場所に向かわなければならない。
私は毎朝バスを利用している。始発に近い場所から乗るので乗車時の車内は空いているが、目的地に近づくにつれて人間が増えていって、やがてぎゅうぎゅう詰めになる。他の人間に私がオオカミであることを気づかれるのが怖くて、私はいつも窓の外に顔を向けている。

この前の月曜日のことだ。
ちょうど信号待ちでバスが停車した時、何の気なしに反対車線に目を向けると、真ん中で鳩が潰れていた。
どうしてか、回避行動が間に合わず車に轢かれてしまったのだろう。タイヤがちょうど内臓の上を踏み潰したのだろう。中身がぎっしり詰まった果実を押しつぶしたように、それは道にへばりついていた。
その朝の強風に、恐竜の面影を残す細い脚が揺れていた。すりつぶされた羽の影になって、顔はよく見えなかった。

そんなものはまるで存在していないかのような顔をしてその上を車が通過し、脇の歩道を人間たちが歩いていった。やがてバスが発車して、そこにある死を知らない人々は目的地へと急いだ。

中学生の頃を思い出した。
片道30分の通学路を、毎朝1人で歩いていた。人間の姿を得たばかりの私にとって、空き地と畑ばかりが続くその通学路は心を落ち着けられる風景で、1人で歩くことも好きだった。
ある日、車道の真ん中でカラスが死んでいるのを見つけた。人間が立てた野生動物注意の看板がある道だ。よく歩道の脇でタヌキやネズミが死んでいるのを見かけたが、車道で何かが死んでいるのを見るのがそれが初めてだった。
片側一車線の細い田舎道だ。カラスの死体は私の後ろから来た車に轢かれて反対車線に移動し、私の前から来た車に轢かれてまた反対車線へ、また後ろから来た車に轢かれてと、左右の移動を繰り返していた。
当時、人間社会にまだ馴染めずにいた私にとって、それはとんでもない悲劇的な光景に思えた。実に残酷で、グロテスクで、事件性の高いもののように思った。だから学校に着いてすぐ、クラスメイトと先生に自分が見た光景について話した。

クラスメイトは「えー何それ気持ち悪いー」と言った。先生は「誰かが保健所に連絡して保健所の職員さんが片付けるから大丈夫だよ」と言った。

この車に轢かれているのがカラスでなく人間だったらと考えた。
きっと彼らはお騒ぎをしていただろうし、前から後ろからやってくる車は急ブレーキをかけて、ドライバーは警察に通報していただろう。
人間の死は重大なことだ。もしかしたら捜査本部なるものが、その人の死の原因を究明するかもしれない。

職場からの帰り道、潰れた鳩はどこにもなかった。道路の真ん中に、赤黒いしみがひとつ落ちているだけだった。保健所の人が片づけたのかもしれない。某アニメ映画の某狼男の死体のように、ビニール袋に入れて、ゴミ収集車に放り込んだのだろうか。
捜査本部は結成されなかった。

私は人間の姿をしているので、もしも私が道の真ん中で潰れているようなことがあったら、みんなが大変なことだと騒ぐだろう。もしかしたら私の死を嘆いてくれる人がいるかもしれない。死体は丁寧に整え、小さな骨のカスになるまで焼いてくれるだろう。
けれど、人間に化けられない親友のPippi-shanは違う。私の目の届かないところで潰れて死んだら、きっとゴミと一緒に燃やされしまう。不機嫌な人間に蹴飛ばされて死んだ野良猫も、遊びでエアガンを向けられた小鳥も、忘れ去られた罠に引っかかったタヌキもそうだろう。人間とそれ以外の生物では、どうやら命の重さが違うらしい。

ここにいてはならないと思った。今すぐ、私は森に帰らなければならない。
全ての命が等しい重さで、誰もが生き生きとしていて、残酷な世界。上も下も右も左もない、今日が永遠に続く、あの森へ。

そんなことを考えつつ、火曜日も水曜日も、木曜日も金曜日もバスに揺られて現在に至る。どうやら、人間社会というものは一度入ったら抜け出せない仕組みになっているらしい。

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