【長編小説】(5)永遠よ、さようなら
黒柴の姿のしっぽに首輪とリードをつけて、夏真っ盛りと言えど祭りでもないのに着流しは目立つだろうと災にユニクロで買ってきたTシャツとジーンズを着せて、さて散歩に出ようと家を出たのが数時間前。やっぱり道に迷ったあやめはその事実を認めたくなかったけれど、太陽が赤く色づき始めてしっぽが「おなかすいた」と頭だけ狗神に戻して呟いたので、仕方なく災に道案内を頼むことにした。
「もっと僕をつかってよ。いつでも、どこでも、君の望みなら僕はなんでもやるよ」
隣を歩く災が、生き生きとした人間らしい表情でこちらを見下ろす。
「そういうの、ちょっと重い」
「おもい?」
「もっと自分を大切にしてってこと」
「僕はあやめが一番たいせつ」
「……どうしてあなたは」
ふと、立ち止まる。
見覚えのある家。記憶の中では空き家だった家の一階に灯が点っている。一瞬記憶違いかと思ったけれど、ありきたりな二階建ての民家の小さめの庭の形はよく覚えている。夏の始まりに爪を立てた、梅雨の長雨をいっぱいに吸い込んだ土の感触も。
「ぼくのいえだったばしょだ」
一瞬狗神の姿になったしっぽがそれだけ言って、黒柴の二つの瞳でじっと庭を見つめる。
そう。しっぽはこの庭に繋がれていた。
去年の夏の始まりに道に迷ったあやめが通りかかった時、この家の住人はずっと前にここを離れた後だったようで、置き去りにされた黒柴は鎖に繋がれたまま事切れていた。限界集落ゆえに周囲に人が住んでいる家はない。飢えを、渇きを、悲しみをどれだけ叫んでも、どこの誰にも届かなかったのだろう。
ただの黒柴だった彼は歪に白く変色した体を横たえ、長雨に打たれて腐り果てようとしていた。
あやめはその姿を美しいと思ったけれど、不思議と描こうとは思えなかった。肉が腐って剥き出しになった首
骨が歪んでいるのを見つけた。もしかして、餓死するより早く首輪で首を括ったのだろうかなどと考えながら庭の隅に穴を掘って彼を埋めたのは記憶に新しい。
骨の間まで腐った体は脆く、穴と死骸の間を何往復もすることになったのもよく覚えている。それからようやく家に着いて手を洗おうと洗面所に行ったら、鏡に映った背後に巨大な狗神がいた時の衝撃も。
「しっぽ、飼い主に会いたい?」
灯りがついているということは、住人がいるということ。売るにはボロ過ぎる家だ。もしかしたら住人が戻ってきたのかもしれない。
問うと、しっぽはまた頭だけ狗神の形に変えて「かいぬし?」と首を傾げた。
「ぼくのあるじはあやめだよ」
「え、私、あなたの主人だったの?」
「とうぜんだよ。ぼくはあやめにとりついてるんだから」
「取り憑いて……ああ、いや、そうじゃなくて。生前の家族に会いたくないのかって話だよ」
「……きょうみない」
パタリと尻尾を一振りしてもとの黒柴の姿に。しっぽのあっさりとした反応に思わず拍子抜けしてしまった。家族として愛していたとしても、自分を置き去りにしたことを憎んでいたとしても、てっきりしっぽは飼い主に会いたいと言うと思ったから。
ここまで黙っていた災が「狗神は、」と口を開いたところで、こちらの声を聞きつけたのか家の中からガタガタと足音が聞こえ始めた。慌てて尻尾のリードを引いて歩き出すと背後で玄関が開く音がして、「犬泥棒!」とがなり声が追いかけてきた。
「わしの黒助を盗んだのはお前だったか、返せ!」
振り返ると、額に皺の多い神経質そうな老人が杖をぶん回しながらずんずんとこちらに近づいてくるところだった。そんなに歩けるなら杖要らなくないか?などと内心ツッコミを入れてしまったせいで追いつかれてしまう。老人が掲げた杖を振り下ろしたので一歩退くと、ちょうどあやめが立っていたところの土を杖の先が抉り取った。
ブワッと嫌なものが湧き上がる感覚を傍に捉え、見ると災が老人を睨みつけていた。この感覚は彼が発しているものだろうか。いつものフワッとした雰囲気の彼とは別人だなどと考えていたら「おい、聞いとるのか!」と老人が苛立たしげに杖で何度も地面を叩いて、ビシッと効果音が聞こえそうな勢いでしっぽを示した。(だからそんなに元気なら杖要らないだろう)
「ちゃんと迎えに来ると伝えて、置いて行ったんじゃ。それが帰ってきたらどこにもいない。お前だったんだな!」
一人で捲し立てる滑稽な老人の姿は笑って流してやれないこともないが、その物言いは笑えない。
「置いて行った?『捨てた』の間違いでしょう?」
「ああ?犬泥棒の分際で、このわしに口答えをするのか!」
「あなたがどこの誰でどれだけ偉い人だったのかは知りませんが、生き物が飲まず食わずで生き続けられると勘違いしているような人間を敬う心は私にはありません」
「何っ……このクソアマ!」
「何です?クソジジイ」
「女の分際で何だその口の利き方は!」
「女の分際って……あなたいつのパラダイムに生きてるんです?旧石器時代?」
何だろう。胸の中がザワザワする。言葉が溢れてくる。
「この子は黒助じゃない、しっぽです。あなたの黒助なら、庭のルドベキアの下に埋まってますよ」
「埋まって……お前、生き埋めにして殺したのか!」
「どうしてそうなるんです。死んでたから埋めたんですよ。何ヶ月も水も餌もなく繋がれたままで生きているはずがないでしょう」
「わしが留守にしてたのは二日だけじゃ!」
老人が杖を振り上げて一歩こちらへ。高そうな木目が迫ってくる。避けられなくはない速度だったが、いっそ当たって傷害事件にでもしてやれば、彼の残忍さを少しでも咎めるに繋がるだろうか。それとも、時間感覚さえ失った老人は何をしようと無罪放免か。
そんなことを考えて迫り来る杖の先を眺めていたら、大きな手が割って入って受け止めた。パシッと張り詰めた音がして、老人が「なっ、何だお前は。こいつの男か」と狼狽える。見ると杖を掴んだ災が、今にも噛みつきそうな目を老人に向けていた。
「君は、敵か?」
いつもの子供のようなたどたどしい声ではない。大人の男の、敵意を剥き出しにした低い声。
「害悪か、災悪か、僕のあやめを、傷つけるのか?」
何やら様子がおかしい。老人が全体重をかけてもピクリとも動かない杖を掴む力とか、あやめにしか見えていないだろう彼から漂う黒い靄とか、沼の底から敵を睨みつけるような瞳とか。
彼は人間ではない。今更になって、そんな実感が湧き上がる。彼は神様だ。きっと、人間など手の届かない、絶対的な力を持っている。
そもそも、彼は一体何の神様なのだろう。
「おじいちゃん、どうしたの?」
若い女性の声がして、家の方から慌ただしい足音がした。見ると二十代の女性と、それを追う同年代の男性がこちらに向かってくる。老人の孫だろうか。あやめはひとまず災を宥め、杖を掴んだ手を引き剥がした。
「何ですか、あなたたち」
非難の色をした女性の視線は、あやめを通り越して災にピントを合わせている。追いついた男性が女性の肩に手を添え「何だこいつら、お前のじいちゃんに何した」などと言い出すが、災の目に二人は映っていない。
ずっと老人を見据えている。それが少しだけ恐ろしくて、おかしな雰囲気を纏った災を警戒する二人の行動は正しいのだろうが、受け入れられるものではなかった。
「そちらの老人が杖で私を殴ろうとしてきたんですよ」
災を彼らから隠すように立ってみたものの、身長差があって肝心の顔は丸出しだ。
「おじいちゃんが?どうして」
「私が彼の犬を盗んだとか言いがかりを」
「おじいちゃんったら、黒助は死んだって言ったじゃない」
女性の言葉に、「いいや、そいつが連れてるのが黒助じゃ!」と老人は譲らない。さっきまでの非難の目を媚びるようにひっくり返した女性が「ごめんなさい。おじいちゃん、少しボケてきちゃってて」などと免罪符を掲げてきた。
「その様子、『少し』とは言い難いのでは?」
女性の恋人か、夫か、どちらからしい男性に押さえられてもまだ杖を振り回して「泥棒!さっさと返せ!」と喚き立てている老人を嗤うと、女性の笑顔がぴたりと凍りついた。
「ちょっとあなた、そんな言い方はないんじゃない?」
「人のことは泥棒呼ばわりするのに?」
「仕方がないでしょう?認知症なんだから」
「なら人を杖で殴らないようによく見ておいてくださいよ」
本能のまま喚き散らす老人と、その全てを許そうとする家族。頭の片隅に再生される腐った犬の死骸の映像が、現実の視界の表面に薄く被さる。
何が気に入らないのかわからないが、ただ腹の底が煮えたぎるような心地だ。彼らの何もかもが許せない。認められない。
「さっき黒助は死んだと仰いましたが、死骸が見たんですか?」
問うと女性はキョトンとした顔をして、「私たちが来たときはもうなかったわ。野生動物に食べられてしまったんでしょう」と勝手な妄想を並べた。
「あんな死骸、カラスも食いませんよ」
「え、カラス?何、あなた……」
「ルドベキアの下に埋めてあるので、大切な家族と思うならきちんと埋葬して弔ってやってください」
このままここにいては自分がどんな非人道的な言葉を並べ立てるかわかったものじゃない。早々に立ち去るが吉と考えたあやめはしっぽのリードを握り締め、未だ老人から視線を逸らさない災の腕を掴んで「災、しっぽ、行くよ」と歩き出した。
背後で響く男女の捨て台詞と「泥棒!」と繰り返す老人のがなり声が聞こえなくなるまで歩くと、腹の底で渦巻いていたドス黒い何かが萎びていくのを感じた。ついさっきまでのささくれ立っていた自分がバカらしくなるほどに。どうして自分はあんなに苛立っていたのか不思議に思うくらい。
立ち止まると、夕暮れに響くヒグラシの声が戻ってきた。いつから聞こえなくなっていたのだろう。顔を上げると休耕田が目立つ田園風景の向こうに森があって、背負った入道雲に夕陽が乱反射して燃えているようだ。前に歩み出たしっぽが狗神の姿になって「ごめんね、あやめ」と耳を垂れた。
「たぶん、あやめがおこったのはぼくのせい」
「そりゃあ、あんなの怒って当然でしょう。あなたを苦しめて殺して、そんなのすっかり忘れた顔して人を泥棒呼ばわりして、挙句認知症だから全て許してくださいなんて」
「ちがうの。そういうことじゃなくて」
しっぽは何やらモゴモゴと言いかけるが、うまく表現できないのか九本の尻尾をしゅんとさせた。代わりに口を開いた災が「昔……」と記憶を辿るような顔をして、
「昔、狗神憑きの家の家長が、犬のように遠吠えをして四本足で森の奥へ走り去るのを見たよ」
さっきの一件で何かのスイッチが入ったのか、今までの彼からは想像がつかないスラスラとした口ぶりだ。
「犬になったってこと?」
「いいや、狗神の性質は主人に感染るということだよ」
「つまり……さっき私が感じた怒りは、しっぽのものだったってこと?」
「しっぽのものと言うと、少し違う。君も怒りを感じていた。それをしっぽが吐き出させたような感じかな」
「へえ」
ここでこの話は終わったつもりで歩き始めると、「あやめ、そっちじゃないよ」と向かおうとした道の反対側を指した災に「こっちだよ」と呼ばれた。どうにも格好悪いなと後ろ頭を掻きながら先を行く災について行くと、「嫌だったら、消そうか?」振り向いた災がしっぽを見下ろした。
「はい?消すって……」
「人間は、言いたいことがあっても色々我慢しなきゃならない時があるんでしょう?それができなくてさっきみたいにあやめが危険な目に遭うのは良くない」
「危険ってほどじゃあ」
「しっぽがいなければ済む話だよ」
災がしっぽに手を伸ばす。その腕がひび割れて毛虫がボロボロと落ちるのを見て彼らの間に割って入ると、「いやだけど、あやめがそれを、のぞむなら……」としっぽが首を垂れた。「望んでないよ!」と災を押し除けようとした手が彼のヒビに触れそうになったところで、災が目を剥いて手を引っ込めた。
「危ないよ、あやめ。もう少しで触れるところだった」
「何、触れたらダメなの?」
毛虫の毒針で肌が荒れるとか?
「ダメじゃないけど、良くない。僕は……」そこで災は一度言葉を切り、しっぽを見下ろし「消さなくていいの?」と。
「いいっていうか、ダメ。消さないで」
「でも、それじゃああやめがまた嫌われる」
「いいよ別に。私は、そういうの必要ないから」
言いたいことを我慢して仲を取り繕ったり、捨てられるのを怖がって自分を押し殺したり。そんなことをしたって離れて行く人は去っていくし、そうやってしがみついたものは決して自分を救わないと知っている。そんなもののために誰かを傷つけるなんて論外だ。
この気持ちをどう伝えるべきか迷っていたら、災は「なら、いい」と手を下げた。一安心と息を吐き、首を垂れたままのしっぽの後頭部を撫でて「帰ろう」と呼びかけると、九尾がブンブン絡まりそうなほどに揺れた。
「そういえば、さっき気になったんだけど、」
夕飯のメニューを考えながら災の後ろをついて家路を歩いていたら、沼の底のような瞳がぐるりとこちらを振り向いた。
「さっきの人間の番、女の方が自分の祖父を守るために怒ってたのはわかったんだけど、どうして男も怒ってたの?」
「番?」
「夫婦のこと」
「ああ、そう……夫婦ね」
自分と同年代に見えた彼らを夫婦と断言する理由が気になったあやめだったが、そのことには触れず。
「それはまあ、自分の大切な人に何かあったら守ろうとするでしょう。そんな感じじゃない?」
それが家族ってやつでしょ、と続けると、災は「ふうん」と短く息を吐いて何かを考えるような顔をして、
「あやめにもそういう人間がいるの?」
探るような視線をこちらに落とした。
「そういう人間って……私は独身だよ。自分ではまだ結婚するような年齢じゃないと思ってたんだけど、あの人たちは違ったね」
「結婚してなくても、いる?」
「ええっと……彼氏ってこと?いないよ。ずっといない」
「他には?」
「他って……お父さんもお母さんもどっか行っちゃったし、育ててくれたおじいちゃんとおばあちゃんは死んだし、家族はいないよ」
答えると、災はなぜかホッとしたような微笑みを浮かべた。
「じゃあ、僕があやめの番になるよ」
「はいいいい!?」
「僕があやめを守る。何があっても。だから大丈夫だよ」
「ああ、そういう意味ね……」
なぜだか少し苦しそうな顔で言う災が気になったけれど、彼が隠しているようだから気づかないふりをして、
「というか、守るほどの危険はないよ」
「そうでもないよ。今日、君と外に出て、それに気づいた」
変な老人に難癖をつけられて少し揉めたくらいの今日に一体どんな気づきを得たのか謎だったが、きっとまた彼なりの納得があっただけだろうと軽く流した。それが間違った選択だったとあやめが気づくのは、まだ先の話。
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