【長編小説】(2)生まれてきたからあなたに会えた
大学を出てすぐに就職した会社の理化学研究職は回った目が遠心力でぶっ飛んでしまいそうなほど忙しくて、三年を数えず体が壊れて辞めた。それから少し休んで再就職したのが今の職場である私立高校。学生時代に特に目的もなく教員免許を取っていたが、理科の実験助手として入職した。
「初めまして、朝陽未来と言います」
そう自己紹介をした瞬間、全生徒から「未来ちゃん」と呼ばれることになった。少子高齢化と人口の都市部への流入が進む昨今、地方の定員割れしている私立高校なんてこんなものだろう。採用区分としては事務職と変わりない実験助手を「先生」と呼ばせる学校でなければ、生徒が教職員を”ちゃん”づけで呼ぶことを咎めることもない学校なのは幸いだ。「先生」だの「朝陽さん」だの敬意を持って接されるような人間である自覚はないし、そんなことをされたいとも思わない。
ただ静かに、メインである教諭の陰で作業をするだけの人間でありたい。黒子のように生きていきたい。そう思った、勤務初日。
「とんでもないところに就職しちゃいましたね」
職員室で隣の席の男性教諭が言った。私と同年代くらいか、少し上か。三十歳前後の、墨をこぼしたような真っ黒な髪と瞳が印象的な人だ。
「え?あの……ええっと」
「ああ、自己紹介がまだでしたね。僕は砂月宵。待宵の”ヨイ”の字で、”ショウ”と読みます」
「砂月、先生」
「この学校唯一の理科教諭です。協力よろしくお願いします、朝陽先生」
「先生はやめてください」
「どうして?この学校はサポート職員も先生って呼ぶ文化だし、先生は教員免許持ってるでしょう?絶対助手以外の仕事もやらされるんですから、先生でいいじゃないですか」
「でも、私は教員ではないので」
ニーチェが言った深淵を絵に描いたらこんな感じかなと思う、どうにも感情が読めない光のない瞳がこちらを値踏みするように動いて、「わかりました」と一言。居心地の悪さを感じて「それで、『とんでもないところ』とは?」と訊ねると、砂月はあっけらかんとした顔で「僕の前任の理科教諭、過労で死んでるんですよ」昨日の晩飯美味かったなぁとか言うテンションで呟いた。
「まあ、一学年四クラスって大きい学校とは言えませんが、それでも理科教諭一人っておかしいでしょ?主要五教科だぞって話です」
「過労って、担当する生徒が多過ぎて?」
「そうです。仕事持ち帰っても全然終わらなくて、誰も助けてくれなくて。おまけに生活指導だの進路指導だの、教員なら誰でもできる仕事みんな押し付けられて、何週間も寝なくて最後はバッターンです」
「……もしかしてここ、すごくブラック?」
「まあ、業界がそもそもブラックですし」
砂月は背もたれをギコギコ言わせていた背中を丸めて、秘密話を楽しむようにウインクして、
「そんなことがあったのに『実験助手一人つければOK』とかなる時点で、終わってますよね」
こちらに同意を求めているのだろうが、「主要五教科」の教員がどう忙しいのかいまいちピンとこない私にはどう反応すればいいのかよくわからない。とりあえず微笑んで「私にできることがあれば、言ってください」と返しておいた。
砂月は胡散臭い笑みを浮かべただけで、特に何も言わなかった。
勤務開始から数日が経ったある日のこと。新年度かつ新学期のイレギュラーな時期が過ぎ、オリエンテーションから始まった授業が本題に入り、一つの小区切りを迎えるくらいのことだった。
退勤時間になって、さて帰るかとパソコンの電源を切ってふと隣を見たら、赤ペンを持った砂月が何百人分の小テストの山を前に遠い目をしていた。彼の目の前には明日の実験で使うプリントを作ろうとした跡。ファイル名「カタラーゼの反応速度の測定」で保存したワードに、「目的」とだけ入力されている。
座学のプリントを作って、次にと取り掛かろうとした。しかし眼精疲労が限界でアナログ作業を挟もうとした。そんなところだろう。
「実験プリント、私が作りましょうか?」
パソコンの電源ボタンを押しながら訊ねると、殺意でも宿しているような鋭い視線がこちらを向いた。
「え?ああ……お疲れ様です、朝陽さん」
「いや、絶対あなたの方が疲れてますね。私の声、聞こえてました?」
「ん?ええっと、実験……」
鋭さがあったのは一瞬で、ボソボソと答える三白眼が今にも白目を剥きそうだ。これはかなり追い込まれている。私は彼の前の小テストの山を手に取り、聞いてなかった言葉を思い出そうとする砂月の文法を得ない声に「少し仮眠をとってきたらどうですか?」と重ねた。
「選択式の小テストなら私にも採点できますから、やっときますよ。実験プリントも、準備をした私が作る方が効率的です」
「ああ、ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて……あれっ……模範解答……作ってなかったか。すみません。今から作ってお渡しするんで」
「これくらいわかるので、いいです。早く寝てください」
「ありがとうございます」
ふらふらと今にも倒れそうな足取りで砂月は保健室へ。付き添うべきかと少し悩んだけれどそこまで彼を思いやる謂れはないし、支えて歩いて変な目で見られても面倒だ。とりあえず砂月が職員室を出るまでを見送って、目の前のプリントの束に向き直る。
最初の一枚を解きながら丸付けして、それを模範解答の代わりにあとは機械的に処理していく。一枚三十秒くらいはかかるだろうか。一時間で百二十枚の処理速度。数時間で終わるだろう。
バラバラと他の教員が退勤していって端から静寂が染み入ってくる職員室。小テストの山を半分片付ける頃にはほとんど人影がなくなっていて、どうしてみんな定時で帰れるのに砂月だけこんなことになってるのかと不思議に思った。理科教諭は人口が少ないからだろうか。求人を出しても応募が来ない?ならば理科の免許がないとできないこと以外は他の教員で回せばいいのに、彼は校務分掌を三つも掛け持ちさせられている。
「あれ?朝陽さん、残業?」
砂月のことを考えて胸の奥に何かドロドロとしたものが湧き出した時、不意にそれをぶった斬るように無駄に大きな声がした。げんなりしつつ見るとやはり声の主は体育科の主幹教諭で、私は聞こえないふりをしようか悩んだけれど自分より二回り年上の立場も上の彼を無視するという選択は最初から存在しない。
「砂月先生の仕事手伝ってんの?」
「疲れている様子だったので、まあ、私は彼のサポート的な立場ですから」
「とか言って、実は砂月先生を狙ってるとかじゃ?」
「はい?」
どこにでもいると言えばその通り。彼のようなキャラクターはありふれている。必要以上の大声で、何もかもをオープンで、すぐに下ネタやらゴシップネタに話題をスライドさせる、ステレオタイプに支配された中年男。
危惧していた通り、彼は粘ついた笑みを浮かべ、勘繰るようにこちらを視線で舐め回す。
「砂月先生って典型的なイケメンだもんな。同年代だし、あんたくらいの年齢じゃ結婚を急ぎ始めるタイミングでしょ」
「……いや全く急いでないですけど」
「強がりはみっともないぞ?そんなこと言ってるから行き遅れるんだ。もっと自分に素直になりなさい」
素直になっていいのなら、今すぐこの主幹教諭の度重なるハラスメントに耐えかねて自殺しましたと遺書を書いて校長室の真ん前で首を吊りたい。
「朝陽さん、顔は可愛いけどさ、いっつもブスくれてるから印象悪いんだよな」
いや別にブスくれてはいない。これは無表情だ。
「女の子は愛想良く笑ってないと嫁の貰い手がなくなるぞ?いずれ結婚して家庭に入るからさ、キャリアとか考えず期限付き職員に転職したんだろ、頑張らないと」
「……いや、別に私、家庭に入るつもりはないですが」
「そうなの?そんな女、欲しがる男いるかな」
「あの、私、これ早くやっちゃいたいんで……」
何やら考え始めた主幹教諭はしばらくするとひらめき顔で指を弾き、「ちょっと待て」と自席に戻って行った。もう戻ってこなければいいと願ったけれど無惨なビール腹を揺らして戻ってきた彼の手には書類の束。
「これ、運動部顧問の出張届けとそれでできる自習コマの自習プリント」
「……はあ」
「結婚できないなら、いつまでもそんなサポート的立場で甘えるな。ちゃんと経験積んで、できる仕事増やしていかないと」
「そうですか」
「だからこれ、教務の仕事。届けの内容を一覧にして、自習監督の割り振りをする。場合によっては自習コマに空き教員がいないことがあるから、その場合は臨時時間割を組んで教員不在の教室ができないように工夫するんだぞ」
「え?するんだぞって……」
「じゃ、任せたからな」
脱兎の如くとはまさにこのことで、主幹教諭は足速に言い残すと現役時代はサッカーで全国区だったという足をこの時だけ遺憾なく発揮して退勤して行った。もしかしてここまでの会話はこの仕事を私に押し付けるための布石だったのかと気づいた時既に遅く、噂で事務仕事が苦手だと聞いた彼の仕事の山が私の机に置き去りにされていた。
ジョブ型とは程遠いメンバーシップ雇用が通常のこの国の仕事場では良くある光景だ。各々が対処しなければならない仕事の境界が曖昧だから、誰でもできる仕事は押し付けやすい人のところに溜まりやすい。これが砂月が仕事に追われている理由であり、彼の前任が過労死した原因だろうと察しつつ、今、その輪の中に自分がノミネートしてしまったことに思わずため息が漏れる。
気づけば職員室に残っているのは自分だけになっていて、冷たい蛍光灯の光が世界に取り残されたような感覚を呼んだ。嘆いていても仕方がない。明日も平日なのだからさっさと仕事を片付けて帰るのが吉と採点用の赤ペンを握り直したところで、ふと、傍に人影を見た。
「うわっ……えっ、砂月、先生?」
見ると隣の席にいつの間にか砂月が座っていて、主幹教諭が足取り軽く去っていったドアを睨みつけてた。数時間前に見た今にも死にそうな力ない横顔ではない。それはまるで、別人のよう。
「あいつ、ワードの表挿入さえできないんですよ。そんなのやり方ググってそのままやれば秒でできるのに、調べることさえしない。だからあいつの定期試験の解答用紙は昔の紙のコピー。問題数と解答欄の数が合ってないって試験のたびに生徒が笑ってました」
「……なんで、そんなこと」
私たちはこの春の同期入社で、まだ一学期の半分も過ぎていない今、最初の中間試験さえこれからだ。まるであの主幹教諭を陰で笑う生徒を目の当たりにしたような彼の口ぶりに違和感を覚えて訊ねれば、真っ黒な瞳が意味ありげな光を宿してこちらを向く。
瞬間、気づいた。彼は砂月宵ではない。
「あなた、誰?」
彼の頭上の蛍光灯が不規則に点滅して、ゆっくりと持ち上がる口角の動きをぶつ切りにする。綺麗に並んだ白い歯の羅列が、薄い唇に三日月型に切り取られる。目元を覆う黒い髪の奥の影で、何かが蠢くのを見た気がした。
「急にどうしたんです?僕ですよ、砂月宵」
「違うでしょう?誰よあなた。砂月先生のふりをして……彼はどこ?変なことしてないでしょうね」
蛍光灯の冷たい光と、夜のそこかしこに転がる暗闇がよく似合う。点滅しているのは蛍光灯だけではない。彼の姿もまた、現れては消え、確かな実体を持ったと思ったら向こうの景色を透かしている。彼はここにいるが、ここにいない。もちろん、砂月宵でもない。
こういう類の存在を、ここ数年でよく見かけるようになった。
砂月の姿をした何かが「彼なら保健室で寝てますよ」とニッカリ笑い、「見破ったのはすごいですが、あなたは少し勘違いをしています」と続ける。
「何、勘違いって」
「僕は砂月宵ではありませんが、しかし砂月宵は僕のことです」
「変な問答みたいなこと言って誤魔化さないで」
「そんなに怒らないでください。可愛い顔が台無しですよ」
爽やかなイケメン風に言われたが、私の頭をよぎるのは主幹教諭が吐いた女性蔑視も甚だしい言葉。イライラが募る。
「砂月宵は、頭はいいですが何も持たずに生まれた施設育ちの孤独な男の名前です」
「……それで?」
「そして僕は、頭はほどほどですが幸運にも大学に行かせてもらえるだけの環境に生まれ、理工系学部で教員免許を取得しました」
「……どういうこと?」
「今、あなたが話しているのは一昨年ここで死んだ理科教諭の亡霊で、砂月宵はそれに加担する寂しい男だということです」
「憑かれたって……どうして」
「僕を殺したこの学校への復讐に、彼が同意したから」
いたずらっ子のような顔をしてこちらの反応を窺う砂月は、きっと私が飛んで驚いたり、ガクガク震えて怖がったり、荒唐無稽な物言いに困惑したりするのを期待している。幽霊による復讐なんてどんなことが起こるかわからない。人の枠を超えた存在は、自分のことも「学校に属しているから」と復讐の対象とするかもしれない。そんな思考を巡らせると彼は期待しているだろう。
けれど残念、そのどれも起こらない。私は彼のような存在に出会うのが初めてというわけではないし、これまでの出会いで割と理解も進んでいる。
「じゃああなた、教員免許持ってないの?」
驚きも怖がりもせずに訊ねれば、砂月(ではないが彼であるらしい理科教諭の幽霊)は少し拗ねたように「砂月宵は持っていないけれど、僕は持ってる」と口を曲げた。
「驚かないし、疑わないんですね。なぜです?」
「ここ数年、こんなことばかりだから」
「それは変だな。あなたは普通の人のように見えるのに」
「見えるも何も、私は普通ですよ。幽霊じゃないし、他の何でもない」
「でも、僕のような存在が見えるのは普通のことじゃないでしょう?」
哲学者の問答のようなやり取りに嫌気がさして口を閉じる。こんなことより何より、早く目の前の仕事を片付けてしまわなければ。本物の砂月宵が目を覚まして来て、何も進んでいないなんてことになったら格好がつかない。
隣に座る幽霊は無視して仕事に戻る。赤ペンを小テストに走らせる。一クラス分を片付けたところで、手元に砂月が顔を捩じ込んできた。お前は飼い主の仕事を邪魔する猫ちゃんか。
「何です」
「いや、何って僕のセリフ。何で普通に仕事に戻ってるんです」
「終わらせないと帰れないからに決まっているでしょう」
「そんなことより、どうして僕が砂月宵に憑いてるか聞くべきだと思うんですが」
「そんなことより、早く仕事を終わらせて帰るべきだと私は思います」
「あなたが興味を持たないなら、僕が持ちますよ」
「どういうことです?」
「興味を持たないと、いつまで経っても話が進まないし、いつまでもこんな哲学者の問答みたいな会話が続くという話です」
彼もまた同じことを思っていたのか。なら話をしなければいいだろうと思ったけれど、どうにも彼は止まりそうにない。もう勝手にさせとけばいいかとため息をついたら、それを了承と取られてしまった。
「どうしてあなたは僕のようなものが見えるんです?朝陽さん」
「知りませんよ。数年前、突然見えるようになったので」
「その時、何かありませんでしたか?何かと出会ったとか、何かをしたとか」
「いいえ、何も」
最後の一クラス分の小テストに手を伸ばしたところで、「それは変だなあ」と砂月が呟いたのがやけに脳内に響いた。
変。何が変だというのか。こちらが何もしなくてもあれこれ押し付けてくるのがこの世界だろう。何もなくても唐突に突き落とされるのが人生だろう。そもそも生誕自体が全ての生き物にとって突拍子もない話で、誰もが、誰に頼むことなく唐突に生み出されてきたのだから。
ぐるぐると思考が回る。淡々と小テストの採点を続ける手元の視界と頭の中が切り離されたみたいに、思考は回転速度を上げていく。砂月のようなものと最初に出会ったのはいつだったか。廊下の端で蠢く黒く毛羽だったものに気づいたのはいつだったか。確か、ホームセンターで……
「ああ、きっかけ。もしかしたらロープを買ったからかもしれない」
思わず思考が言葉に出ていて、「ロープ?それはどんな?」と砂月が食いついてきた。仕方なく手を止め、記憶を辿る。
「普通のロープですよ」
耐荷重七十キロのロープを持ってホームセンターのレジを通過したあの時、レシートをポケットに捩じ込んで顔を上げたら宙に浮かんだ落武者の生首と目が合った。うっかり悲鳴を上げて周囲から白い目を向けられたことは言うまでもない。
「それから帰り道の四つ辻で綺麗な女の人の幽霊と会って、色々教えてもらいました」
「じゃあ、そのロープが原因ですかね。何か憑いてました?」
「そんな『そのロープ何色でした?』みたいなテンションで聞かれても……何も、なかったと思いますよ」
「それなら原因は別のものですね」
ふうっとため息をついた砂月が「手伝いますよ」と手元の小テストを全て掻っ攫っていった。そもそも彼を手伝っての仕事だったのにその彼に手伝われるとはよくわからないものだと思いつつ、そういえば生きている彼が保健室で寝ているなら目の前の彼は霊体のはずなのに、どうして小テストに触れられるのだろうと考えたところでこの思考における「彼」が何なのかわからなくなった。
ひとまず小テストは彼に任せるとして、私は明日の実験プリント作成へ。パソコンに向かう。うっすらと反射する私の隣に、くたびれた顔の砂月の横顔が映っていた。
「砂月先生は、本当に保健室で寝てるんですか?」
「どうしたんです?急に」
「あなた、映ってますよ」
「はい?……ああ、そうですね」
「幽霊って鏡に映らないものでは?」
「それはフィクションで幽霊と人間を見分けたい時のための設定ですよ。風呂で頭を洗って、顔を上げたら鏡に幽霊が映っていたとかあるでしょう?そっちが真実です」
「へぇ……」
サラサラと、私よりずっと手慣れた動作で採点をしていく砂月の指先は、しっかりと赤ペンを支えている。幽霊は実体を持たないからこの世のものに触れないというのも嘘ということか。そもそも、物質に干渉できないならば人の目に映ることもない。視覚はそこにあるそのものを捉えているのではなく、あくまでもそこにある物質に反射した光を電気信号に変換しているだけなのだから。
しばらくの間、私がパソコンのキーボードを叩く音と砂月が赤ペンを紙上に走らせる音だけが空間を支配して、やがて採点を終えた砂月は出張届の束に手を伸ばす延長線上で「どうしてロープなんか買ったんです?」と涼やかで無感動な声を溢した。私は咄嗟に嘘を答えようとしたけれど思い直す。生きていないものを前に、何を偽る必要があるのか。
「首を吊ろうと思って」
果たしてどんな反応が返ってくるかと思いきや、砂月は「へぇ」と相槌を打って、出張届の入力を始めた。
「前の仕事を辞めてすぐで、もう何だか全てが面倒になって、それで買いに行ったんです」
「でもあなたは首を吊らずにここにいる。どうしてです?」
「それは、まあ……何ででしょう」
正直言って自分でもよくわからない。ただ働くために今日を生きて、嫌なことを我慢するために食べて、辛い明日に向かうために眠りにつく。そんな日々に辟易としていたのは確かで、こんなことを続けたってその先には何もないと確信していた。それでも、結局あのロープを押入れの奥にしまい込んだ、その理由は何だろう。
隣で響いていたキーボードを叩く規則的な音が止んで、不思議に思って見ると机に頬杖をついた砂月が底のない黒い瞳をこちらに向けていた。どこか満足そうに、嬉しそうに、片方の口角を持ち上げる。
「吊らなくて正解でしたよ。その衝動に駆られて人生を終わらせていたら、きっとあなたは後悔した」
「どうして、そんなことがわかるんです?」
「僕がそうだったからですよ」
ついさっき、彼を一瞬でも生きている砂月宵と見間違ったのが愚かしく思えた。真っ黒な視線は確かに生きていないし、彼の纏う雰囲気は生者も幽霊も通り越し、むしろ悪霊だった。
「どうせ死ぬのなら、憎らしい全てをぶっ壊してから死ねばよかった。誰かを殺すのも、何かを壊すのも、やりたいと思っても多くの人間が実行に移さないのはその後の人生を、罰を思ってのリスクヘッジです。これから死ぬ者には関係ない。だからやりたいことをすればよかったってとても後悔したんです」
「……それはまた、随分と物騒な」
「そうですか?自分を害するものを自らの手で退ける。生物として当たり前の自己保存欲求だと思いますけど」
彼は生物の生態系とかそんなフィールド系分野が専門だったのだろうか。化学寄りの細胞や分子ばかりを相手にしていた私には理解が及ばない。
「僕らは自らの意思と無関係に生み出される。誰かに無理やり人生を押し付けられる。勝手に始められた人生です。それをどうするかくらい、僕に決定権があるはずです」
「論理の飛躍ですね」
「要は好きにする権利があるってことです。まぁ、生前の僕はそれに気づかず死んでしまったわけですが。死んだ僕が僕でなくなる前にこのことに気づけたことは幸いです。まだ打つ手があったから、僕は今ここにいる」
「赤の他人の人生を乗っ取って?」
「人聞きが悪いですね。砂月宵と僕は協力関係にあります」
「本当に?赤の他人が一悪霊の一憎悪対象を身を賭して破滅させたいと思うとは考えにくいですが」
ニタニタと笑みを張り付かせた顔で「悪霊とは……傷つきますね」と言った彼は傷ついてなどいない。
「彼は親に捨てられて施設で育ちました。そこでの風呂は二日に一回で、よく同級生に『臭い』とからかわれた」
「悲しいことですね」
「大人になって仕事を得て施設を出てからはそんなことはなくなりましたが、彼の中にはずっと『臭い』があった。もう意味を持つ言葉の姿も失い、ただ彼を苛むアイコンとして脳裏にこびりついて離れない」
「トラウマみたいなことですかね」
「だから僕らは手を取り合い、やり残したことをやりにここに来ました」
「やり残したこと?」
悪霊に、取り憑いた相手の顔貌を変える能力はないだろう。だから目の前にある空虚な瞳の男は施設で育ったというその人の姿だ。どこか品のある整った顔立ちをしている。背が高くて、柔らかく穏やかな声で、彼が言うには頭がいい。
きっと生まれる場所が、育つ環境が違えば、クラスの人気者になったかもしれない。みんなの輪の中心にいて、いつも弾けるような笑顔を浮かべている。そんな明るい人生を送ったなら、過労死した悪霊の口車に乗るような人間には育たなかったはず。
私たちは、生まれることを自分で決められないことはおろか、生まれる前からどんな自分になるか決められているというのか。
「朝陽さん。あなたなら、僕らの仲間に入れてもいいですよ」
骨張ってゴツゴツした手の指先が、触れる直前の距離で私の胸を指す。心を自称する臓器の少し横、左右の肋骨の中間、脊髄の反対側。
「宵と話していたんです。あなたは僕らと同じ穴をもっている。今、僕らが抱える感情をあなたが正しく理解しているのと同じように、僕らもあなたを誰より理解できる。この感情は、同じものを抱く人にしかわからない。持たざる者には理解できない。だから僕らは仲良くなれると思うんです」
砂月宵。不遇の下に生を受け、きっと誰にも理解されず、受け入れられずに生きてきた。そして同じく不遇の下に命を絶った悪霊と出会い、やり残したことを成すために日々を共にしている男。
では、今ここにいるこの悪霊の名前は何だろう。
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