【長編小説】(4)永遠よ、さようなら
描き上がった絵をイーゼルに乗せて、使っていない広間の片隅に置いて写真を撮る。短いコメントと共にインスタグラムにアップすると、すぐにいいねとコメントがついた。
『今日も死神画家は絶好調ですね』
『これは蝉の死骸?今のシーズンにぴったり』
『写実的だけどどこか幻想的。ありふれたモチーフなのに不思議と新鮮に感じます』
『後ろは和室?柱は随分使い込まれた感じの立派なものだね』
いつの間にか「死神画家」などと呼ばれている所以は、あやめが生き物の死骸や廃墟や打ち捨てられた何かとか、死んだものばかりを描くことだ。彼女自身、自分をそんな風に形容したことはないし、何なら死にまつわるものばかり描こうとしているわけでもない。何となく目についたものを思った通りに描いていたらこうなった。正直言って心外以外の何物でもない。
芸術家として自分のスタイルを確立することは大切だが、「死神画家」はあやめが確立しようとしたスタイルでなければ望んだ形でもない。じゃあ何を目指しているかと問われれば困ってしまうが、「死神画家」ではないことだけはわかる。自分は死を描きたくてこれまでの作品を完成させてきたわけではない。
美しいと思うものは、決まってそれぞれの孤独を抱えている。それは生命の喪失という他の誰とももう交われない悲しみであり、住人を失った家の寂しさであり、主人に捨てられた物たちの嘆きであった。ただ自分それだけでしか存在できなくなったものたち。それらは全て美しく、朽ちゆく中にも強さを感じる。自分もそうあれたならと、強く、自分以外の他の誰も必要とせず、一人きりで生きていけるものになりたいと願い続けている。
キャンバスを壁に立てかけ、イーゼルを片付けていたら何やら床をゴロゴロと転がるような、そこかしこにぶつかるような音が近づいてきた。何事かと思って顔を上げたら折りたたんでいたイーゼルの木の間に指を挟んで激痛が走る。同時に、廊下に繋がる戸が盛大な音を立てて外れて倒れ、二つの影が転がり込んできた。
「……何してんの、二人とも」
災としっぽが取っ組み合いをするような形で広間の畳をごろごろ転がって、ぴたりと止まってこちらを向いたと思ったら同時に
「あやめ、三時のおやつにしよう」
「よういしたのはさいじゃなくて、ぼくだからね」
互いを押し除けるように言った。
「ぼくがおかしをだしたんだよ。さいはまたおやさいのふくろとまちがえた!」
「そろそろおやつの時間だと教えたのは僕だろう。君は時計をよめない」
「でも、さいはおやつをつくれない」
「君だって作れないだろう。だしただけだ」
「さいはだすのもできない」
彼らの会話からおおよその状況を把握したあやめは、誰にともなく小さくため息をついた。それから「二人とも」と声をかけると、騒がしい会話がぴたりと止んで二つの視線がこちらを向く。
「ありがとう」
短く言うと、二対の瞳が嬉しそうに少しだけ綻んだ。それを認めて、胸の中にじんわりと温かい何かが広がる。
災は涼しげな面立ちの整った顔をしている。美しいと思う。しっぽは九本の豊かな尻尾と大型犬よりさらに大きい、立派な体を持っている。美しいと思う。けれど彼らを描きたいとは思わない。造形は整っているが、存在に美しさを感じない。
それは彼らに問題があるのではなく、ただ自分の求めるものでないだけの話だと理解している。彼らは今の「ありがとう」を求めて取っ組み合いをしていた。誰かを必要としている。だから美しいとは思わない。
そして、その美しさを求める自分もまた、その美しさを持ち合わせてはいない。きっと自分が「死神画家」などと形容されるほどにモチーフに偏りがあるのは、自分に欠けたものを、あるいは憧れを追い求めているからだろう。きっとそれは、彼らと共に暮らしている以上、得ることはない。そのこともちゃんと、理解している。
おやつを終えて満足そうに寝転がるしっぽの毛並みを撫でていたら、指先にちくりと痛みが走った。人差し指の横のところの皮膚が少し剥けている。さっきイーゼルに挟んだところだろう。
「災、薬箱……って、知るわけないか」
「なんだい?あやめ」
「いや、薬箱どこやったかなと思って」
出血はしていないが触れるたびに痛みが走る。絆創膏でも貼っておこうと立とうとしたら、ついさっきまで座卓の反対側にいたはずの災が隣にいて、手首を掴んで引き寄せた。
「怪我してる。どうしたの」
「さっき畳もうとしてたイーゼルに挟んじゃって、多分その時に」
「たいへんだ」
「大丈夫だよ。血は出てないし、絆創膏でも……」
「僕がなおすよ」
災が傷に手をかざしたと思ったら、淡く輝き始めて指先にほのかに温かいものを感じた。彼の手の甲の皮膚の下で何かが蠢いて、パッカリ開いて床下で暮らしている種の虫が溢れ出す。透明で澄んだ光と黒々とした虫の表面のコントラストに目を奪われて無意識に反対の手を伸ばしたら、災がパッと手を離して両手を自分の後ろに隠した。
皮膚が剥けていた部分は何事もなかったように戻っている。そっと指先で触れてみても、もう痛みが走ることはない。
「ええっと、ありがと……」
言いかけて、止まった。元より顔色の悪い災が、死んで数日経ったみたいな顔色で顔を顰めていたからだ。何か悪いことをしてしまったかと思ったがそうじゃない。これは、苦しみに耐える顔だ。
「どうしたの災、どこか痛い?」
「なおってよかった、あやめ、もう痛くない?」
「その手のひび割れが痛いの?考えてみれば、そんなパックリ開いてるのに何も感じないことないよね」
災の後ろに隠された手を覗き込んで手を伸ばしたら、「触らないで」といつもの緩やかな口ぶりとは違うささくれ立った声で彼は言った。
「これには、触らないで」
「どうして?」
「君には、触ってほしくない。……これが痛いわけじゃないんだ、だから、僕はだいじょうぶだから」
全然大丈夫でない顔で災が言う。じゃあ何が痛むの?と訊ねようとして、口に出していい問いなのか考えて、声を出そうとして、やっぱり引っ込めて。そうしていたら少しの沈黙が流れて、どうしたものかと思ったところで来客を告げるチャイムが鳴った。
寝ていたしっぽがむくりと起き上がる横を通り抜けて玄関へ。表情は崩さないもののどこかホッとしたように息を吐き出す災を後ろに見て、やっぱり問わなくて正解だったと思う。サンダルを履いて土間に降り、古いネジ式の鍵を開ける。
「こんにちは、あやめちゃん」
引き戸を開けた先には、田中のおばあちゃんが立っていた。
「こんにちは。どうしました?」
「梨が取れたからお裾分けにね」
「ああ、ありがとうございます」
田中のおばあちゃんは橋向こうの限界集落の向こう端に住んでいる誰のおばあちゃんかわからないおばあちゃんだ。あやめが幼い頃から時々現れては、家で採れたという野菜やら果物やらを分けてくれる。背中の曲がった小さな体は昔からずっと変わらない。本当は田中さんではないらしいが、みんなが田中のおばあちゃんと呼んでいるのであやめもそれに倣っている。
受け取ったビニール袋の中には一人暮らしではなかなか消費できない量の梨が詰め込まれていた。災としっぽも食べるかななどと考えていたら「ねえ、あやめちゃん」と呼ばれ、
「最近、一人で話してるのが聞こえるけど……大丈夫?」
心配そうに眉根を寄せて首を傾げる田中のおばあちゃんに、やってしまったと内心息を飲んだ。
災としっぽの姿は他の人には見えない。もちろん、声も聞こえない。そんな彼らと話していたら、側からは一人で虚空に向かって話しているように見える。声だけ聞けば、幻と会話をしているように思われるだろう。
田舎の夜は静かだ。昼もそれなりに静かだが、コンクリートで整備された道を申し訳程度に走る車の音さえなくなる夜には、家の中の声さえ森の底まで響く。
田中のおばあちゃんは彼女に聞こえない声と話す一人暮らしの若者の声を聞いて、心配して来てくれたのだろう。梨のお裾分けはきっと口実だ。
「ええっと、あの……」
声を聞かれているとなると、下手に「話してませんよ」などとしらばっくれては状況を悪化させかねない。どうにか誤魔化せないかと考えるも、認めても認めなくても頭がおかしくなったと思われるのは必至。画家志望となればなおさら。芸術と精神病質は切っても切れない関係だ。
ひとまずこの状況を打開する方法を考えよう。そう頭を切り替えようと、手の内ようのない状況はどれだけ考えても八方塞がりだ。いっそ彼らのことを説明してしまうか。きっとドン引かれるな。でも仕方がないので息を吸うと、「あら、ワンちゃんがいたのね」と明るい田中のおばあちゃんの声がして、見るとこちらの足元を見下ろしている。
ワンちゃん。つまり、しっぽ。田中のおばあちゃんにはしっぽの姿が見えるのか。しかし、一つ目で九尾の巨大な犬を「ワンちゃん」の一言で片付けるとはさすがだ。これが俗にいう年の功というやつか。でも流石にちゃんと説明はしておかないと。
「はぇ?」
田中のおばあちゃんの視線の先を見たら、思わずこんなとぼけた声が漏れた。何故なら、そこには可愛い黒柴が立っていて、キュルンとした丸い双眸でこちらを見上げていたから。尻尾は一本。背中の方へくるっと丸まってお尻の穴が丸出しだ。
「そうかい。ワンちゃんを飼い始めたから、独り言に聞こえたんだねえ」
そうかいそうかい、と田中のおばあちゃんは何度も頷いて「梨、ワンちゃんにもあげとくれ」と言い残して去っていった。
彼女に見えていたということは、これは本物の犬ということになる。どこから来たのだろう。迷子だろうか。保健所に連れて行ったら処分されちゃうかもしれないなとか考えながら田中のおばあちゃんの後ろ姿が橋を渡っていくのを見送って、玄関を閉じ、鍵を閉め、
「あれ?しっぽ?」
振り返ると、黒柴がいた場所にしっぽが座って、九本の尻尾をブンブン左右に振っていた。
「ぼく、いいこ?」
「え、黒柴は?さっきまでここに」
「ぼくだよ」
「はい?」
「みててね」
得意げに耳をピンと立てたしっぽがくるりと回る。その動きに合わせて白い毛が黒く、大きな体が縮んで、九本の尻尾が一つに。一回転すると艶々黒毛の黒柴が現れた。
「しっぽ?」
「わんわん!」
「何それ、変身?」
「わん!わんわん」
「どうしたの、話せないの?」
「クゥーン」
落ち着かない様子で足踏みをした黒柴がまた一回転すると、ついさっきの現象を逆回転したように一つ目の九尾が現れた。
「もとのすがたになれるようになったの」
「それは……すごいね」
やっぱり彼は黒柴だったのか、などと考えてしまえば、脳が勝手にあの日の風景を再生する。
「でも、いぬのぼくだとあやめとおはなしできない」と喉の奥でクゥーンと寂しそうな声を出すしっぽに「それは困るね」と応えてやれば、「あやめは、おはなしできるぼくのほうがすき?」とつぶらな一つ目を輝かせてみせる。
「そうだね。しっぽと話すのは楽しいよ」
「じゃあぼく、いぬがみのままでいる」
「でも、黒柴の姿なら一緒に散歩できるね」
「そっか!ぼく、あやめとおさんぽいきたい」
嬉しそうに跳ね回るしっぽを前に、彼が他の人にも見える姿であれば不審に思われることを気にしなくて済むと思ってのその発言をあやめは少しだけ後ろめたく感じた。しっぽはこんなにも純粋に、ただ自分のことを思ってくれているというのに。
どうにも居心地が悪くなって視線を泳がせると、戸の陰からじっとこちらを見つめる災と目が合った。死人のような顔色の、土人形のようにひび割れた頬はそうしていると幽霊かお化けのように見える。ドキッとして背中に力が入ったが、「僕だって、できる」との呟きに一気に力が抜ける。
「僕だって、人の目にうつるようになれるよ」
「災、その姿じゃ、見た人が少し驚くよ」
「ひとの姿になれるよ」
「人の姿って……あなたは元々……」
元々人の姿をしてるでしょう。そう言いかけてあやめは言葉を切った。
土間に降りた災の素足の周りが、淡い光を放つ。粉雪が落ちるのを反対から見るような、柔らかな白い粒子が彼の周りに立ち上る。それは彼の表面に開いたヒビに吸い込まれるようにして、一度強く輝き消えていく。
死人のような頬に血色が宿り、暗い翠の瞳に輝きが。こちらに向けて微笑んだ災の姿に、あやめは無意識に息を飲んだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?