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【長編小説】(6)永遠よ、さようなら

「あやめ、本当に行くの?」
「行くよ。働かないと生きていけないもん」
「僕が代わりに働くよ」
「無理だよ。身元を証明できない人を雇ってくれるところなんて無いから」
「僕は災だよ。禍津災。君がくれた名前だ」
「そうじゃなくて、住民票とか経歴とか学歴とかそういうやつ」
「それは、無いけど……」
 あやめがバイトに行くのは今日が初めてでは無いのに、今日に限って災は寝起きからずっとこの調子だ。支度をするのについて回り、「本当に行くの?」と何度も訊ねてくる。
「外は危険だよ。人間は何をするかわからない」
「そんなこと言ってたら何もできない」
「お金なら、おばあちゃんの遺産があるんでしょう?」
「それはあるけど……働かないで暮らしていけるほどじゃないし、あんまり使いたくないし……」
「あやめは画家になりたいんでしょう?家にこもって絵を描き続ければいいじゃないか」
「いつ仕事にできるかわからないものに全振りできないよ」
「でも……」
 寝室までついてきた災を「着替えるから」と追い出して、お気に入りの餃子プリントのTシャツ(胸元に大きく餃子の写真がプリントされていて、”豚汁”、”冷たくて美味い!”の文字がデコレーションされている)を頭から被る。部屋着のスウェットをスキニーパンツに履き替えて、くるぶし丈の靴下を履けば準備は終了。
 襖を開けたらゼロ距離に災が立っていて少し驚いた。バクバク鳴る心臓を隠しつつ踏み出すと、ぶつからないよう彼が引く。玄関に向かう間もくっつきそうな距離でついてきて、靴を履くのに取次に座ったら横にしゃがんでこちらを覗き込む。
「本当に行っちゃうの?」
「しつこいよ、災」
「でも……」
「……んんー、もう!じゃあついて来ればいいじゃん」
 災は沈んでいた顔をパッと明るくさせ、
「いいの?」
「でも、条件があるから」
「条件?」
「まず、他の人に見える姿にならないこと」
「えっ、それじゃあ君を守れないよ。隣で睨みを効かせるから意味があるんじゃないか」
「バイトに男連れで行くとか変でしょうが」
「変……そっか……あやめが変と思われるのは、嫌だ」
「じゃあ守ってね。あと、外では私に話しかけないで」
「どうして?嫌だよ話たいよ」
「見えない状態のあなたと話してたら一人で喋ってる不審者に思われるでしょう?それに話しかけられたら返事しちゃいそうだから、話しかけるの自体禁止」
「ううっ……わかったよ」
 ハイカットスニーカーの紐を結び終えて立ち上がると、不服そうな顔をしながらそれでも浮き足だった災が土間に飛び降りた。その衝撃を模倣するように、実態を持たない虫が彼の体から落ちて消える。その後ろに立っていたしっぽに「じゃあ、行ってくるね」と言って、戻り時間を伝えようとした時
『ちゃんと迎えに来ると伝えて、置いて行ったんじゃ』
 老人の言葉が頭をよぎった。
 ちゃんと迎えに来ると言われて、それを信じて待ち続けて、黒柴だったしっぽは死んだ。そのことを思うとしっぽだけを置いて出かけることが憚られた。いっそ一緒に行くか。一人神様がついてくるなら、一匹増えたところで変わらない。
「ぼく、ちゃんとおるすばんできるよ」
 こちらの思考を読み取ってか、しっぽは背筋を伸ばして言うと口角を持ち上げて見せた。
「あやめはうそつかないって、ぼくちゃんとわかってる。だからおるすばんするよ。きょうはいつかえってくるの?」
「通しシフトだから、夜ご飯の支度を始めるくらいの時間になるかな」
「わかった。いってらっしゃい」
 九本の尻尾をふさふさ動かし、畳の上に姿勢正しくお座りをする。まるでこちらを気遣って、困らせないように自分を押し殺しているような姿に健気さを感じると共に微かな苛立ちを抱く。そうやって他人の機嫌を取ったところで、何が報われるわけでも無いのに。
 母を思い出した。自分がどんなに”いい子”にしていても、結局自分を捨てた、どこにいるかもわからない女を。
「行ってきます」
 せめて彼の信頼を裏切らないように、バイトが終わったら真っ直ぐに帰って来よう。それから留守番できて偉いねと白い毛並みをわしゃわしゃして、夕食にしっぽが好きなものをたくさん作ろう。
 あやめはこちらを見送るしっぽを見ながら、小さな後ろめたさを感じつつ玄関を閉めた。さて、と一歩踏み出して、傍でじっとこちらを見下ろす災を意識からシャットアウトする。決して話しかけてはならない。ここに誰かがいるような仕草をしてはならない。変な動きをしてしまえば、また捨てられてしまうから。

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