【長編小説】(1)別れを告げた半身を探して
オイル缶の中で燃えるゴミ屑の焚き火で、兄のヒレ肉が焼かれている。死体から無造作に切り出された肉片はそこらで拾ってきたような木の枝に刺さっていて、炎が撫でた部分から鮮やかな赤を白く変色させていく。子供の肋骨の内側の肉は小さい。切り出された時は大人の手のひらほどの大きさだったそれは、こんがりと焼ける頃には半分程度まで縮んだ。
薄暗い路地裏のスラムで身を寄せ合って生きてきた実の兄が殺され、バラされ、ヒレ肉を取った残りが腐臭漂う埃っぽい道に放り出されているというのに、アレックス・ペダチェンコは白けた顔をしていた。父が失踪し、心を病んだ母が首を吊り、残った唯一の家族である双子の兄の死に心が動かないわけではない。ただ、この光景を目の当たりにするのが”二度目”だったから。
「ほら、クソガキ。これを食ったら逃してやるよ」
ねっとりとまとわりつくような笑みを浮かべたマフィアの男がミディアムレアに焼けた兄のヒレ肉を差し出してくるのを見るのもこれが二度目。この後に起こることも、アレックスは”既に見た”ので知っている。
10歳に届かない痩せぎすの少年は、迷うことなく男の手から兄のヒレ肉の串焼きをひったくった。己を取り囲むマフィアの下っ端たちが下品な笑い声を上げるより早く、こんがりと焼けた肉を口へ。それを見ている男たちは、少年が倫理を凌駕する空腹を抱えていたのだと勘違いしている。
アレックスは生まれ持ったフォアサイト(未来視)の能力でこの先の出来事を全て見通していた。兄の肉を食べることで兄の超能力を得ることも、超能力を使いたがらなかった兄の能力をそこで初めて知ることも、兄の能力がこの状況を一瞬でひっくり返せる強力なサイコキネシス(念動力)であったことも。
兄の肉片を咀嚼する。豚と牛の中間のような味の中に、微かな鉄の匂いが混じる。瞬き一つ、目を閉じた中に兄の言葉を思い出し、目を開くとどうしようもない世界が映った。
『超能力を他人に向けるのは嫌なんだ。この能力はきっと、僕自身のためにあるものだから』
ならば自分を守るために使えばいいのに、兄はマフィアに心臓をくり抜かれるその瞬間になってもサイコキネシスを相手に向けなかった。これ以上の”自分のため”はないだろうに、兄は呆気なく命を奪われた。
眼球だけでぐるりと周囲を見回して、アレックスは兄への落胆のため息を吐き出した。そして自分に憎悪する。他でもない、この状況を作り出したのは”自分自身”だから。自分の愚行によって兄は死んだ。自分も今、殺されようとしている。「馬鹿なやつだ」と呟きながらピストルを取り出すマフィアの男は、アレックスが兄の肉を食おうと食わずとも彼を殺すつもりだったらしい。無力な人間は生き残れない。力を示さない人間は呆気なく死ぬ。この世界で生き残る方法はただ一つ。絶対的な強者であること。
成人男性の挽肉の中に兄の亡骸を残し、アレックスは薄暗い路地裏を出た。
薄ら寒い昼の風がコンクリートを踏む彼の素足を刺す。ガシガシと頭を掻くと薄汚れたシルバーホワイトの髪の間からシラミとフケがボロボロと落ちた。他所行きの煌びやかな服を着た人々が、通りすがりに汚物でも見るような視線をこちらに向ける。不思議そうな顔をした子供と目が合って、アレックスは嫌気が差して空を仰いだ。
彼の透き通ったアクアグリーンの瞳の表面が、ビルの大型ビジョンを反射した。大通りを行き交う雑踏の雑音がさっと引き、空白を埋めるようにビジョンに映し出された復讐特番の音声が流れ込んでくる。でっぷりと太った金持ちがソファーにふんぞり返り、今回の復讐のためにどれだけの金を積んだか話している。
「今回の復讐は私だけじゃない……我が社の名誉にも関わることですからな。超一流の復讐屋に依頼しました。知ってます?”ミンサー”って復讐屋」
油ぎった男の声に、爪も唇も真っ赤な女が貼り付けた笑みで応える。
「ああ、最近噂の復讐屋ですね。彼が復讐代行を下した人間は、みんな挽肉になるって」
「そうそう。被復讐者は頭の先から爪先まで一緒くたにミンチになりますから、脳だけ取り出してサイボーグとして延命することもない。完璧な復讐代行です」
「復讐代行業は危険な仕事ですからね、復讐屋は命を賭ける代償に規格外の報酬を要求します。それが一流の中の一流復讐屋ともなれば、破格でしょう?」
「まあ、一般市民には一生奴隷のように働いても稼げない額でしたが、私はそれくらいの価値があると判断しました」
どこかの会社の重鎮らしい男が得意げな笑みを浮かべると、会場の観覧者が感嘆に沸く。手元のシナリオにチラリと視線を落とした聞き手の女が、話題を復讐屋・ミンサーへ向けた。
「ミンサーと言えば、復讐屋としては珍しく顔も住所も公開していることで有名ですよね」
「彼には自信があるのでしょう」
「自信?」
「自身が最強であるという自信です。復讐屋の多くが復讐代行に対する復讐対策に自身の素性をひた隠しにしていますが、ミンサーは最強ゆえにその必要がないのでしょう」
「相手が何であれ、恨みを抱く条件が揃えば人は恨みを募らせますよね?」
「ええ。しかし、その恨みを行動に変換するかは相手による。ミンサーのようにどうしたって敵わない相手であれば、誰もが口を閉ざし、手を引っ込める。これは世界の真理です」
男の発した『真理』と言う単語を、アレックスは知らない。そんな言葉を教わるより早く両親を失って路地裏のスラムに流れ着いた彼の人生に、教育などという概念は存在しなかったからだ。単語の意味はわからない。しかし、それが示している概念は本能的に理解できた。
だから彼は耳を澄ませた。自分が探している”答え”がそこにあると直感したから。
「”最強”を脅かす者はこの世に存在しない。何も奪われず、何も失わず、欲しいものを意のままにしたいのなら、誰もが畏れる恐怖の象徴を体現すればいい」
全知全能の神でも装うみたいに、金と欲に塗れた男が不揃いな歯を見せて笑った。大型ビジョンの向こうにあるエンターテイメントの中で、傍観者たちが感心したように吐息を漏らす。それを見上げる全てを失った少年も
また、同じように長い息を吐き出した。
透明な昼の光に満たされた大通りを行き交う人々は、アレックスを横目に知らんぷりをして歩き去る。誰も彼に手を差し伸べない。幼く、貧しく、無力な少年は取り残される。そんな世界だ。そんな社会だ。
「それなら俺は、最強になる」
口の中に残った兄の味を転がす。初めて使ったサイコキネシスの感覚は、彼の右手に人間の肉を握り潰す感触と共に残っていた。兄に呆気ない死をもたらしたマフィアの男たちを圧縮して殺すのは、彼にとって呆気ないものだった。
呆気ない。何もかもが呆気ない。泥水を啜ってまで生き延びてきた命が奪われるのも、誰かの恨みを買った人間が挽肉になるのも、兄の肉を咀嚼して飲み込むのも、マフィアたちをひとまとめの肉塊に変えることも。世界は単純だ。力さえあれば、何でもできる。
「みんな、ぶっ殺してやる」
呪いのような言葉を吐き出したその時、幼く無力な少年のアレックス・ペダチェンコは死んだ。薄暗い路地裏から、二つの超能力を持つ男が歩き出す。生まれ持ったフォアサイトはどうしようもない未来を映し出し、双子の兄を食らって得たサイコキネシスはその全てを破壊する。誰もが何らかの超能力を持って生まれる世界で、彼の存在は少しだけ特異的で、どこまでも異質なものだった。
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