【長編小説】(2)永遠よ、さようなら
朝、目を覚ます。山間の限界集落にある古い平屋の古民家は、夏真っ盛りの時分においても朝晩は少しだけ肌寒い。肩まで掛けたブランケットから抜け出し、寝巻きのTシャツの上に薄いパーカーを羽織って立ち上がる。一人暮らしに万年床を咎める者など存在しない。いい加減そろそろシーツを洗って布団を干さなければなどと考えるけれど、考えるだけ。実行に移すことはしない。
山の沢から来ている水道水は冷たい。冬は氷を液体にしたような凶器と化すが、夏にはキリッと心地良い。大雑把に顔を洗ったあやめは、まだ開きらない目で米を計って炊飯器釜に入れた。「最近の精米器は優秀だからあまり米を研ぐ必要はない」どこかで聞いた言葉の「最近」と「優秀」が何を基準にした語なのか今もずっとわからないけれど、すすぐ程度で米を洗って水を入れて炊飯器へ。
卵を割り、解きほぐす。しっぽは甘い卵焼きが好きなので卵三つに対して砂糖は大さじ二杯。ウインナーはそのまま焼くのが楽だけれど、この前タコさんにしたら災が喜んだのでまな板を出す。フライパンに油を引いて火にかけて、隣のコンロでお湯を沸かしつつ、三つのお椀にフリーズドライの味噌汁を放り込む。
卵焼き、ウインナー、味噌汁、昨日の残りの漬物。丁寧な暮らしなどしていない二十代前半の一人暮らしの朝食としては十分だろう。そんなことを考えていたら背後に気配を感じて、振り返ると鼻先が触れそうな距離に災の着流しのくすんだ色があった。
「おはよう。近くない?」
「おはよう。僕はもっとちかくてもいい」
「動きにくいよ。ぶつかりそう」
「君にあわせてうごくから、だいじょうぶ」
言葉の通り、菜箸を出そうと踏み出したら災はあやめの動きよりワンテンポ早く身を引くし、コンロに向かって踏み出すとそれに合わせてついて来る。まるでこちらの行動を読んでいるようだ。そんなことができるなんて神様みたい、などと小洒落たセリフを思いついたけれど口に出すことはない。
触れそうな距離よりさらに距離を詰めてくる災に何だかなぁと思ったところで、ヤカンがぴゅうっと沸騰を知らせる音を立てた。これ幸いと「災、お椀にお湯を入れて」と言ったら、片方の頬を膨らませた災が何か言いたげにモゴモゴと口を動かしつつヤカンを持った。
「お湯を、いれる……」
これは彼にとってけっこう無茶なことを言ってしまったと思ったところで、幸い二号が現れる。
「おわんはこれのこと。いれすぎちゃダメだよ」
どこからともなく現れたしっぽが、テーブルの上に顎を乗せた。
「いっぱいいれたらたべるときにたいへん。うえから二センチくらいのところまでにするといいよ」
「にせんち、とは……なんだ。長さか」
「ながさだよ。さい、しらないの?」
「寸で言え」
「ええっとね……いっすんのはんぶんよりすこしおおいくらい」
「わかった」
なぜかしっぽと話すときの災は口調がぶっきらぼうだ。どこか上から目線のような、投げやりなような。神様の中にも立場とか役職とかがあるのだろうか。狗神は平社員で、災は何の神様かわからないけれど実は課長とか部長とかそういうポジションだったりして。
そんなしょうもないことを考えていたら今度は炊飯器がご飯が炊けましたよのメロディを奏でた。早炊きは美味しくないとかどっかで誰かが言っていた気がするけれど、あやめには早炊きも遅炊きもノーマル炊きも区別がつかない。
焼きたての卵焼きをまな板に移し、粗熱が取れて切りやすくなるまでとその場を離れる。炊飯器を開けて、柔らかな香りの湯気を顔に受け、手のひらサイズの白い皿にご飯を盛る。二つ持って、奥座敷へ。
一つは祖父母の仏壇に。もう一つは壁の神棚へ。仏壇に置くのはまだしも、神棚には炊いてない米と塩じゃないのかという疑問を抱いたことはあったけれど、昔から祖母が続けていたこの朝のルーティンを、彼女が亡き後見よう見まねで引き継いでいる。
仏壇と神棚が一望できるところまで下がり、両手を合わせて目を閉じる。何を祈っているわけでも願っているわけでもない空白の時間は短く、目を開けると災が隣で神棚を見上げていた。
「災、これよく見てるよね」
あやめがこの部屋にいる時、気づくと災がいて、いつも神棚を見上げている。
「これはいいものだよ」
「そう?ただの古いオブジェにしか見えないけど」
「おぶ……ここへ来た時からずっとおもってた。これはいい」
「へえ」
「いい。すごく、きれい」
「まあ、埃が溜まりやすいからこまめに掃除するようにはしてるけど」
この部屋は毎朝のルーティンで来る以外に使っていない。だから他の部屋ほど手入れをしていないし、する必要もないと思っている。そんな場所がそんなに綺麗なはずは無いと不思議に思ったあやめが傍を見上げると、神棚を見上げる災のうっとりとした横顔から、土くれのような頬がひとかけ剥がれ落ちた。
「こんなところに住めたら、きっとしあわせだね」
視線に気づいた災が「あんまり見ないで」と頬を手で覆う。その手の甲から、蛆虫のような白い幼虫がパラパラと。
「住めばいいじゃん。札とかよくわかんなくて、おばあちゃんが死んだ時にあったのを神社に返してそれっきりだから。ここは今空き家だよ」
「それはできない」
「どうして。あなた、神様なんでしょう?」
「こんなきれいな場所、僕にはふつりあいだから」
体がひび割れ、枯れ土や虫が落ちるたび、彼は申し訳なさそうで後ろめたそうな顔をする。落ちるたびに畳を汚すのなら少し面倒だけれど、彼から落ちる全てはこの世の何に干渉することなく初めから存在しなかったように消え失せる。何も起きていないんだから無いのも同じなのに、彼はその整った顔を歪ませる。
自分の姿を醜いと思っているのだろうか。だから綺麗な場所には居られないと。それはどういう感情だろう。ハイクラスなホテルの豪華絢爛なレストランに上下スウェットで来てしまった人のようなものだろうか。ならば急いで着替えるか、いっそ食事は諦めて帰ってしまえばいい。
そこまで考えて、あやめは彼の家を思い出す。山奥のそのまた奥の果てにある、静かで物悲しいこの世の終わりを凝縮したみたいな朽木の社。彼と出会った場所。あれが彼の帰る場所なら、それはもう「帰る場所がない」と言って差し支えないだろう。帰れない彼は、着替える以外の選択肢を持たない。
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