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【長編小説】(8)生まれてきたからあなたに会えた

 テケテケさん理科室バージョンなるわけのわからない恐らく妖怪の類であるものに追われて走っていたところをよりにもよってあの体育科主幹教諭に見られていて、職員室に戻ると待ってましたとばかりに小言を言われた。「いつまでも学生気分でいられちゃ困る」とか言われて、内心「学生時代でさえこんな全力疾走しませんでしたよ」と抗議するが、口には出さない。こういう手合いは黙って時が経つのを待つのが吉。下手に弁明をしようものならそれをトリガーにあれもこれもと話が飛躍するのは目に見えている。
「教師は生徒に『廊下は走るな』って言う立場なんだから、それを自分でやっちゃあ……って、朝陽さんは教師じゃなかったな」
「はい」
「でも教員免許は持ってるんだよね?何で実験助手なんか選んだの。理科教師も募集してたのに」
「それは……まあ、私にはこの方が合ってるかと」
「確かにな。あんたみたいな教師がいたら生徒に舐められてこっちの仕事が増えるってもんだ」
 この男の恐ろしいところは、こんな内容を楽しい日常会話だと誤認しているところにある。私たちを遠巻きに見ている他の教員の冷めた目を見るからに、もうどうしようもないと彼の不出来は黙認されているようだ。十代の生徒たちでさえ、自分の欠点を見つめてこれまでの日々を省みるのは難しい。それがとうに人生の半ばを過ぎたような人ならなおのこと。もう周囲の誰が何を言おうと変わることはないだろう。
 彼より二回り若い私でさえそうなのだから。
「走り回った件は、申し訳ありませんでした。以後、このようなことがないように気をつけます」
「変な奇声も上げてたよね?何、朝陽さんって何か見える系の人なの?」
 変な奇声、だなんて白い白馬みたいな表現をされてもと思いつつ、さらに見える系というか現在進行形で見えているんですとは言葉にすることはもちろん表情の一つにも見せてはならない。
 こちらへ嘲笑を落とす彼の背後で、頭部の半分の皮膚が溶け落ちて頭蓋を剥き出しにした砂月が眼球を物理的に不可能な角度にして彼を睨め付けているなど。
「もしかして昔左目に何かを宿してた系とか?嫌だなぁ、いい年して。大人になれよ」
「いや、左目は正常です」
「じゃあ何、素でやってたって?特別な自分を演出するのも、過ぎると痛いだけだぞ」
「……以後気をつけます」
 もうこれは謝罪の定型分で何とか凌ぐか、と思った時。
 これ以上”悪霊”という表現がしっくりくるものとはそうそう出会うことはないだろう悍ましい姿の砂月(に憑いているはずなのに彼から飛び出した霊)がするりと主幹教諭の体に滑り込んだ。思わず「あ!」と私が声を出してしまうのと、目の前の中年男性の体がびくりと痙攣したのはほとんど同時。
 あらゆる最悪の事態を瞬時に想定した私の脳を「今度は何、朝陽さん」と変わらぬ調子の言葉で裏切った主幹教諭は、次の瞬間にはくるりと踵を返して私の前を去ろうとしていた。
「え?何だこれ、体が勝手に」
「先生?」
「ちょっ、止めてくれ、誰か!」
 アメリカ辺りにありそうな古い兵隊人形のようにまっすぐな四肢をカクカクと動かし、左右の手を同時に出して不恰好な足取りで直角に角を曲がり職員室の出口の方へ。困惑と焦りを額に滲ませた主幹教諭は周囲に助けを求めるも、向けられるのは奇異の目だけだった。
 パタパタと不規則な足音を立てて彼が廊下へ出ていって、それと入れ替わるように砂月(の肉体の方)が私の隣に立った。
 主幹教諭が去って、こちらを注視していた視線たちが「やれやれ」と言った様子で散っていく。見るからに様子がおかしかった彼を案ずる者がいないのが少し可哀想に思いつつ、もしかしたら彼はあれが通常運転と思われるほどこれまで奇行を繰り返したのだろうかと想像していたら家庭科の女性教員が近づいてきて「朝陽さん、その怪我どうしたんですか?」と私の両腕に視線を落とした。
「いや……はしゃいでたら盛大にすっ転んでしまいまして」
「病院行かなくて大丈夫?」
「はい。ちょっと擦りむいただけなんで……砂月先生の手当が大袈裟なだけです」
「あら、そう」
 頬に手を当てて見た目通りどこかのマダムのような仕草をする。女性教員は砂月と私を交互に見やり、「まあ、深くは聞きませんけど、あまり危険なことしちゃダメですよ」とだけ言って去っていった。他の教員も各々持ち場に戻る。
「……で、あれはどういう状況です?」
 彼らに気づかれないように小声で傍に訊ねると、
「見ての通り、悪霊に体を乗っ取られて強制退場させられたんですよ」
 と、砂月は長身を斜めにしてこちらに囁いた。
「いや、見ての通りって……あんなこと……」
「あれっ、もしかして朝陽さんは乗ったられたことないんですか?」
「無いですよ。そんな『あなたセブンティーンアイス食べたことないの?』みたいに言わないでください。昔懐かしいみんなが知ってる味じゃないんですよ」
「僕、セブンティーンアイス食べたことないです」
「え?」
「小さい頃、いいなと思ってたんですが、買ってもらえなくて」
 ここまでの事態も話もすっ飛ぶ衝撃。そういえば彼は施設で育って、何もない人生を送ってきたと幽霊の方の砂月が言っていた。思い出したくない、好ましくない過去を掘り起こしてしまったか。
 次の言葉を紡げなくて口をパクパクさせる私はとんでもない顔をしていたのだろう。ふっと困ったように笑った砂月が「今度一緒に食べてください」と誤魔化す。「あれって、一人で買うのはどうにも勇気が必要で」と続ける彼はきっと優しい。
 だからこそ、彼があの幽霊の復讐に同意していると言うのがいまいち納得できない。
「朝陽さんに憑いている幽霊はあなたを乗っ取らないんですね」
「それは、そうでしょう」
「そうですか?」
「……砂月先生、もしかして、あの幽霊に操られてここに居るとかってことあります?」
「全くないですね」
 もしやと思い大して考えもせず吐き出した私の仮説は一刀両断された。まあそうだよなと嘆息すると屈んだ砂月の顔が目の前に現れて「もしかして心配してくれたんですか?」と。
「てっきりあなたは何にも興味がなくて無気力なんだと思ってましたが、意外と人情味があるんですね」
「そんなことないですよ。人生これっぽっちも楽しいことがないのに、あんな中年に小言を食らうばかり。収支が合わないのでさっさと死にたいです」
「本当に?」
「どこか疑わしいところでも?」
 理系らしく論理的で客観的な意見をどうぞ、と続けると、砂月はどこか楽しげに「ふうむ」と顎に指を置いて考える仕草の典型を成し、
「残念ながら理系なのは僕に憑いている悪霊の方で、僕自身は深夜の交通整理バイトで食い繋いでいた学のない人間なので……ただ、直感的にとしか」
 あっけらかんと言い放って私の罪悪感をスクスク育てた。
 またやってしまった。霊が言っていた「頭がいい」と言うのは地頭の方か。てっきり生い立ちは不遇なれど努力と才能で道を拓いたタイプかと思っていたが、現実はどこまでも融通が効かず残酷らしい。
 無神経なことを言ってしまったと謝らなければ。そう思って空気を吸ったけれど、「ほら、そういうところ」と唇を骨張った人差し指の先で触れられて驚きのあまり声が引っ込んだ。普通触るか、こんなとこ。
「あなたは言葉がその記号以上のものを相手に伝えると知っている。自分が発した言葉の裏に相手が何を感じるか、感じているか慮ることができる。そういう人に、意図的な死は似合いません」
 まるで諭すように言われるのがどうにも納得いかない。似合う似合わないで言うならば、彼に対しての復讐の方が私を凌駕している。彼は何がしたいんだ。何を正義と思い、悪と断じ、もう死んでしまった者と共に何を成そうと言うのだろう。
 問いたいことは山ほどあった。訂正したいことも、伝えたいことも、引き留めたいことも。しかしその全てが背後に押しやられる。机の列を二つ挟んだ向こうで、家庭科教諭が口に手を当てて「あらあら、まあまあ」とこちらを向いて浮き足立っていたから。
 唇に触れていた砂月の指を振り払い、私は廊下に駆け出した。幽霊の方の砂月から解放された主幹教諭にそれを見つかって再び小言を喰らったのは言うまでもない。その様子を天井から眺める幽霊が呆れ顔をしていたのは誠に遺憾だった。

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