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【長編小説】(12)別れを告げた半身を探して

 認知症が進んだ老夫婦の家の屋根裏部屋が、アレックスがいつも寝床にしている隠れ家だ。
 まだ彼が今ほど強くなかった頃、重傷を負って力尽きたのがちょうどその家の前だった。石畳の上に血まみれのボロ雑巾のように倒れている彼をなぜか自分たちの孫だと勘違いした老夫婦に拾われて、以来この場所を拠点としている。平和な表社会を生きる彼らに危険が迫ることはないが、一応何かあった時は守ってやろうと思っている。
 今日も”圧縮屋”としての自分を見た者を皆殺しにして(と言っても、復讐代行には隠密行動が最適なので、見られたのは被復讐者の男とその息子だけだが)、胸の奥にできた小さな石ころを感じながら足音を殺して家路を行く。この国において、強い者の職業と言えば軍人でも警察官でもなく、復讐屋だ。その頂点に立つと言うことは、この国最強の人間になることに等しい。だからその道をひた走ってきた。この道は正しいはずだから。
 それなのに、ターゲットを圧縮するたびに胸の石ころは増えていく。どんどん質量を増していく硬い質感に、今ではこの道が間違っていたのかと疑いだす始末だ。何が引っ掛かっているのだろう。オルガのように、人知れず隠れ暮らしている強者が存在するからだろうか。復讐屋の頂点に立っても最強にはなれないのだと、歩いてきた道のどこかで無意識に気づいていたのか。
 渦巻く思考をうまく言語化できなくて、アレックスは苛立ちに足音荒く扉を開いた。こういう日はさっさと寝てしまうに限る。もうすぐ夜が明ける時分だ。老夫婦はとっくに寝ているはずだから、「アニーちゃん、グラタン食べるかい?」などと老婆に絡まれることなく屋根裏部屋に上がれるだろう。
 後ろ手に扉を閉めながらアレックスが考えた全ては、目の前に広がる光景に否定された。老夫婦が起きていたからだ。玄関すぐに広がるリビングのソファーに座る彼らの向かいに、見知らぬ男と女が一人。どこか死人のような雰囲気を纏う男のミッドナイトブラックの瞳がこちらを向いた瞬間、反射的に能力を構えた。
 同時に、男の手に握られた鈍い銀色の銃口が老夫婦を捉えているのに気づく。発動しかけたサイコキネシスを閉じて両手を上げて見せると、老婆が「あら、おかえりなさい」と間の抜けた声を出した。小型のピストルを持った男に「目的は何だ」と端的に問うと、隣に座っている派手な美人が口を開く。

「あなたが”圧縮屋”?」
 復讐屋を始めて十数年。こんなことは初めてだ。圧縮屋であることを見つけられ、あまつさえ、隠れ家を突き止められるなど。
「……だったら何だ」
「正直に答えて。あなたがジョージ・ラスクを殺したの?」
「あ?ジョージ?」
「とぼけないで。この国の超能力者を隅々まで探したのよ。あんなことができるのは、強力なサイコキネシスを使うあなただけ」
 何を問われているのか理解できないが、向けられる視線にただ苛立ちが募る。軽蔑するような、叱責するような、圧縮する被復讐者のものとは少し違う、自分の根幹を否定されるような感覚。
「そんな奴、知らねえ。ターゲットにいたとしても、俺はつい最近殺した奴しか覚えてねえ」
「つい最近よ。つい最近、ジョージは炭にされた」
「炭?なら俺じゃねえ。俺は」
 アレックスの言葉を女の張り詰めた声が遮る。
「知ってるわよ。あなたは圧縮屋。空間ごと対象者を圧縮して燃やすことくらい、簡単にできるでしょう?」
「圧縮?燃やす?なんで圧縮すると燃えるんだ」

 話の意味が掴めず、アレックスは混乱した。圧縮と燃焼がどう関係するのかわからない。こんな言葉より、「今日のディナーはシチューにするから植木鉢を買って帰らなきゃ」とか言われた方がまだ理解できる。それほどまでに、女の言葉はアレックスの理解を超えていた。
 女のカーディナルレッドの瞳に満ちていた負の感情が緩むのが見えた。何かに気づいたような、答え合わせをするような、こちらを見ているのに見ていない瞳に変わる。何が何だかさっぱりだが何かを諦めてくれたのかと思いきや、今度は男が口を開いた。

「言い負かそうとしても、そうはいきませんよ。本当のことを言ってください。あんたが彼女の恋人に何をしたのか」
「だから、知らねえっつってんだろ!何なんだてめえらは」
 はらわたが沸々と沸き始める。もはやこの苛立ちの理由さえ不明瞭だ。
「俺が代行した復讐の遺族か?なら俺を恨むのはお門違いだ」
「ああ、そうです。彼女はあんたが無惨に殺害したジョージ・ラスクの恋人なのですから」
「だから、そんな奴知らねえって」
「嘘をつくな」

 男がリボルバーの撃鉄を上げるのを見た瞬間、アレックスの中で何かが音を立てて断絶した。血液が一気に頬を遡る感覚。内臓の奥から能力が溢れそうになったと思ったら、瞬き一つの後に床に突っ伏していた。

「あんたは強い。だから対策をしてきました」

 周囲の空間がジリジリと歪み、身体が床にめり込んでいく。側から見ればサイコキネシスで地面に押し付けられているように思えるだろうが、力を身に受けているアレックスはそうでないことを理解していた。上から押されるのではない。下から引かれている。重力を操る能力者によるものだ。
 歪んだ空間の端に、ピカピカに磨かれた革靴の先が見えた。床板と癒着しそうな頬をどうにか持ち上げると、底のない穴のようなミッドナイトブラックの瞳がこちらを見下ろしていた。鮮やかな現実の風景に、いつかの過去が重なる。これは、そう、”あの日”の路地裏の景色。

「僕は軍需企業の経営をしてますので、自ずとその方面には顔が効くんです。今日はあんたのために、軍から重力操作能力者を集めて来ました」
「じゅう、りょく……?」
「便利な能力ですよ。対象の空間を視認していなくとも、意識すればその場所に重力場を形成できる。一人ひとりの力が弱いのでどうなるかと思いましたが、集まればあんたのような能力者も抑えられるのですね」
「てめっ、なに……を……」
「あんたのことを調べました。律儀に復讐代行者データベースに登録したのが運の尽きでしたね」
 血色の悪い唇が、ニンマリと細い弧を描いた。男の笑みは病的な雰囲気を纏っていて、丁寧な口調が白々しい。
「アレックス・ペダチェンコ。五歳で死亡したとして住民登録は抹消されていましたが、復元できました。異能研究者の父と何の取り柄もない母の間に生まれた双子の片割れ。あんたは未来視を、双子の兄はサイコキネシスを持って生まれた」
 ここで男は声を顰め、
「どうやってサイコキネシスを奪ったんだ?」
 アレックスにだけ聞こえる声で、囁いた。

 最強になれたと思っていた。もう誰に負けることもないし、奪われることもない。どんな脅威も片手を振るだけで退けられる。全能の能力者なんて都市伝説だ。自分は誰よりも強い。だから何でもできる。どこまでも一人で生きていける。そう思っていた。
 これまで積み上げて来たものが瓦解する感覚。全能の能力者であるオルガには相手にされなかったし、こんな見ず知らずの表社会を生きている人間の罠にはまり、細々とした能力者に踏みつけられている。何もかもが腹立たしくて仕方がない。この空間ごと邪魔者をミンチにしてやりたいが、重力に圧迫されて指の先さえ動かない。
 イライラする。心臓の中心がぐらぐらと揺れている。頭蓋の中はミキサーのようだ。何も考えられない。何も……

「あんたも兄弟を食ったのか?」

 男が嘲笑うように発した問いが、スイッチだった。
 アレックスの脳内で、早回しの八ミリビデオのように過去のセピアが再生される。
 数時間前、「お父さんを殺さないで」と縋り付いて来た子供の泣き顔。
 初めての暗殺で血まみれになった両手。
 飢えに耐えられずゴミ箱から拾い上げた残飯。
 双子の兄の笑い顔、泣き顔、最期の瞬間の、苦痛に歪んだ頬の輪郭。
 全てを奪われるのに何もできない、幼く無力な、小さな自分。

「あ、ああ……あああああああ!」

 身体の表裏が反転して、中身が弾けて飛び散るようだ。本能のように鳴る声帯と呼応するように、骨の髄から能力が溢れてくる。
 床板がバリバリと音を立てながら千切れ、舞い、悲鳴を上げた老夫婦が外へ逃げていく。二人掛けのソファーがぬいぐるみサイズに縮み、膨張する空気に押されて窓ガラスが砕け散り、サイドボードが天井に打ち付けられた。

「ちょっと、何よこれ!」
 アプリコットの髪の女が叫ぶ。
「能力の暴走ですね。昔、異能管理庁の研究所のデータベースにハッキングした際に読みました」
 天井と床の間を跳ねるテーブルを見ながら、真っ黒な男が平然と答える。
「暴走って……圧縮屋の?」
「ええ。能力を使いすぎると、疲弊が原因で暴走することがあるそうです。超能力を多用する強い能力者の不審死は大体これだとか」
「あなた何でそんなに冷静なのよ!」
「いや、面白いなと思って。やっぱりサイコキネシスは万能ですね。ほら、ミシェル、見てください。あそこ、空間の圧にムラができてます」
 面白い形の雲でも見つけた子供のような顔をする男を、女が絶句の表情を浮かべて睨みつける。
「呑気なこと言ってる場合?これヤバいわよ、早く逃げないと」
「ええー……僕はもう少し観察したいです」
「スタンレー!あなたバカなの?」
「大学の成績はオールSでした」
「そんなこと聞いてないわよ!」

 能力の制御が効かない。胸が破裂しそうに熱い。奇妙な生物を観察するような目を向けてくる男も、その横で騒ぎ立てる女も憎らしい。全てが憎い。イライラする。壊したい。何もかも、自分さえ。

「大体、スタンレー、あなた彼に何を言ったの?あなたが何か囁いた瞬間こうなったでしょ」
「いえ、大したことは……」
「もうっ、これじゃあもう話ができないじゃない」
 そこで男はハッとした顔をして、
「それは、申し訳ありません。どうしましょう……何とかして暴走を止めないと」
「もう良いわよ。早く逃げるわよ」
「でも、ミシェル、」
「聞きたいことは聞けたからもういいわ!だからほら、早く!」

 崩れ落ちようとする玄関をギリギリで通り抜け、朝が間近に迫った夜空の先へ男と女が消えていく。沸騰した頭でぼんやりとそれを見ていたアレックスは、本能で自分の死を覚った。
 自分のコントロールを離れて暴走を続ける能力が、周囲を破壊し尽くそうとしている。壁を吹き飛ばして柱を砕き、落ちて来た天井を素粒子レベルまで分解する。身体の奥底から放出されるエネルギーのうち、何の破壊にも至らなかったものが身体に跳ね返ってくるのを感じた。体表が焼けるように熱い。あの女が言っていた『圧縮して燃やす』とはこのことか。
 どうにか能力を止めようと意識を集中させたが、どうにもならないことはすぐにわかった。アレックスは脱力し、もたげた頭を床につけた。目の前に色とりどりの花が生けられた花瓶が落ちてくる。
 花などこの家にあっただろうかと考えると、どうでもいい思考が頭の中を満たしていった。この家の周りが空き地でよかったとか、老夫婦が逃げ出していてよかったとか、この家がなくなったら彼らは今夜どこで眠るのだろうとか、結局何もなし得なかったな、とか。
 強がっていた自分の生皮が剥がれ落ちていくような気分だ。最強を自称し、残虐非道な心のない人間になりたくて、トチ狂った殺しをデザインした。圧縮屋が圧縮した被復讐者を立方体に整えることに関して巷ではあれこれと理由が囁かれているが、実際は何の理由もない。立方体だって、円錐だって、球だって星形だって何でもいい。ただ、見た者の記憶に一生残るような死を作りたかった。その風景にはきっと、自分の名前も刻まれるから。
 割れた花瓶の中に散らばった花が、ミルククラウンを演じるように舞う。花弁がバラバラに散って渦巻く空間の中を舞う姿に、次は自分の番だと思った。
 ”兄が死んだあの日”でさえ生まれなかった感情が湧く。圧縮されて詰まった喉から、それはダムが決壊するように。

「だ、れか……たすけ……」

 伸ばした手の先、地平線の向こうから一筋の光が差す。夜に死んだ太陽が、息を吹き返そうとしている。真っ直ぐで透明な光が差して、舞う花弁の色を鮮明に映し出し、夜が悲鳴を上げて白けていく。
 閉じかけた視界の中に、朝日を遮る何かを見た。重力を忘れた花弁がぴたりと動きを止め、身体を覆っていた熱が霧散する。透明な光を透かすアリスブルーが、風もないのにふわりと靡いた。


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