【長編小説】(3)生まれてきたからあなたに会えた
ギリギリ午前様への変異を免れたと思った帰り道。公共交通機関の全てが眠りについたところを何とかしてようやく家に着くと結局時計の針は午前零時を過ぎていて、もう何もかも面倒になって鞄を畳に放り投げた。
『僕らは自らの意思と無関係に生み出される』
砂月の発した言葉が頭から離れない。言語化されないで私の中にあった空白が、名前を持って意味を得たような感覚だ。ずっと抱えていたモヤモヤに、明確な輪郭が与えられた。
生きるためには金がいる。金を稼ぐには働かなければならない。働いていると嫌なことがたくさんある。嫌な気持ちを誤魔化すために感情の捌け口を探す。それは趣味とか、休息とか、仲間とか。何かをすれば腹が減るから食事を摂らなければならなくて、脳は動き続けていられないから一定の睡眠時間を確保しなければならない。現代社会は忙しない。休むためにがむしゃらになって仕事を終わらせて、でもそのがむしゃらのせいで疲れて、そのために休んで。
ずっと、堂々巡りだと思っていた。これはもはや負のサイクルに近い。生きることを許されるために課された義務を全うするために、生きている全てを消費している。
そもそも生きていなければ、こんなことをせずに済む。起点は生誕にある。私が存在していることにある。しかし、だからと言って、自ら自分を終わらせることは望ましくないことだ。イレギュラーであって非道徳的。やってはならないことだと、思っていた。
『誰かに無理やり人生を押し付けられる』
確かにその通りだと思った。彼の言葉に天啓を受けたような感覚を得た。確かに私はこの人生を始めたいと願った記憶はないし、始まるにあたりその是非を問われたこともない。誰かに押しつけられたものならば、その継続の義務が私にないことは明確だ。
「いいことを教えてくれてありがとう、砂月先生。直接お礼は言えないから今言っとくわ」
押入れから買っておいたロープを引っ張り出し、今の梁に括りつける。祖父母が小さい頃にこの部屋にあったという囲炉裏の煙をいっぱいに吸って黒光りしている、現代家屋ではあり得ない太さの一本木。母方の一族が何代にも渡って暮らしてきたこの家はその間に何度もあった大地震を起き抜いている。私一人の体重を支えたところでびくともしないだろう。心強い古民家だ。
ロープを何度も引っ張って取れないことを確認したら、その下にビニールシートを引く。家主の祖父母はとうの昔に他界して、この家に今は管理を引き継いだ私一人。吊った首が腐り落ちても誰にも見つからずここにあり続けることを考慮して、せめて死体の染みを残さないようにという計らいだ。人死にがあった古民家など取り壊されるだろうが、せめて行き場のない私を数十年に渡って留めてくれた家に汚れを残すのは避けたい。
椅子の上に立ち、ロープの輪を首に通して準備完了。あとは椅子を蹴り倒せばいい。
「アディオス、世界」
つま先で椅子を蹴ったその刹那、視界の端に動くものを見た。枯葉のような色彩で、木枯らしに何度も蹴飛ばされたようにカサカサで、これは、生物の体毛?
体が重力に引かれる。喉の薄い皮膚にざらついたロープの表面が触れて、枯葉色の丸い何かが近づいてきて、
「お前ほんといい加減にしろよ!」
毛の塊から男の声がしたと思ったら、体に何かが巻き付いてがくりと落下が停止した。時間にして一秒未満。ロープが頸動脈を圧迫する一歩手前。何かが触れたところに温かさを感じて見下ろすと目つきの悪い男が私に抱きつくような形でこちらを睨みつけていて、仄暗い紫を底に宿した彼の瞳を綺麗だと思った。
かくして、私の自殺は未遂に終わった。何がどうしてそうしなければならなかったのか皆目見当がつかないけれど、私は今、戦争で死んだというこの幽霊と一緒に暮らしている。
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