車椅子
東京に住んでいた妹は11年目に交通事故で夫を失い男の子ばかり三人連れて長野県の実家へ帰りました。それは昭和48年3月のことでした。
その時、妹は35歳、上の子(私の甥)が10歳でした。
甥が私の父母の養子になって実家の跡を継ぎました。
甥が結婚して甥の連れ合いが二番目の子を妊娠している時でした、栃木県小山市に住んでいて長野県の実家の事情など分かるはずのない妻がある朝、私の妹が泣いているとと言います。
「高子(仮名)さんが困って泣いている。泣きながら何かを訴えている」と言い張ってすぐに電話すると言います。
仕方なしに電話で「何かあったのか」と訊きますと「どうして分ったの」と問い返します。
「和歌子(仮名)が夢を見て高子さんが泣いている、と言ってきかないので電話した。やっぱり何かあったんだな」と訊きただすと、母の認知症が進んで甥夫婦に無理ばかり言うので、もう甥夫婦が妹にも口を利かなくなった、と言います。
「差し当たって二週間くらい、出産の前後には一月か二月私が母を預かる。すぐに行くから」と言って車で家を出ました。
朝の内に出発したので、昼過ぎに実家に着き用意して待っていた母を車に乗せてとんぼ返りしました。
二週間ばかり我が家で世話をして、その時には無事に送り返しましが、暑い時期でした。
姨捨の高いところに高速道路ができていて、実家まで1時間とちょっとの距離まで来ましたのでサービスエリアで一休みして、母にアイスクリームを勧めました。
食べ終わって車に乗るとき、
「旨かったな」
と言って笑った顔は忘れられません。
それから二カ月も経ってからだったでしょうか、お産の時期が近づいたというのでまた母を迎えに行きました。
前に来た時には私の家で泊まることに興味もあったのでしょうが、二度目にはすぐに飽きて帰るかえると駄々をこねます。
家の中で這うことはできても立って歩けない母を車椅子に載せて、あっちこっちと連れまわし何とか引き留めていましたが、実家で無事出産と聞くとすぐにも帰ると言い張ります。
東京に住んでいる下の妹に電話すると明日にも来てくれると言います。
たまたま小山にボリショイサーカスが来るというので切符を買ってサーカスを見てから帰りなさい、と駆けつけてくれた東京の妹と私たち夫婦三人がかりで説き伏せました。
サーカスは面白かったようでした。
車椅子だったので観客席の前に案内してもらえて私も母と特別席でした。
白熊がたくさん出て芸をしましたので母は大喜びでした。
祖父母や叔父叔母、父にまで抑圧されて40年も〈家の嫁〉として仕えてきた母が、抑圧するものが居なくなってから人格が変わったのでした。
「妻がフッとみんみんぜみがないてます」
つまがふっとみんみんぜみがないてます
「夕顔や誰か訪いくる気配」
ゆうがおやたれかおとないくるけはい
「車椅子とんぼうの群れ仰ぐ母」
くるまいすとんぼうのむれあおぐはは
「夕花野老母が歌う車椅子」
ゆうはなのろうぼがうたうくるまいす
2022年10月13日