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あわいのレクイエム (能「井筒」)
先日の矢来能楽堂での『井筒』が凄すぎて、思い返しては茫然としている。
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『井筒』は夜の部。ちなみに初見である。
シテの味方玄師は所作からして人間離れしていた。舞台上をずっと注視しているにも関わらず、いつのまにか動きが生じている。おそろしいことに、その「出」がまったく分からない。シームレスどころではない。すべての「動作」の意味が異次元なのだ。
ハコビひとつとっても「歩行」からかけ離れている。かすかに浮いているような、まるで微塵も動いていないかのような滑らかさ。見惚れているうちに時間の感覚がずれていく。緩やかに、けれどもきわめて精緻に制御された、この世のものではない動き。
面は演者と一体化している。これは能を観ていると稀に起きることなのだが、この日はやはり別格であった。言葉とともに、謡とともに、ひめやかに表情を浮かべ、色を変えていく。それは「面(オモテ)」ではなく、里女の顔そのものだ。人の形をしてはいるものの、あきらかに人間とは異なる存在。その奇跡に思わず息を呑む。
前シテの里女の佇まい。たしかにそこにいるはずの演者が朧けて見える。存在/不在のゆらめき。月明かりに浮かぶ古寺の景色が、はかない寂寥感をともなって能舞台の上に重なって映る。やがて古い歌をトリガーとして女の回想があふれ出し、舞台上のみならず客席ごと記憶の層へと遷移させていく。
ここで里人が呼び出される。その目的はダイジェストではなく、あえて客観的なパースペクティブを導入することで、観客を外枠ごと物語に引き摺り込むことにあるのだろう。過去と現在をブリッジする補助線。野村萬斎師のアイに徹した語りも見事。かくして後場に向けた準備が整う。
後シテの有常の娘の霊が姿をあらわす。業平の形見の冠と直衣をまとった姿は中性的であり、二重写しの存在として顕現している。舞は静かに始まるのだが、しだいに内圧が高まっていくのが伝わってくる。動と静。哀しみと歓び。感情の昂ぶりと無常をともなった諦観。相反する極のちょうど中間、二つの世界の境界を私たちは見ている。
「非エモーショナルなエモーション」とでも言うべきか。ぎりぎりまで削ぎ落とされることで生まれた「あわい」に、いつしか観客たちも揺蕩っている。舞っているのは感情の主ではなく、あくまでも「感情の記憶」なのだ。だからこそシテは亡霊であり、夢幻の舞台は半ば自然に埋もれてしまっている。
悽愴さを湛えた美しさ。劇が進むうちに、舞っているのが誰なのかすら曖昧になっていく。味方さんの解説にあった「有常の娘なのか業平なのか」の意味がようやく分かる。そうして追憶はかぎりなく自然に近づいていく。どれほど強い哀惜も、執着も、最終的には自然の中へと還っていくのだ。序の舞とは本来こういうものだったのか、と瞠目する。
あれだけ徹底して抑制された舞台を目にして、こんなにも感情を揺さぶられ、涙することがあるのか、という驚き。舞台と客席が文字通り一つになっていた。「どうか最後まで味わってください。有常の娘は、業平は、その場に留まっているはずですから」という味方さんの言葉を思い浮かべ、いまだに余韻に浸っている。
この日は囃子方も強者ぞろい(味方さん曰く「武者震いしています」)で、張りつめたテンションを保ったアンサンブルが横溢しており、眼前の世界に身体ごと没入することができた。矢来能楽堂の蒼然としたしつらえも演目にふさわしかったように思う。
一瞬のようでもあり、永遠のようでもあり。観劇後は魂の組成が入れ替わったような心地よい虚脱感に包まれた。濃密で充実した『井筒』体験であった。
能『井筒』
シテ:味方 玄
ワキ:宝生 欣哉
アイ:野村 萬斎
小鼓:大倉 源次郎
大鼓:亀井 広忠
笛:竹市 学