エッセイ紹介:渡辺保(2023).「猿之助は未来への希望だった」.『文藝春秋』七月特別号 (pp.151-159)―(その2/3)
これ以降、幾つかの節に分けて、現在の歌舞伎の状況などに対する批評を含めた、歌舞伎批評家・渡辺保による猿之助評が本格的に展開される。
まず、「子役、宙乗り、早替わり」の節である。著者の観測によれば、歌舞伎は現在危機的な状況にあるが、その中で松竹は客寄せを三本の柱、すなわち子役・宙乗り・早替わりに頼るようになった。「子役」について、「子供相手によく金を払うな」と渡辺は皮肉っている。ワイヤーロープに役者が吊り下げられ舞台や客席の上を移動する演出としての「宙乗り」、役者が一瞬で衣裳を替え他の役になる「早替わり」は、確かに歌舞伎の見せ場であり、著者は必ずしも全否定はしていない。しかし、物語が分からなくても歌舞伎を観たような気にさせてしまう、歌舞伎の人間ドラマや役者の魅力を蔑ろにしたこの種の演出が蔓延る風潮を見て、渡辺は「こりゃあ、歌舞伎は早晩滅びるぜ」と思っていたという。そうして、猿之助こそが、この歌舞伎の惨状を変える「救世主」になると信じていたという。
次の節「芝居の“ツボ”を外さない」でその理由が語られる。著者が猿之助の一番の才能と見做すのは、「テキストレジ」である。テキストレジとは、上演用に脚本を手直しすることを意味する。歌舞伎にも、近松のような劇作家の書いた原典が存在するが、原典通りに芝居を上演すると非常に時間がかかることが多いので、一定の時間内に収めるために台本を編集すること、すなわちテキストレジが必要になる。【歌舞伎における「通し上演」とは、一つの作品の初めから終わりまでを通しで上演することを意味するが、現在の歌舞伎の舞台では、「通し上演」と銘打たれてはいても、原典をかなり短く刈り込んだものが一般的である。つまり、ここで言うテキストレジは歌舞伎において必須なのである。】
猿之助のテキストレジの才能を示すために、猿之助が関わっていなかった2013年の『陰陽師』と今回の『新・陰陽師』とが比較される。旧作の方は、渡辺によれば「なにがなんだかよく分からなかった」のに対して、新作では、話が分かりやすくなっている。それは、猿之助が人間関係を整理し、それぞれの役者を引き立てる場面を作ったせいである。
ここで歌舞伎における「ツボ」という概念が援用される。ツボとは、芝居において外してはならない要点であり、それを意識してテキストレジや演出が行われるべきポイントを意味する。著者は、近松門左衛門の人形浄瑠璃『冥途の飛脚』に基づく「封印切」の場面を例に取って、「窮極の選択を前にして人間が迷い、決断する様をいかに見せるか」というツボの重要性を説明している。物語のツボを心得ない脚本だと、「物語」の筋は残っても「芝居」にはならない。猿之助は、自分自身が舞台に立っているので、役者の気持ちも観客の気持ちも感覚的に理解することが出来、役者を輝かせ観客を喜ばせるための芝居のツボを体得しているのだと、渡辺は評価している。ここでは、芝居のツボを心得ないでテキストレジを行う脚本家がしばしば存在する、興行会社の演劇部に対する批判も行われている。
一方、次の「神出鬼没の悪役の熱演」では、役者・猿之助に対する高い評価も語られている。『新・陰陽師』で猿之助が演じたのは、安倍晴明のライバルである陰陽師の蘆屋道満であるが、この人物は奇想天外な秩序紊乱者のエネルギーに溢れており、猿之助はこれを体現した。
このように、脚本家、演出家、役者という三つの才能を併せ持つ猿之助は、歌舞伎界の「救世主」となり得る存在であると同時に、その真価は、澤瀉屋の十八番である派手な仕掛けの歌舞伎ではなく、歌舞伎の本流の再興にこそ発揮されるべきであると、著者は述べている。実際「彼ならその大仕事をやり遂げる能力が十分にありました」とまで評価している。
【今回の「猿之助事件」を巡るネット上でのコメント類の中には、猿之助などそんなに大した人じゃなかった、「テキストレジ」など誰でもできる、など無責任で「お気楽」な言葉が相変わらず氾濫しているが、今回の事件による人間としての猿之助への批判や否定とは別に、多分現代の歌舞伎の比較的若手の役者・演出者の中で、猿之助が最も輝かしい才能を発揮していた人であるということは、少なくとも最近の歌舞伎を見て来た人なら、好き嫌いはあるにしろ、否定出来ない客観的事実だろう。】
今回猿之助の母親と共に死去した父親四代目市川段四郎もまた偉大な歌舞伎役者であった。次の「父・段四郎の優れた才能」でその紹介が行われる。【私は病気で出演しなくなる前、何度か舞台で見たことがある。】渡辺保によれば、段四郎のはまり役は『勧進帳』の武蔵坊弁慶であった。いくらでもいるいい弁慶、うまい弁慶に対して、最もその役柄に合っていると著者が感じたのが、段四郎による弁慶であったという。
ここで渡辺による歌舞伎論の重要な要素が一つ開陳される。それは「型」である。歌舞伎には、衣裳や動きの型が存在し、役者は芝居を演じる際決められた型にはまることを求められる。一方、役者の生まれ持った身体的特徴を「ガラ」と言い、個々の役者が工夫して作り出す表情や身のこなし、全体的に醸し出される空気など、努力して獲得されるもののことを「ニン」と呼ぶが、段四郎は稽古によって弁慶の精神的イメージを作り出し、弁慶の型を体現することができた。また、段四郎は浄瑠璃用語で言う「堅親父」すなわち頑固親父の役(『平家女護島』の瀬尾太郎、『夏祭浪花鑑』の三河屋義平次など)をそれらしく演じ得る極めて貴重な人であった、とされる。
【なお、私が考えるに、渡辺保の歌舞伎批評の一つの特徴は、歌舞伎の世界において古来用いられて来た多くの熟語を、その原義に立ち返って定義し、それらを用いた分析や評論を展開することにある。従ってそれは、西欧由来の物語論的概念を日本の文学や物語に当て嵌めて分析するタイプの物語論とは異なる、日本独自の物語論=ナラトロジーを構成している。】
その後再び猿之助の話に戻り、今回のスキャンダルとも関係するより広い話題が取り上げられる。まず「評価を気にする性格だった」の節では、人間としての猿之助の性格を巡る感想を著者は述べている。今回の一家心中事件を引き起こした一要因と考えられているのが、事件当日の5月18日に発売された『女性セブン』の「歌舞伎激震の性被害! 市川猿之助濃厚セクハラ」というタイトルの記事であった。このショックによって一家心中を選んでしまった猿之助の性格の一特徴が、著者の慶應義塾大学教授時代の一つのエピソードを通じて推測される。その頃猿之助も同じ大学に学ぶ学生であったが、渡辺保の講義に顔を出すことがなかった。そこであるパーティーで、「「なんで俺の授業とらないの?」と聞いたら、すごく苦々しい顔をしました。きっと自分の芝居について、評論家にあれこれ言われるのが嫌だったのだと思います。」そう著者は書いている。「歌舞伎界の天下取りを目指そうという役者がその程度の肝っ玉ではいけません。」/「もっと気持ちを大きく持てよと言いたくもなります。」とも著者は述べている。
(冒頭画像は、「引退興行初日の観客―昭和九年十一月二十三日撮影―)」[札幌市北区・篠路コミュニティーセンター収蔵展示物。許可を得て著者撮影])