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三島由紀夫の暗殺論―軽い感じのエッセイから―

今年の三月に20年近く務めた岩手県立大学(ソフトウェア情報学部)を定年で退職し、大阪吹田市の大和大学(情報学部)に移ったが、その際せめて本の背表紙を見えるようにはしたいものだと考えつつ、自宅と大学の蔵書の移動を、3月と8月の二度にわたって行った。
毎日少しずつ段ボール箱を開け、本の整理を行っているが、時々ふっと目に止まるものがある。
東日本大震災以降収集していた10年分以上の商業雑誌を整理していたところ、「KAWADE 夢ムック 文藝別冊 三島由紀夫 <増補改訂版>」(2012)という本があり、その中に三島由紀夫が1960年1月から12月までの『婦人公論』誌に書いていた12編の「巻頭言」を集成したものがあった(pp.99-107)。

どれも、比較的軽いエッセイであるが、その中の9編目に、「暗殺について」という文章が収められている。
ほんの短い文章なので、全文引用した方が良さそうなものであるが、ポイントだけ示せば、まず、三島が「暗殺を肯定的に捉える」のは、「少なくとも一部の政治家には、こういう事件がいい薬になろうし、政治が命がけの仕事となれば、少しは政治家の背骨もシャッキリするだろう、ということも考えられる」からである。
しかし三島によれば、人間は、命がけだからいい仕事をするとは限らない。命がけで悪い仕事をやっている連中も、世の中には多々いる。
この短いエッセイで最も重要なのは、次のような、「「暗殺」ということの政治的危険性」を論じた部分である。
引用すると―「政治及び政治家は何事をも利用するので、政治の局面で死者や負傷者があらわれると、これを花々しく利用することになり、一方ではその犠牲から思いがけない利益をうける人たちも出てくる。」
その後いろいろな例が出てくるが、飛ばして、結論を引用すると―「‥‥‥こんなことになっては困るから、やはり暗殺なんてものは、ないほうがよいのである。」

三島がここで簡明直截に書いているのは、ごく常識的なことに過ぎないと思われるが、我々が見たように、安倍晋三暗殺は、まさに社会的に「花々しく利用」された。
暗殺という犠牲によって、一種の世直しが行われた、と考えた者も多かったようだ。
作家の島田某による、安倍暗殺を、自身のイデオロギー強調のために利用するタイプの言説も、この種の犠牲=世直し論の一種であろう。
まさに、暗殺という犠牲から、利益を受けたわけだ。

それにしても、あらゆる暴力に反対すると言明し、自身が受け持つ大学の授業でも暴力を肯定したことはないと自ら宣言する作家(同上)が、実状は暗殺という窮極の暴力を肯定し、それに対して、暴力を否定したことなどなかった三島由紀夫が、暗殺を否定しているのは、面白い現象である。




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