坪井栄:二十四の瞳(膨張する本の記録―【シリーズ1】昔読んだ小説類の記録3)
その1
作者:坪井栄 [Sakae Tsuboi]
題名:二十四の瞳 [Twenty four Eyes]
発刊:1929年
物語の時代:昭和3(1928)年から昭和21(1946)年) [From Showa 3 (1928) to Showa 21 (1946)]
物語の主要舞台:瀬戸内海のある村 [A village in Seto irland sea, Japan]
このシリーズの最初の二つの記事で、有島武郎の『生れ出づる悩み』とヘミングウェイの『武器よさらば』を記録・紹介した。記憶では、これらの二冊の本を、昭和46(1971)年のほぼ同時期に読んだ記憶がある。両方とも、特に形式的・構造的にかなり尖鋭な作品であることについて、それぞれの文章の中で論じた。しかし、そんな作品ばかり読んでいた訳ではなかった。
同じ頃、坪井栄の『二十四の瞳』を読んだ。上の二冊の本については、何処の本屋で買ったのかうろ覚えであったが、『二十四の瞳』ははっきり覚えている。『生れ出づる悩み』の紹介の際に触れた、当時住んでいた住まいから程近い商店街の中程にあった(今はない)、ちょっと怖そうなおじさんのいる古書店兼新刊書店であった。上の二冊の本よりも前であった気がするが、今となっては確認のしようもないし、そもそも他の人々にとってはどうでも良いことだ。
どうしてこの本を買ったのかは覚えていないが、多分本屋の棚で直接見て、面白そうだと思ったのだろう。そして一読、『生れ出づる悩み』の紹介の際にも書いたが、「これが大人の文学というものか」と私は思った。そんな記憶が確かにある。
『二十四の瞳』を読んで、初めて「大人の文学」に触れた気がしたというのが本当で、それを少し気取って、『生れ出づる悩み』や『武器よさらば』に触れて大人の文学というものを知った、という風に記憶を捏造していたのかも知れない。つまり、『二十四の瞳』によって初めて「大人の文学」の味というものを知った自分、という物語は少々幼稚過ぎると考え、その他の作品を通じてその種の経験をしたという形に、記憶を捻じ曲げて行った可能性もある。しかし実状は確認のしようもない。何れにしても、『二十四の瞳』という小説を読んで、大人の文学というものに触れた思いがした、というのは確かなことだ。
これも、『生れ出づる悩み』と同じく、箱入りの旺文社文庫で読んだ。アマゾンで購入可能になっていた。
記憶によってストーリーを説明することは出来ない。断片的にしか覚えていないからである。
しかし、生徒達と同じように、何となく弱々しく可憐な大石先生を心配して見て(読んで)いるうちに、次第に感情移入してしまい、好きになってしまう、という読書の流れがあったと思う。戦時中の言論弾圧の雰囲気も出ていたような気がする。無論、坪井栄という人がどのような人であったのか全く知らなかったので、その種の記述が何を意味しているのかは全く分からなかった。物語の主要部分は、登場人物の生徒達と読んでいる私とが同じような年齢であったので、そんな点からも感情移入しやすかったかも知れない。そして最後の悲壮な場面は、忘れることが出来ない。二十四の瞳は、確か半分位に減っていたのではなかろうか。
有島武郎の『生れ出づる悩み』とヘミングウェイの『武器よさらば』における高度な形式性や構造性、そして表現の特性は、『二十四の瞳』にはない。具体的に言えば、前の二つの作品は、その表現スタイルは大きく異なるものの、共に描写を中心にして物語は進む。それに対して『二十四の瞳』の方には、三人称の語り手による豊富な説明が現れる。
『生れ出づる悩み』の語りは、一人称と二人称の間を行き来し、しかも二人称の部分には三人称的な視点も現れて来る。物語論(ナラトロジー)の観点に立って厳密に言えば、「人称」という概念と「視点」という概念とは異なるが、まさにこの両者を区画した所に生じる高度な技法が使われている。しかし『二十四の瞳』には、その種の高度な技法は現れない。寧ろそれだからこそ、小説というものの典型的形態を示す「大人の文学」に、私には思えたのかも知れない。
一般論として述べれば、小説を構成する文章を内容的なレベルにおいて腑分けすれば、その中には、描写・会話・独白・説明等の構成要素が含まれる。その配分や相互関係から、それぞれの小説の特性を判別することも可能である。
例えば、ヘミングウェイの『武器よさらば』の文章は、描写・会話・独白を中心に構成され、有島武郎の『生れ出づる悩み』の文章において最も大きな比重を占めるのは描写である。
これに対して、坪井栄の『二十四の瞳』の場合、説明がその叙述の中心であり、それをベースに描写や会話が構成されている。最もオーソドックスな小説の表現方法であると言えるだろう。
なお以上の分析は、専ら記憶にのみ基づいて行ったものである。何れの三作品も、実際の文章を読むのはおろか、Wikipediaの類さえ見ていない。従って、誤っている可能性もある。
しかし、この記録と紹介の文章は、あくまで私の記憶の中から小説類を蘇らせ、それについて現物も資料類も何も参照しない形で感想を述べることから出発する。そしてその後、徐々に「膨張」させて行くことを意図している。このようなストーリーを想定しているので、現状ではお許しいただきたい。もし間違っている場合は、間違っていることを述べた上で、新しい分析を示して行く予定である。
現在アマゾンで購入可能な本を幾つか紹介する。
上での角川文庫版は電子書籍でも読める。
次の新潮文庫版にも電子版がある。
『二十四の瞳』は、ストーリーが面白いので、マンガ版やいろいろな翻案版が出ているが、やはりその文章の魅力も大きい。小説を読むとは、ストーリーを知ることと等価ではない。そのものの文章を読むことが重要である。
英訳も出ているので、参考までに挙げておく。
そして『二十四の瞳』と言えば、木下恵介監督の映画である。小説は読んでいないが、映画を見たという人も多いのではないかと思う。一つだけ紹介しておく。この素晴らしい映画を見たら、もう読む必要はないと思う人も多いかと思う。しかし、映像と文章は違い、それぞれの特性がある。小説の文章も読んでほしい。
最後に、完全に蛇足的なことを加えておくと、「瞳」という言葉から、私はバタイユの『眼球譚』のようなもののイメージもしばしば思い浮かべてしまう。そうなると、『二十四の瞳』のイメージは、木下恵介的連想とは全く異なるものになってしまう。「大人の文学」であるからには、その種の邪悪な連想もきっと許してくれるに違いない。