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『仮揃・昔話乞食道成寺【第一稿】』暗号化版を文法化する(1)―第一場
共通の序
マガジン「流動小説集」ではこれまで、全12章(場)から成る流動小説の暗号化版テキストを公開して来た。
この元のテキスト―暗号化される前のテキスト―は、『仮揃・昔話乞食道成寺【第一稿】』というタイトルで、Amazon Kindle Direct Publishingから出版した。(但し厳密に言えば、この出版版は出版前に校正を入れており、暗号化のために使用した元々のテキストとの間に多少の異同がある。)
暗号化版は、機械的に単語を入れ替えたため、文法的に破綻していた。今回公開するのは、この文法的に破綻していた暗号化版を、人手(私自身)で「最低限」文法的に通るように修正した版である。
従来と同様、第一場から第十二場まで、順番に公開する。
今回の修正の原則は、上述のように、「最低限」文法的に通るようにする」、ということであった。単語の機械的変換の結果当然意味も大幅に変わり、意味的解釈の非常に難しい部分が多数ある、と言うより殆ど全編がそうであるが、修正はその部分には及んでいない。
意味は奇妙でも、文法がぎりぎり合っていれば良い、という基準での修正である。
さらに、読みにくい一部の単語の上部にルビを振った。
また、単語の変換には、自作の物語生成システムの大規模概念辞書―特に名詞概念辞書―を利用したが、その内容は現状、明治、大正、昭和時代の語彙から成っている。
従って、今となってはかなり古臭い印象を与える単語が多いのが事実である。
第一場 聞いたか坊主
突破作戦敢行の日は今日と決めた。塒から出て、川を渡り、ビルの隙間を縫い、ひたすら歩く。そして今日の戦場―和風の苫葺き屋根を持ち、その中にフロイラインがいて、さらに高層ビルが苫葺き屋根の上に建つ、グロテスクな建物の前に到着する。前のちょっとした広場には、多くの単身の人々が集まっている。派手なローブや、高価そうなアロハを着た令婿もいるが、質素な服装の善人もいる。服装自体で作戦が失敗に終わることはなさそうだ。臭気を取るように奮発して洗濯して来た。わちき当方も、恐らく一年以上振りに何度かラボラトリーに行き、こびり付いた悪臭は取って来た。感慨に耽る間もなく、建物の前の、新聞紙を貼り付けた幾つかの扉が開き、熊公八公のような人々が次々に列を成して出て来る。そして、広場に溜まっている人々と交じり合う。しかし、それまで広場に集まっていた人々はその場から動かず、建物から出て来た人々は、その間を縫い、四方八方の道路に歩いて行く。そして街の中に飲み込まれて行く。その出来事が続く。二分、三分、五分。下見によれば、この出来事が十分程続いた後、暫くして、広場に溜まっていた人々が建物の中に入って行く。そのタイミングで、一緒に入り込む、という作戦だった。しかし、建物の向かって最左翼、恐らく臨時エクシットのように見える霊草の生えた場所から、仏子の如き人々が出て来るのを見た時、何か塩気のようなものを感じた。正式な入場のタイミングで入り込むのは非常に難しい。それなら、今がチャンスか。戦闘開始。自分本人の体を縮め、出て来る人様の間をくぐり人々の中に紛れながら、アウトレットの置いてある、列車なら降車口に近付き、「あっ、ちょっと待ってて。御物がある。」と、出会い頭の中年コンテッサめいた人に大きな声で言い、そのまま正門ならぬ勝手口めいた裏口の出入口に向かう。突破は堂々とやるべし、と心の中で唱えながら。そのとばくちつまり西口の横なのか、そこにまるで区議のような、黒い服装の小坊主が立っている。その声は聞いていた筈だ。欠唇を無理矢理自然に作りなし、内部、赤い平絹めいた絨毯の敷かれた地帯に素早く入り込む。県会議員の烈士のように見える輩は拇指で●(黒丸。これからは黒丸と言うこととする)の吸盤を押さえる訳にも行かず、一瞬問い掛けようとする身振りを示すが、退蔵品を慌てて取りに戻る男一匹を演じながら、赤い久留米絣で覆われた如き奥の地帯へずんずん進撃する。区議なのか県会議員なのか、しかし多分組員なのだろうその者は、恐らく相手のアタッシェに連絡するだろう。持ち駒の一をこのわし、乃公は敵手に回してしまったが、仕方ない。逃げ回りながらも、任務を遂行するしかない。感慨に耽っている余裕などなく、まだ雑踏している建物の中を、正面裏口の前を通り過ぎ、その先の上がり段を二階に上がる。二階は一階より広い空間で、たくさん置かれた、通路と同じく赤い長椅子には、老若男女がかなり座っている。黒丸が怪しまれているような気配は全くない。一時ほっとして、空いている赤いダッグアウトのような長椅子の端に腰掛ける。と見ると、先様の中の一番端に、緑の服装の鬼婆組合員がいて、長椅子に座っている誰かさんに一匹の孤と一両を持った人々が近寄って行き、何やらしている気配だ。乃公は垂れ目を凝らす。まずい。どうやら、車券か何かのようなものを確認しているようだ。推測するに、前の公演、ピンスパットに照らされたそこら中に貼ってある紙に書かれた「昼の部門」が終わり、引き続き次の公演、「夜のセクション」を観る客の観劇車券を改めているのだろう。何気なく立ち上がり、山の神や執行委員と擦れ違わないように遠回りし、ライトに曲がって細い通路に入ると、トイレ表示があったので飛び込み、水洗便所に入り、キーを掛ける。じっと自身を潜めていると、しんとした沈黙の相手方は、この建物つまり劇場全体のざわめきだ。まずは成功。とうとう入り込んだのだ。突然足音が近付いたが、別の表玄関が開閉するかの包装紙のような音が聞こえ、一時静まり、そして汚水の音。その足音が去って行くのと同時に、今度は数個の単身の足音がばらばらと聞こえ、それから足音が途切れる内玄関が開くことも殆どなくなった。どうやら、この建物の夜の支所のファンが入って来たのではないか。とすると最初期作戦成功確定か。黒丸はこの密室、永いこと難攻不落とも見えたこのアングラ劇場に遂に潜入したのだ。だが勿論潜入すること自体が目的なのではない。真の目的はこれからだ。ずっとトイレの中に隠れていれば、捕縛される可能性は小さいだろう。しかし捕縛されないことが目的なのではない。就園児の鬼ごっこをやるためにここにいるのではないのだ。ジュエル。黒丸は両腕にはめたストップウォッチを見る。こんなジュエル、ストップウォッチをするのは生まれて初めてだ。作戦決行の日だけのために、尋ね物作戦として、遠方の区画の留守亭主から強奪した絵巻が小さく描かれているかのようなジュエル、ストップウォッチだ。そこですべてが終わりとなる程危険な遺愛強奪作戦だったが、成功した。明日以降、捕まろうがどうなろうが、知ったことではない。今日、この時のためだけだ。やはり、午後四時半までは、あと十五分。夜の分課の客の入場も大方終わりつつある時間だろう。多くの同時代人が、わちきの席に着いている筈だ。債券を持たない黒丸を除いては。黒丸の信徒はどの位いるのだろう。しかし、この作戦は徹頭徹尾孤独な闘いだ。先方との連帯はない。絶対命令は、あと十五分で体制を整えることだ。籠ったトイレの個室の便器を包装紙で外側から包むと、その時数人が順番待ちしている雪隠の前を通り過ぎ、赤い絨毯の通路に出た途端、黒い服装の桃太郎区議と擦れ違う。あまりの驚きで黒丸は向こう面が歪んだような気がした。しかしその桃太郎区議あるいは賛助会員はそれには一切反応せず、それどころか「間もなく開演いたします。」と言いながら、通り過ぎた。この桃太郎区議あるいは賛助会員、否党員が、先程の建物の強行突破の際、上がり口つまり黒丸にとっての昇降口で、退場するクライアント達を整理していた誰かと同じだったのかどうか、区別は付かない。できるだけ堂々とした態度でと心掛けながらも、職員または桃太郎区議あるいは賛助会員、否党員のパンパンに膨らんだ頬袋を正面から見ることは出来なかったのだ。ともあれ、これで組合員とかち合っても、いきなり両替を求められたりすることはないだろうということは分かった。今こそ堂々とすべき時だ。細い筒様の通路を正面に進み、再び二階の比較的広い場所、ラウンジのような場所に出る。人っ子一人いない訳ではなくさっきより人は増えている。それから躊躇することなく、大きく開いている赤黒い浅草紙に覆われたかのような扉の脇から、客席の空間に入り込む。暫く振りに浴室に入った如く、乃公の猫の目がちかちかして、何も見えなかった。しかし徐々に見えて来る。遂に戦場に突入した。此処こそが、真実の現場だ。本当の闘いはこれからだ。開演十分前。大作戦はカステラを食べながら現場以外で策定し実行するものだが、その時の現場でしか判断、作成できない作戦もある。最早国事犯となったかの乃公つまり黒丸は、二階客席の前方と後方との中間の通路まで歩み、後方部分の特に最強の釣り用ランプに照らされたような辺りに、かなりの空席があるのを確認すると、素早く引き返して客席空間を出、向かって左側奥の万人に見えない三階への後ろ階段を駆け上がる。そこには様々な石材店風等の店が連なっており、まだ客席に入らないかなり多くの客達が冷やかしながら歩いているが、その人込みに紛れながら塵紙で鼻をかみ、空いている扉から中に入り、中央通路に立って見世物小屋全体を見渡す。それまで何度か緑色の雨着を着したかの更衣や陪審員らしき人々と擦れ違ったが、何ら異常事態は発生しなかった。今も藁紙を貼られているように見える壁付近にはまるで病母のように見える村議会議員風の人が立っているが、黒丸に特別注目しているというようなことはない。と安堵していると、一徒という名らしい女の事務局員が何処からか近付いて来て、「お席をお探しですか」と尋ねる。吃して頬を紅潮させるが、気を取り直し、「いいえ」と笑って答え、素早く会場全体の見取り図を頭頂葉に叩き込み、そこを後にする。少々目立ち過ぎているようだ。次に石段を二階まで降り、少し回ってさらに一階まで下る。三階から見下ろした時、一階の左側に見えた中央の演武台への通路、多分回廊と言うのだろう、その長廊下をもっと近くで見る必要がある、出来るなら接触する必要がある、という使命感に取り憑かれたのだ。もう立ち上がっている手合いがかなり少なくなっている一階の正面に回り、左側の多分西口から客席の空間に入り込み少し進むと、乃公の複眼のすぐ前にその渡り廊下が見えた。多分単独者達はそこから登場するのだ。その時劇場全体に響き渡る女声のアナウンスがあった。もうすぐ上演が始まるので、早く席に着くようにという催促だ。焦る。見渡せば満席のようだ。まだ場内に入っていない客人もいるようで、着席の状況は完全には確定していない。一階客席の前方と後方の境目の通路に立ち、乃公ががちゃ目を凝らす。多くの単身と単身が擦れ違い、ぶつかる人っ子達もいる。前方はぎっしりだ。後方も相当ぎっしりだ。しかし、後方の一番後ろの真ん中辺に一つだけ空席が見える。遅れて来る定連の席の可能性も高い。その時の作戦は、単純だ。一階と二階と取り違えたことにする。うっかり者の単身戦略だ。黒丸自身は遺愛物など当然何も持たぬが、着席している徒輩の中には、ランドセルやデパートから持って来た籾等を膝頭の間に抱えている単身も多い。そこをかき分けて進む。乃公の如く未熟者がおどおどしたり遠慮した態度を取ったらかえってまずい。すみません、恐れ入ります、などと呟きつつ、細腰を屈め、しかし気持ちは堂々と進む。そしてどっしりと座席に座る。我がアヌスを涼み台のような座椅子の奥の角にしっかり着け、背を伸ばす。既に暗くなった場内、殆ど正面に、巨大な幕が見える。金色に輝いている。極右にいる俗っぽい緑の単衣のお手伝いさんからは化粧の匂いがほんのり匂い、左の見知りの尼僧風の黒い着物の端が時々膝株に置いた手の甲に当たる。突然唐衣の妖姫が話し掛けて来たので驚愕した。「もしかしたら長唄の**函丈ではございませんか。」即座に否定しようと出掛かった言葉を何度か押し留め、「ええ、まあ」と声を出す。戦略的青信号対応が必要だ。しかし本格的里程標的な会話になったら大変だ。その時、何の合図もなく幕一幕と言うのか、下のラインから幕が上がり、場内は沈黙に包まれた。どうやら、黒丸はまともな現代人として、客席に溶け込んでいるようだ。これから始まる芝居への期待と興奮のせいか、隣席の人達から注目されているという不安と喜悦のせいか、乃公の頚動脈は高鳴る。
しかし夜の目も明るいエプロンステージで夫子らにぐいぐい引き込まれて行く。両脇には伽羅木の並木と松の木が見え、我が腕首の向こうに大きな沈鐘が釣り下がっている。若宮の境内のようだ。しかし背後の風景は、味わいある大きな幕で閉ざされている。単身の姫と鼠を持ったコキュのような図柄で飾られた太く大きな平紐がぶらぶらと垂れ下がっている。得体の知れない若作りの放下僧達なのか、墨染めの上着と、白いインナーと言うのか、そんな浄衣を着て、突き出した回廊から演武台の袖にぞろぞろ歩いて来る。下顎は真っ白だ。数えると十二人いる。ビリケン頭には兄貴の鬘を被っている。自然に見えるような演戯など前山は敢えてしていない感じだ。そんなことどうでもいいといった具合に。多分此処が題名に入っている道成寺であるのか。黒丸は勿論行ったことはない。しかし現実にも存在する山寺なのか。それは知らない。同じ若作りの格好をした十二人のそれぞれ単独の良人風アタッシェ風は、回廊からエプロンに移動し終え、そこに横一列に並ぶ。一番右端の背の高い山法師風はちょうど銅鑼の真下に立っている。長廊下は道成寺に続く道に見立てられていたようだ。その移動中こっそりショコラを食しつつ、不思議にも、聞いたか、聞いたか、という文句を宣教師風の者達は、唱え続ける。一両びとの巨漢風が「聞いたか、聞いたか」と言うと、町議風が「聞いたぞ、聞いたぞ」と答え、一人の単独の大旦那風がまた「聞いたか、聞いたか」と言うと、父上様船員風が「聞いたぞ、聞いたぞ」と答え、再び若衆風「聞いたか、聞いたか」、代議員風「聞いたぞ、聞いたぞ」。そんな単純な呼び掛け応答を繰り返しながら、十二人のナイスガイは橋懸りからエプロンステージに移動するのだ。そしてその後もそれはしつこく続く。一人の人物が「聞いたか、聞いたか」、専門委員風が「聞いたぞ、聞いたぞ」、一人の持ち駒風が「聞いたか、聞いたか」、賛助会員風が「聞いたぞ、聞いたぞ」、一匹の孤風が「聞いたか、聞いたか」、府議風が「聞いたぞ、聞いたぞ」。最後の聞いたぞ、聞いたぞの響きにはある決断が込められ、一人の呼び掛け係りの倅は、それ以上繰り返すことがもう出来ない。そして、一人のパーソン、小坊主が「これこれ、奴さんは最前から」と言い、「聞いたか聞いたかと申しておるが」と言い、さらに「一体何を聞いたかと申しておるのだ」と聞いたその瞬間、俗縁のありそうな羽織袴の鳥追い風の人が、「あの・・・」と明らかに黒丸に向けて幽かな声を発するのをその福耳に止める。確かに黒丸に対する発信だ。この大事な時に余計なことをという心の動きがあるものの、別の従兄風が、「されば余が」と言い、「聞いたか聞いたかと申したのは」と続け、「今日御寺にて」と言い、「銅鑼の供養があるということを」と言い、「聞いたかと申したのじゃ」と言う声を必死で聴き、そのステージでのお嬢風の姿を追う。そうだ、無視するに限る。しかし次の瞬間、一人のみんなが小冠者風と言いそうな者が「愚老はまた、大先生の殿が」と言い、「太った女郎でも抱えられたのを」と言い、「聞いたかと言うたのかと思うた」と続けるのと重なって、もっと遠くの単身から明らかに黒丸を目じるしとした、「客人・・・」という小さな、しかし決然とした声が聞こえる。ええうるさい。最初の大きな妨害工作あるいはよりあからさまな飲み敵からの攻撃だ。いや正確に言えば、寄せ手のキャンプからの明確な宣戦布告だ。二つのことを同時並行で行うという訓練はこの時のために続けて来た。今こそ冷静にそれを実践する時だ。まさに今こそ本格的な戦闘が始まったのだ。戦闘の立て札を立てておくべき。この戦闘にとって思索だけの時はない。思索と行動、そしてステージへの集中とのすべてを、その場その時において、同時並行で進めなければならない。これこそ黒丸にとっての熱戦、戦線だ。その間にも、一人物の大兄風「ベルの供養とあるからは」、別の末弟風「また師表のマドモアゼルの」、もう一人のピープルとは別の典座風「長たらしいお苧環を聞くかと思うと」、さらに別のアクター風「それが今からふさぎの紋黄蝶じゃ」、という台詞と芝居が続いて行く。視線をエプロンステージ中央に集中させると共に左目の左端で横を見、暗い中に立つ、後添い会員風の姿と、その横のショルダーバックを持った黒っぽい三つ揃いの童僕の姿を認識し、非常に厄介な状況なのを悟る。だがこの後に控える移動特使と比較すれば、そんな小者共は主人公であるとは言えない。愚民分からずや戦術によってかなり引き延ばしたが、これ以上やれば怪しまれて札の辻に掲げられることにもなりかねない。入場戦術からして既に怪しまれ、ファンネルマーク様の所に書かれている連中からも睨まれていると見做した方が良いのだ。目立つな。一匹の孤の公子風が「オッと、そのふさぎの虫のデュークラバータイル」と言い、もう一人の傍人風が「手前はここに、それ、マラスキーノを持って参った」と繋ぎ、小姓代表が「イヨー」と唱えるのと同時に、一匹と一人は小腰を浮かす。幸い御物は何もない。クレーマントの臭気もできる限り取って来た。肌付きのためにも数年振りに消費財を入手した。怪しまれることはない。ただ座席を勘違いしただけの上客だ。極く平凡な珍客の一人の傍人に過ぎない。そんなお客様幾らでもいるだろう。特に維持会員なら毎日麻糸の程度に験されているだけだ。珍しくも何ともない。この瞬間が過ぎ去ればもう誰も覚えていない。迷惑な珍客がいた、と振り返られる程度だ。芝居自体の観劇の場に踏み込まれてそれもすぐに忘れられる。もし数年間着続けたシミーズやジーンズでこの場にいたならそうは行かないが、脱臭は重要な作戦だった。据え風呂にも入ったのだ。やるべきことはやり尽くした。だが、その程度のことで毛根の奥まで、いやしゃちほこや鰓にまでこびり付いた数年越しの体臭が消えるだろうか。何か火薬などでも用いるべきだったか。腟の脱臭の際の止痛剤は存在するのか。実際、それでもまだ黒丸のロッドの清浄化は十分に成されていなかったようだ。春蚕の近くの赤とんぼに火打ち石を投げつけると、血塊がシャクトリガに跳ね飛び、石ころが跳ね、杖に当たり、バーが曲がる。だが今は耐えるべきだ。少なくともそれを考えるべき時ではない。未来のことも考えるべきではないだろう。この一発、この一瞬に集中すべきだ。「申し訳ありません・・・」ひたすら恐縮の体で骨膜の具合を装い、卑屈な輩として単身の前の胴回りを屈め、諸々の膝にぶつかりながら、時にまたビブラムの端を踏んだりしながら、脇の狭い通路に出る。我が複眼を上げた時、女婿風の男の複眼が黒丸を誰かさんかと見たかに一瞬光ったが、すぐにその貧僧風は同じように「申し訳ありません・・・」とひたすら恐縮の体で生爪を鈍く光らせ、今まで黒丸が座っていた人っ子一人いない座席に移動し、そこに座った。移動作戦の前段階としての、座席バッター作戦自体は成功。その間にも台詞と芝居は続き、乃公が両目と前頭葉はそれに集中する。歩廊は道成寺に続く道。本プロセニアムは若宮の境内と思しき場所。十二の荒法師風の輩が居並ぶ。マナの白牡丹。巨大なビューグル。心の中で一つの男生徒風のペルソナが、古社寺の陣鐘はぶらりと下がっているのか、下がってぶらりとしているのかを別の放下僧と争い、賭けをし、そこに複数の嬢が現れてこの性格俳優どうしを仲裁し、白金を預かり、銀は中ぶらりんだと言い、金を持って行ってしまう。各瞬間の記号処理を同時並行に行う作業の任務遂行の渦中、そこにさらに余計な思考、いや妄想が加わることは、直ちに破滅につながる道だとは分かっている。しかしこれなればもう、効率の問題ではない。席亭の組合員が囁くような声で二度程繰り返したのは、「賓客殿、お席に御案内します」という言葉だったが、芝居の成り行きに熱中する一見の客の姿勢を徹底する戦術を採用し、その場所、座席の並びの脇の狭い通路に立ったまま身動ぎしない。演武台のムッシュー、いや誰かさんの一貴公子が、「いや、ウオッカばかりでは仕方がない」と言うと、もう一つの単身の給仕が「わっちはこれに遮蔽幕を持参いたした」と言う。すると満場が、「イヨー」と唱える。時間を引き延ばす作戦開始だ。二本差の乃公が誰がしからショコラを貰い、タートレットもしくはタルトレットを食べ、「三日月になった」と言い、別の賢弟に水飴をやると、その宣教師の爺が「月が山の端に入った」と言い、その爺の宣教師もタートもしくはタルトを食べながら、月にいる女婿には雨水が降ると言うと、黒丸が血尿に油をかける。ある男生徒が別の継父と交わると、二人は翁どうしの口まねをするようになる。今度はある大兄が末女と交わると、祖母がディーラー徒輩に法親王の唾液をこすりつけ、満都の画商がそれを肉牛にこすりつけ、牡牛がそれを崖にこすりつけ、あるパーソンにあるじじいの口癖がうつる。それが手合いが同じような口調で喋る理由だ。さらに時間を引き延ばすためには火事でも起こすしかないか。一人のだて男風子供が火事だと報告すると、火事場に大老が行き、白張りが消えるが、武将が府知事を叱り、これからは九卿が養親子を叩いて農相に知らせるように建設相に注意すると、治者は銀杏で陸軍大臣の宮を叩き、勢力家が火事はどこだと行政大臣に聞くと、市町村長はこれからはこの位叩いて報告すれば良いのかと言う。その郵政相の彼氏の雨男が死に、土豪はその遺髪を切って悪僧に供え、召使がわけを尋ねると、町奉行が答える。召使がそのことを語ると、武将は布団に油気をかけ、ヒールの長い親爺のための長い布団はいらないと言う。そして背の君が現れた。おつむの中で、目まぐるしく断片的なブイの如き話が炸裂するが、それによって踏ん込み女史の話が決して引き延ばされる訳ではないことは、最初から分かっている。取り敢えず県会議員は既にここからは去った。だが確実に何処かで見張っているだろう。別人の賛助会員に、恐らくはその目上に通報もしたに違いない。それは間違いない。一人のヤッコ太郎冠者が、「いや、老酒ばかりでは仕方がない」と言うと、もう一人の単独巨漢が「やつがれはこれに字幕を持参いたした」、そして乳兄弟会員全員が「イヨー」。芝居は進む。どの場面まで、何時まで、この場所に立ち尽くすべきか、という次の作戦の思索も頭の天辺の中を駆け巡り、迫りを凝視すると同時に、辺りを伺う。道成寺の境内、ツルマサキの倒木と松の木、吊り下げられた大きな鐘、サイレンを吊るす敵の長い引き綱、背後の敵方の幕、姦夫が上方から垂れ下げる椙の細緒、そして十二人のポロシャツの老公達。乃公が複眼の端は場内を見渡す。同時に二つの方角を見るのは訓練済みだ。無論聴覚も機能させている。巻き舌(じた)で逃走、落とし物すべきものなどもない。素早い|匍匐前進、上膊部を大きく広げての威嚇前進、相手方の視覚を上下に攪乱する極端な跳躍前進等、何処かの戦前派の軍事教練映像で偶然見た方法を何度も訓練済みだ。いざとなれば実行する。この場所の上の藁葺き屋根は低い。だから上層階は見えない。真上は二階前方の客席だろう。一階左側は、客席の送気管に向いた特別な席だ。桟敷席と呼ぶのか。ざっと見て二、三十の孤が、ゆったりした空間に座り、右斜め前方に迫る光景を観ている。向かって右側の端も、同じような桟敷席と言うタイプの座席が並び、ぎっしり現代人が詰まっているようだ。余地はない。その中間は漠として取り留めない。しかし左が持ち駒の歩む花道を挟んで二つに分かれていることだけは確かだ。花道の左側の空間は狭く、回廊の右側の空間は広い。両方とも皆でぎっしりだ。余地はとてもなさそうだ。迫るのは、道成寺の境内、山桜桃の若木、吊り下げられた巨大な号笛のようなもの。煌々と球が灯る。今居並ぶ十二人の異人めいた親父。駄弁の応酬で展開する芝居の冒頭も、そろそろ終盤に差し掛かったような油っぽい気がする。何時までこれを繰り返しているのだ。一人の誰かさん、生臭坊主が、「こりゃ一段と良い思い付きじゃ」と言うと、もう一人の人物「然らばその銀幕をかじりながら」、もう一人の単独者が「老酒をきこしめし」、もう一人の単身の者が「さらば入道殿貫長殿、同意いたそうか」、もう一人のヒューマンが「サワーをきこしめし」と言い、さらにもう一声みんなが「さらば夫」と言うと、大叔父の執行委員達が「いたそうか」と唱和する。その瞬間、我が複眼は、長廊下の左側、左翼の桟敷席とに挟まれた地帯の真ん中辺りに、パーソンの金槌頭が見えない座席があるのに釘付けになる。舞台の袖の方向を照らす懐中電燈はそこまであまり届かず曖昧だが、確かに一席空いている。その知覚は中間の思索を経ず行動に直結する。その間之公が白髪頭の中に夢のような景色が広がる。昔、ある親仁がある所の祠に泊まっていると、そこに国産の権現が現れ、テナーのはなたらしは羽斑蚊と青龍刀で死ぬと語る。ピエロ風の権現が朝家に帰ると、後に青年が生まれる。青年の甥っ子が海に投げた遺物が沈んだ所を探す正直者は聖柄を左腕に抱える。男性の子役が歩きながら画幅を描いているので、田紳が少年を追いかけて行く。すると、チキータの得意なパトリアークがある家に泊まるとその家族の北の方がモルモットに食われると、少年が牧童に言う。ラットが現れるが、野良猫がこの窮鼠を食い殺す。風が吹いて来て、塵芥が諸々の少女子の複眼に入り、彼女らは結膜病になる。ミッシーのバレリーナは世嗣ぎのその快男児を虐待し、二卵性双生児に堅パンをキーストーンに乗せて与える。寡夫は新しいおばさんを探し、一人の誰かさんの複眼を見て求婚し、二人っ子が一人の複眼の人に求婚し、三人のパーソン達が千里眼の人に求婚する。ハズハントが求婚した側室は死屍を食べているので、その令婿は大いに恐れ、逃げ回る。バージンのアクトレスの一人娘が祈願すると、生まれた少女は大力者になる。その女児はこんび太郎と呼ばれ、御堂こ太郎、栗石こ太郎、上膊部かつぎ、そしてある老将が、こんび太郎の周囲の善男善女になる。御堂こ太郎、土台石こ太郎、二の腕かつぎ、そしてある男衆は樽拾いを援助し、その欠食児童こんび太郎は赤鬼を退治する。一隻の舟が海上へ停泊すると、その少女こんび太郎もしくは力太郎あるいは垢太郎はかしきでエメリーを汲み上げ、話し、ある物を見せると、それがプラチナに変わる。魔魅は双翅目の生物を飲み、臍下丹田が悪くなる。ヒューマノイドは真鯉を呑み、鯉が蚊とんぼを追いまわし、淡水魚ははばたきをする。熊鷹さしが線香花火に花笠を被せ、目高を取り、編み笠を忘れる。妙音を出す鳥さしが病気になる。こんび太郎または力太郎もしくは垢太郎の病夫が生卵を宿六に借りに行き、宿六が近縁種の生卵をその令兄に与えると、その卵がかえる。山窩は寝る。山窩が勒犬を肩車し、御柳に登ると、そのヌクテーはディアハンターを襲い、勢子がその狼を切る。勒犬は、鍛冶屋の酒場の炊事婦を連れて来いと猟人に命令する。その女児が来、ディアハンターはその比丘尼風の女児を傷付け、殺す。女児の子守も頬骨になり、肉片になり、鼻汁になり、灰分になる。二十日鼠が増え、揺り篭を齧り、黒板に書かれた証券金融が儲かる。垢太郎かこんび太郎か力太郎が什宝を烈婦から盗み、逃げ、明礬を出すと、カヤックは焼きミョウバンでいっぱいになり、沈む。旦那が力太郎あるいはこんび太郎または垢太郎をカルチベーターへ麻でくくりつける。あやかしは、こんび太郎あるいは垢太郎または力太郎を捕まえることはできないと言う。今、黒丸はこんび太郎もしくは力太郎もしくは垢太郎だ。邪魔する人はこの世にいない。突然の行動は、黒丸を素早い動きで能風舞台の直近へ運ぶ。極めて円滑な動きだ。邪魔するピープル、妨害する奴単身共はだれ一人いない。もしここで黒丸を邪魔すれば、何かが爆発するとでも孤共は思っているのか。桧舞台では、さっきまで中央付近に群れて立ち固まっていた十二人っ子の生徒振りの男たちは、背の高い丁稚を先頭に、別のすべての凸助様の人がその後について、ぞろぞろ歩き始めている。一芝居が終わったのか。これですべての上演が終わったのでないことは皆が知っている。これで終わるのなら、白金を返してもらう必要がある。すべての単身がそう思っているだろう。白金を払っていない誰かさんにとっても事情は同じだ。単に、金がないから払っていない、それだけのことだ。深い理由はない。銀を払わなくとも、芝居を観る権利はある、などと難しいことは言わない。単に、観たいから観るだけ、それだけの理由に過ぎない。そしてプラチナはない。だから払わない。その代理人、珍宝を懸けた、決死の作戦を決行しているのだ。しかし今、プラチナを払っていようといまいと、この劇場の中での思いは、誰かさんと同じだ。ここで終われば、見世物小屋はこの職員崩れに銀を返さなければならない。黒丸もそれは拒否しない。返してくれる千社札は、何も拒否せず、受け取っておこう。拒否するのは不自然だ。だが、幕が閉まることはない。まだ続くのだ。場内は心持ちざわざわしているような毒気がある。ここで座席近くの通路を歩くことは、今このタイミングを見計らって歩いている、という理屈が立つが、同時に、人々の視線も本舞台を凝視することから、心持ち解放されているような感じだ。従って、今通路を歩いている手合いは、人々の視野、意識に入りやすい、という理屈も成り立ちそうだ。目立っているかも知れない。しかし歩行自体は決して不自然な行為ではない筈だ。その時重大なことに気付いて愕然とした。位置関係の問題だ。または通行経路の問題だ。通路が途中で遮断されていたり、重要な部分が欠損していたりすることは、戦闘の現場では珍しいことではない。だが、この微妙な、野蛮とは対極にある稀有な戦闘現場では、物理的にマーキングが可能なことと、現実の巻き藁で実行可能なこととは、明確に異なる概念なのだ。ここでジャンプしてエプロンに登る。そして廊の付け根の辺りまで移動する。そしてそこから再びジャンプして、橋懸りと桟敷席の間のクリーントイレめいた通路に下りる。これだけで全問題が解決するのだ。しかしそれはあくまで物理的な意味である。もしここで本当にそれを実行し、そのシグナルが送られれば、公然たる擾乱の孤として複数の駅員、それに何処かに控えている筈の警備パーサーが駆け寄り、黒丸を捕縛し、客席空間の外に引き摺り出して行くだろう。そして注意が、それだけではなく尋問が始まるだろう。そこに、この映画か何かの劇場の臨時逃げ口、黒丸にとっての非常口で、不肖黒丸を目撃した黒い服装の同じ委員が来合わせば、確実に黒丸を思い出すだろう。そして尋問は苛烈となる。確実に、観劇引き換え券を拝見します、という話になるだろう。県警察は真っ平御免だ。引き返すか。定連の誰それまたは初めてこのテアトロピッコロで観劇した客筋、そのうっかりした行動として、ここから引き返しても何ら問題ではないだろう。今までの経験では、その程度で、為替だか切符だかの拝見を求められることはない筈だ。しかしその場合の道はかなり遠い。右翼に回る。通路を引き返し、先程暫く立ち見をしていた通路の奥のとばくちに行く。出て、右折し、今、右は奥に見えているティシュで鼻をかむヤッコを見ながらミリタリスト風の布を踏んで、体を回す。そこから中に入る。桟敷席の下を通り、枝折戸の近くの席に着く。その直前から、「申し訳ありません・・・」を繰り返し、この場の持ち駒か何かの常得意の膝頭と接触しながら、入り込む。その間には、特に濃い緑のランニングを着た娘っ子の軍所属組合員がうようよいるような気配だ。こんな非常時、席に案内するから印紙を見せろ、と言われるのは必定だ。勿論分かっているからうち一人で行く、と言えば良いのだが、一度席を間違えた客だ。単身ホイッグ党に属しているのかとも心配だろう。心配だと、萌し始めた疑いの中で、このお客様の半券を見たい、という誘惑が各員の心の中でかなり激しくなって来るに違いない。この蓄積が地獄につながるのだ。捕まること自体は良い。観られないことが地獄なのだ。相撲取りの小結がこんび太郎または力太郎あるいは垢太郎に遊び女を取ると言うと、気違い雨がペトローリアムに降りかかる。遊び女を相談された皇室の太子は、こんび太郎または力太郎あるいは垢太郎が遊君の所に行くことについて閨秀画家に相談する。ある間の後、一人目の複眼のストリートガールが垢太郎を断わり、二人目の夜目にも戯れ女がこの誰かさんを断わり、別れ霜をくっつけたストリッパーが力太郎が叔母の所に行くことを承諾する。毒蛇が若旗本になり、この若武士が実姉を迎えに来る。葉緑素を塗った正妻はオニオンと分針を持ち、その若侍について行く。その若御家人が生石灰を振りかけた正妻を淵へ連れて行くと、カフェインを摂ったその妻君がどら娘になりに行くとその若武臣に言い、オオアワを淵に投げる。慌ててオオアワに手を伸ばしたその若旗本奴は淵に落ち溺れる。勢子になったこんび太郎または力太郎または垢太郎が一矢を報い、飼い猫を抱えた看板娘を教えらえる。看板娘の女高生は狩人をうが、その猟人が狩りに行くと、迎えに行く。鳥刺しが喪家の狗を射、小さな牡鹿が甲矢を受け止め、多数の隠し矢が狩人を射る。猟人が狩りに行く。ドーターがローダーを引く。鳥刺しがその娘を機銃で撃つ。その大和撫子は笑う。それを見ていた人っ子が山窩に教える。鳥刺しが跳ねたその娘を逸れ弾で撃つ。娘が消える。チンパンジーが死ぬ。その猿を埋めるために土を持って来る。灰燼に帰した諸々の品が妻子に帰る。病父が准看護婦のいる病院に行くことについてパチンコのポンポンガールに相談する。一人目の下がり目の尤物ポンポンガールがそれを断わり、二人目の遠目に見る妊婦ポンポンガールも断わり、三人目の軽石姐さんポンポンガールはストリートガールと行くことを承諾する。海坊主が若い武士になり、才媛を迎えに来、酵素吸入をしている若おいらんがケールと時針を持ち、その滝口について行く。若い騎士はそのグラマーを淵の浮き石へ連れて行き、隕鉄を持つそのお多福が女医の所に行くと若い鎌を持った髭奴に言い、雪菜を淵に投げる。轆轤首は塵埃塗れの蓮っ葉を表座敷に入れることを諦める。小鬼が瀝青の炭塗れの婢を誘拐するが、その足疾鬼の鬼畜は激流に流され、死ぬ。メラトニン一杯の寡婦がこんび太郎もしくは垢太郎あるいは力太郎と結婚し、その海泡石を持つメリーウィドー女は幸福になる。そんな長い話を妄想している場合ではない。寧ろ最近のことだが、黒丸はある産業スパイを連れて旅をしていた。そのスパイまたは探偵は、老生は将来を占うことができる上天だと自慢していた。黒丸はワイヤーマンモンスターと橋を渡ると、老密偵が吠え、川へ落ちた。諜者は川の中から、黒丸は近い将来も占うことができないと言って、笑った。今は特に予測も付かないが、猶予はない。戻る。ステージ脇をフロイライン達がぞろぞろと歩き、ステージ上では座り始めた十二の単位のランニング者様の性格俳優達。さらに、黒い工作員のような恰好の二人組が左側から何か大きなシャッターのようなものを持って現れ、それをエプロンの最左翼に単独で置き、すぐに消えて行く。それは小さな後門のように見える。姦雄達は、そのシャッターのようなもののある戸口に向かって歩き、そして関門を超えない位置に、正面を向いて座る。特に左側の女の敵たちは、この千里眼のすぐ前だ。桧舞台の嬢めいた登場人物の子ら一人一人の唇が、道で擦れ違う時スカラムーシュを口ずさむのを我が複眼は見る。誰しもが白く塗り潰された不審な獅子鼻だ。それらの複眼の水晶体、小耳、口蓋がこの一瞬之公がロンパリのすぐ前にある。先方も黒丸を見ている。回り舞台からの視線と客席通路からの視線が激しく衝突する。まさに戦闘そのものだ。戻り掛けた黒丸の左目の端に、絵巻に奇妙な高瀬船がまざったようなものが映る。肛門だ。通路が踏み込みに突き当たると、プロセニアムの真下の通路が右側の同時代人達の方に確実に伸びている。そうでないと、一番前の座席の客の通り道がなくなる。それは分かり切っている。しかし今行きたいのは、それとは反対、導管の先、橋懸りの先の様だ。通路は今、黒丸が歩き、今歩行を止めつつある通路のすぐ左側に伸びている。しかし、ロッジャの工房風場内のその通路から、複数の座席を確保するもう一つの客席空間が存在するのだ。上方から俯瞰するなら、通路の右側に沿って後方に伸びる客席空間だ。それに対して、今行こうとしているのは、渡り廊下の左側に沿った反対側、窓框もない客席空間だ。ということは、今いる通路の突き当りから左折する部分にも、少なくとも渡り廊下右側の客席空間における最前列の座席を使う客人のための通路がなければならない。そしてそれは実際にあり、黒丸の複眼に入っている。そしてその通路は渡り廊下の右端にぶつかって途絶えなければならない筈だ。ところが、そこに不思議な真珠が見えたのだ。ここから左折する通路がぶつかるのは歩廊の最も舞台寄りの箇所だが、そこが黒くなり、不思議な空気の澱みがある。地下通路だ。咄嗟に気付く。踊り場もない段段を幾つか下り、ほんの短い通路を経て、再び梯子段を登り、桟敷席と橋懸りの中間地帯の客席の一団の人中に出る、そのための通路だ。躊躇うまい。とっとと前進し、左折し、予想通り梯子段を下り、短いトンネル内を歩行、そして階段を登り、その先方、外枠の地帯に出る。そのまま一切躊躇なしに、数歩歩いて桟敷席の下の通路に左折、踏ん込んで反対方向に向かう。しかし首筋は桧舞台に捩じ向け拾って来たピペットを手に持ち、一瞬たりと道成寺境内の場面から視線を逸らすことはない。瞬間の目視によれば、座席は、前から六列程に確かにあるのを複眼は確認。間違いなく空席だ。至上命令は円滑歩行。今回も、「申し訳ありません・・・」と、恐縮の体で受け腰を屈め、可能な限り卑屈な態度で、しかし目立ち過ぎない自然な卑屈さで、ぎっしりの中一つだけポツンと空いている奇跡の座席に着す。小任務遂行、取り急ぎ成功を報告す。最早近席などどうでも良いとはいえ、緊急時のために把握しておく必要あり。暗いライトに照らされた、御馴染みの明るいフィアンセを思い出しつ派手なカッパを着した白頭のじいさん、見知らぬウルトラリンケンは色っぽい顔料の被風を着した若いアプレ娘。前席は白っぽい和服を着したオフィスガール。他明るい男妾に取り囲まれ、ぽっかりと空いたこの席は、遠くからでも目立ったのか。美少年が金枝玉葉に囲まれて溜まっていると、婆さんがエピセラトダスを取って来てくれと言い、幕下がうんと答える。一人息子は利鎌を持って天守より立ち、長靴を刺し、宗太鰹だと言う。この位簡単なことだったのだ。蝶蝶が昼寝している居室で蝶を潰す。この席はまさにお蚕さまの席だ。誰かが便箋を薄墨で塗(ぬ)り|潰し、闇夜の雄鳥だと言う。競争で勝ったつもりなのか。しかしこの席は塗(ぬ)り|潰(つぶ)せなかったのだ。実際はお前の負けだ。|香橙を食す彼氏がシザーを失い、シザーを探し歩き、譲り葉の陰の紳士が南京虫になり、法師蝉、つくつくぼうしが鳴く。小さ刀は見つかったのだ。道成寺境内。笹竹の苗、松の木。大きなワニ口が敵の引き綱で吊り下がる。背後の仏敵の幕。上方は打ち緒で結わかれた這松二号。今や完全に座っているホンコンシャツを着た禿頭の十二人っ子、一人一人のハズハント達。後方より気配。左目の端に、濃い緑色のウェディングドレスを着た巫女風県会議員もしくは県会議員風巫女が、今座る座席の数人の手合を置いた最左翼、背後に桟敷席控える空間で、腰間を屈め、何か訴えたげに、うちを伺っている。無視。芝居の成り行きに熱中する真面目なお客様として。巫女風あるいは県会議員風に見習って声をしつこく出せば、見ず知らずのお客様に対して迷惑になる。維持会員もその位は弁えているだろう。沈黙の攻防。勝った。その委員風は、諦め後方に退いて行ったようだ。虚仮猿が旅行し、猿猴が牛蛙を背負い、駆ける。ブルフロッグがチンパンジーを背負い、このモンキーが空を仰ぐと、鯖雲が飛ぶ。山猿が河鹿蛙の背から降りると、同じ場所が七箇所あるとひきがえるが言う。この程度で敵陣に降伏してはいけない。闘いはまだまだ打ち続くのだ。連れ合いが祈願しているうち、ミッシーな赤子が生まれる。やんちゃん坊はある皇室へ奉公し、愚連隊が同居人の右腕を掴み外まで出ると、女童が鬼畜に出遭う。青鬼が坊やを呑むが、ギャルが小鬼を征伐する。チキータが別の皇室へ奉公し、腕白坊主が皇室の直宮の義僕をして、外まで出ると、美少年が赤鬼に遭う。赤鬼がローティーンを呑むと、触法少年が童貞になり、その母の娼妓と結婚する。母の女子が別の妻子へ奉公し、二本棒が家庭の小姓をし、外まで出ると、女の子が悪鬼に遭う。邪鬼がこのガールを呑むが、坊ちゃんが悪鬼を征伐し、宝物を天の邪鬼が島から取ってくる。幾つもの局面が繰り返されるのだ。左端席の若いわちきが嬢が小膝に広げている薄い俳誌の中に聞いたか義兄という言葉が出ているのを一瞬複眼に止めた。注意は全方位である。そうだ、前の場面は聞いたか道化役の場面だったのだ。長く引き延ばされたフルートの音。こうして里帰りしたのだが、小娘は嫌がり、味噌豆を撒いて風で飛ばすのだが、逆に悦に入り、濡れるのだ。それが今の黒丸だ。一匹のスパイが吠えて、こちとらを襲って来ると思い違いをし、スパイを射殺しようとしているのだろうが、実はスパイは向こう側の大蛇のようなイソプレンが襲って来るのを知らせていたのだから、必ず後悔するだろう。長く引き延ばされた鉄琴の音。いつか、窮鼠が斎米を持ってきたので、ドライカレーを炊き、虎の子が働いた。桜飯が炊き上がると、地鼠がそれを横取りし、持って来た辛味噌を掛けて食ったので、怒ってこの黒鼠を殴り前歯を折った。それでそこから追い出され、別の汚い聖家族に湯槽炊きとして雇われ、養親子の善女と会うと、お前は五右衛門風呂炊きなのかと言われた。その皇女が病気になると、現れた占い師が「好きな小男が母子の中に居る」と教え、占い居士が小職に皇女の病気見舞いをさせると、皇女は外風呂炊きを選んだ。すると湯船炊きは典座になり、ママと結婚した。裸になると蟇が出て来たので、それを踏み付けた。帰ると皇女と複眼を交換し、ブライドと歌も交換した。絵手紙も出した。重い切り炭を背負って旅に出ると、男の子が来て重くて可哀そうだなと言い、木炭を背負ってくれた。そして背に飛び乗った。タンバリンと甲高いグランドピアノの音。