私の糧になった作品についての一考察 アニメ映画『GODZILLA』
私に多大な影響を与えた作品は数多くあるが,その中でも「人生で一番心に残った作品」を挙げよと言われたら,私は迷いなくアニメ映画『GODZILLA』を選ぶだろう.
3 部作である本作は,私が敬愛する脚本家,虚淵玄氏の作品である.既存のゴジラシリーズの中では異色の作品で,ゴジラの起源をたどり,相対性理論を背景にした SF 作品であると同時に,人類についての重厚な示唆を与える作品である.昨今の陳腐化した劣悪なアニメ映画とは一線を画し,私が今までに鑑賞した作品の中で最高の質を誇っていると確信している.良質な作品には度々あることであるが,本作は私の人生に多大なる影響を及ぼし,生きる指針の基盤にすらなっているため,私の中で醸成された考察を述べることには意味があると考え本稿を執筆した次第である.
想定読者としては,本作を全て見終わった者を想定している.だが,本作を視聴していない人にも話の流れがわかるよう工夫したつもりである.しかし,本稿には考察という性質上多分にネタバレが含まれることに留意されたい.本作を長年咀嚼した中で見えてきたことを述べたいと思う.
誇り高い憎悪に燃える英雄
本作は,主人公ハルオがシャトルをハイジャックするところから始まる.ハルオたちはゴジラに占領された地球を脱出し,新天地を求めて宇宙を放浪している.そんな中,人が実質的に暮らせないタウ e 星への移民計画に,老人ばかりが志願させられ,まさに「姥捨山」に置き去りにされようとしていた.処罰されるかもしれない中,これに命をかけて義憤を燃やし,船員全員に訴える.
冒頭から我々は主人公の勇気と正義にある種の「快」を感じる.人間はこれを「良い」と感じてしまうのだ.
これに対し,ハルオの知己である老人は「もうやめてくれ」と訴える.「この船で宇宙を彷徨いもう 20 年以上,若い連中にはまだ耐えられるかもしれん.だが,もうわしらは限界だ」と.これに対しハルオは,「そんな・・・ 諦めたら,そこで,そこで終わりだろう!!」と叫ぶ.この「諦めたらそこで終わり」というセリフはアニメや漫画でしばしば語れれる思想で,(他の劣悪な作品の影響もあり) 陳腐だというイメージを持たれている向きもあるかもしれない.だが,この作品はそれを良質かつ知性あふれる形で描き出している.この絶対に諦めないというハルオの決意の叫びは私の中でずっと響き続け,人生の糧になっている.
だが結局,老人の言い分を飲み,移民団を旅立たせたのだった.そして,星に降り立とうとしたシャトルが原因不明の爆発を起こしてしまい,昔馴染みの老人を助けることはできなかったのだ.これは,「人間がどんなに倫理に燃えても世界はそれとは関係なく動いていく」ということを示しており,そんな必ずしも理の通らない世界でいかに人間は生きていくかを描いていると思われる.ここに,世界に対する理解の深さの一端を感じるのだ.
さて,諦めとは,成功する見込みの薄いものは早々に見切りをつけて,無駄な労力を使わないためのヒューリスティクス (必ずしも正しい答えではないが,経験や先入観によって直感的に,ある程度正解に近い答えを得ることができる思考法) である.だが,それが誤りである場合も多々ある.皆が直感に流されて諦めてしまっていることに対し,意志を発揮して立ち向かって行く者こそ,人類の新たな地平を切り開きうる.ハルオはその好例である.
地球脱出からの長きにわたる宇宙放浪で,多くの者が自死したという経緯が説明される.未来に何ら明るい展望が持てず,追い込まれていってしまった者が多い中,ハルオの高潔さは一層輝きを放つ.これは,我々が人生やその中の苦難に対して,どのような態度を取るべきか示唆している.そして,自殺とはチェスのゲームで言えば盤面をひっくり返すようなルール違反であり,諦めてはいけないのだと.
ハルオは中央委員会に属する軍属神官であるメトフィエスに,地球脱出以前のゴジラとの戦闘記録を秘密裏に入手してもらい解析していた.メトフィエスに「誰もが忘却に沈めたい禁断の記憶を,そこまで躍起になって掘り起こすのはなぜだ?」と問われたハルオは次のように答える.
ハルオはかつて地球で記録されたゴジラとの戦闘記録を現在の技術で分析し,ゴジラの研究論文 "The Destruction of Godzilla: Possibilities and New Tactics" を執筆する.皆が諦めているようにゴジラは無敵ではなく,その生態を明らかにすれば人類の手で倒せるという科学的主張である.現実でも,科学をはじめとする人類の優れた叡智の根源にはこのような諦めとの闘いがあるのであり,ハルオはそれを体現している.私はここに,ハルオの確かな知性を感じる.彼は,いわゆるギリシアの枢要徳のうち,科学的な研究を遂行できる「知慮・思慮・知恵」,自分の命を惜しまず特攻することができる「勇気」,そして義憤に燃える「正義」を体現しているように思える.人間はやはりこれを「良い」と感じてしまうのだ.
さて,タウ e 星への移民を断念した中央委員会は,居住可能な他の惑星の発見が絶望的と見て,地球への帰還を検討することになる.メトフィエスをはじめとする種族エクシフの技術,ゲマトロン演算による亜空間航行により 11.9 光年の彼方に遠のいた地球への帰還は可能であるという.ハルオの論文はそれを後押しするものであり,委員会は地球帰還を決定する.
地球へと到達し,無人偵察機を送り込むと,そこはまだゴジラの支配する怪獣惑星であることが判明する.
ゴジラに支配された怪獣惑星
ゴジラを殲滅すべく,ハルオの論文に白羽の矢が立つ.ハルオの主張はこうである.「ゴジラは全身の体細胞を強力な電磁石として機能させることにより,桁外れの高周波電磁パルスを発生させ,非対称性透過シールドを展開している.これにはわずか 1 / 10000 秒だが周期的なノイズが発生しているため,これを干渉波攻撃によって拡大することで,メタマテリアルのシールドに隙間を作り,そこを狙い撃つことができる.高周波電磁パルスを増幅している器官を特定しシールドを無効化する.しかし,今ある記録だけではその器官を特定できないため,改めてゴジラを観測する必要がある.破壊した器官が再生する前に,EMP プローブを体内に打ち込み,内部から組織を破壊する.現在の地球の電波障害を伴う変質した大気により,弱点の観測や緻密な連携・狙撃は至近距離から行う他なく,人員を注ぎ込むことでしか達成の目処は立たない.」
虚淵氏の脚本には,このように強力な敵でも,ただ「強力である」という抽象的な属性を示すだけではなく,それをどう実現しているのか,その裏にある合理的かつ精緻な設定が見られることが多くある.そしてその設定の下でそれを打倒する戦略を打ち立て,頭を使って敵を倒すのだ.例えば,『アルドノア・ゼロ』の 1 - 3 話の戦闘は虚淵氏が脚本を担当されており,この傾向が色濃く出ているのでぜひご覧いただきたい.
ハルオは,工兵隊,砲兵隊,遊撃隊が最低で 3 組,それぞれを 2 個中隊で編成するとして,総勢 600 名が必要だと試算する.本作では先の亜空間航行の際の SF 的描写の他,このような軍事学の知見も盛り込まれている.
そして,志願者を集め,地球降下作戦は決行される.地球降下のシャトルの中で,メトフィエスは「ゴジラと対峙する英雄には君こそがふさわしい」と仄めかす.
地球降下後,直ちに布陣を敷く.砲兵隊の D, E 中隊は元丹沢大関門,実際の丹沢付近に展開しトラップを敷設,遊撃隊の B, C 中隊はそれよりも東で待機,A 中隊はさらに東の現実でいう渋谷付近に陣取る.いずれかの隊がゴジラと遭遇し次第,遊撃隊による攻撃を開始し進路を誘導する.この際,ゴジラ体表の電磁波パターンを観測し,高周波電磁パルスを増幅している器官を特定する.
最終的にゴジラを元丹沢大関門に追い込み,工兵隊の敷設したトラップで動きを鈍らせ,待ち伏せた砲兵隊が至近距離から集中砲火する.しかし,増幅器官の特定ができなければ,砲兵隊の最終配備ができない.遊撃隊による観測が作戦を左右するため,広範囲に展開し索敵しながら進むことになるため連携が要であるが,原因不明の霧による電波障害のため通信が思うようにできない.
その調査のため,ユウコとともに探索隊を編成し地球環境を調べることになる.ユウコは冒頭のハルオの知己の老人の孫だった.なぜシャトルは爆発したのか? 委員会の細工だったのではないか? とユウコは言う.ハルオは,そんな風に同胞を疑いたくないと言う.
ここにも,ハルオの倫理的姿勢が表れている.災厄に見舞われ,無限の水と酸素が与えられていた頃とは異なり,極限状況において堕落する人間たち.それをきちんと問題視し,正義に燃えるハルオはまさしく英雄になるべくして生まれてついた者である.本作は,こうした高潔さに対する賛美の物語とも言えよう.
そんな中,A 中隊キャンプがゴジラの近縁である怪物に襲われる.植物もゴジラの近縁にあたり,電波障害を起こしている霧の正体はこの植物の花粉だった.これを受けて,リーラント総司令は撤退を決断する.ハルオは「ここは! 俺たちの故郷なんだぞ! 諦めろと! 一度ならず二度までも!」と激昂する.しかしながら,怪物は揚陸艇を全て破壊していったため,どう撤退するかを考えると,D, E 中隊のみが搬送力を持っているため,元丹沢大関門に移動するしかない.ゴジラと A 中隊だけで鉢合わせしないように,B, C 中隊と合流し,散開したまま交互に威嚇と陽動を繰り返して互いの安全を確保しつつゴジラの推定回遊圏内を抜ける必要がある.当初のハルオの作戦と全く同じ行軍となる.ハルオたちは撤退と称してこれに乗じてゴジラと戦うつもりだった.
そして,予想通りゴジラと遭遇.ハルオは単身でゴジラに突っ込むことで増幅器官を観測しようとする.「俺は,貴様を!!!」と叫びながら突進する.個人的にはここでの「お前」ではなく「貴様」という二人称が,彼の高潔さを強調しているように思われる.語彙の選択からそんな「感じ」がする.そんな中,リーランドが特攻し見事器官を特定した.
リーランドの殉職により,ハルオが指揮官となった.彼は演説する:
このように本作では,随所にハルオの熱気,高潔さを象徴するシーンが挿入されている.観客は倫理的な快を感じ,主人公に好感を持つだろう.
そして,早速ゴジラ討伐作戦を開始した.揚陸艇を前線に導入し,遊撃隊の活躍によりゴジラの誘導に成功.砲撃隊による攻撃を開始したが,非対称性透過シールドのパターンが変化していて,一度シールド限界点を逃してしまう.そこでハルオは至近距離からの EMP 攻撃によってノイズ周期を狂わせ,次の限界点を引き寄せる.
このように,人間が予測して立てた作戦が狂い,現実が思い通りにいかない様は他の作品でもよく描かれる.例えばシェイクスピアの『ハムレット』などがそうであろう.なぜなら,人間は複雑なことを扱えず,自身が理解できるように世界を単純化したモデルによって思考するため,現実の複雑極まりない世界を正確に把握できていないからである.そんな不測の事態,予期せぬ状況の中でも,臨機応変に対応して見せるのが真の知性といえよう.ハルオはそれを体現しているのである.もっとも,立てた目論見通りに事が運んで大団円というのでは,面白い物語にはならないのであるから当然であるが・・・
ハルオはゴジラの背鰭にとりついたまま,「俺に構わず打て」と叫ぶ.ここにも,自分の身を顧みない「勇気」という徳が表れている.
そして見事ゴジラに EMP プローブを打ち込み,倒すことができた.勝利の喜びも束の間,より強力な「ゴジラ・アース」が復活したところで第 1 作目は終わる.ゴジラは人類が勇気と戦略に頼っても勝つことのできない絶対的な畏怖の対象として描かれているのだ.
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