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Regenerate × Generate = ポスト資本主義の実験的アプローチ

1:Regenerate:大地の再生

映画『君の根は。大地再生にいどむ人びと(To Which We Belong)』は、2021年あたりから世界的なホットワードとなっている「Regenerate:大地の再生」をテーマにしたドキュメンタリー映画である。化学肥料や農薬を使った近代農業では、土壌が痩せ、作物が育たなくなるだけでなく、土壌にCO2が貯蓄できなくなり、気候変動にも影響していると言われている。そのソリューションとして注目されているのが、本映画で取り上げられている「大地再生農業」である。

映画の中では、大地再生を目指した「ホリスティック・マネジメント」や化学肥料・農薬に頼らない「緑肥(カバークロップ)」による野菜づくり等、CO 2削減にもつながる持続可能な取り組みが紹介されている。白眉だったのは、大地再生農業を陸地の農業だけでなく、海洋農業へと発展させている点だ。水中の作物である海藻が膨大な量の炭素と窒素を吸収するため、海も再生でき、衰退を続ける地域漁業を蘇らせる試みも紹介されていた。大地が蘇り、海が蘇る。それは地球が甦り、人が蘇ることにつながる。そんなメッセージを受け取れる映画だった。

内容もさることながら、この映画がユニークなのは上映のビジネスモデルだ。期間が決められた劇場上映の映画と違い、大地の再生、地球の気候変動、脱化学農法を学びたい人たちが上映イベントを自主企画して、興業を成立させているのである。それは止まることを知らず、草の根的に広がっているようだ。興行収入にこだわる劇場映画ビジネスではなく、ある種「社会運動のツール」という戦略的な機能も纏いながら、静かに人々に広まっている点が、ビジネス的にも注目に値する。

Source:https://www.yukkurido.com/towhichwebelong

2:ポスト資本主義の実験という視座

この映画を見ながら、わたしが思っていたことは、2つあった。

1つは、この「Regenerate:大地の再生」の背後に潜むのは、脱近代農業であり、ポスト資本主義の農業のあり方の実験ではないかということ。そして、2つ目は、このポスト資本主義の農業を模索している人たちが、教育業界で脱近代の教育のあり方を模索している「ジェネレーター」の活動と重なったことである。

Regenerateとは、直訳すると「再生」。生命が再び動き出すことだ。このことからもわかるように、近代が工業による大量生産で機械的だったのに対して、Regenerateの思想の土台は「生命論」である。大地再生農業は、大地を人間と同じように健康な状態に保てるように模索する。大地を生命として扱い、常に土壌が健やかな状態であれば、食物は健全に育つという思想に基づいている。一方、近代農業は「機械論」的で、ビジネス的である。大量生産を行うために、大規模農場で化学肥料や農薬を使い、枯らすことなく、つまり「効果・効率」的に金にすることが主たる目的になっている。映画の中で、ホリスティック・マネジメントを行う際、重要なことが3つあり、1番初めに掲げられていたのが「マインドセット」。つまり、近代農業からの意識的な脱却から始めなければならない、と言うことだった。

さて、この構造がすっかり教育にも当てはまるように思えたのは、わたしだけだろうか。

まるで近代農業のように、明治期の日本は全国に学校をつくり、教科書に書いてあることを理解させて「効果・効率」的に子供を促成栽培してきたようにも見える。しかし、大地が痩せ細ってしまったように、学校の教室も多くの問題を抱え、日本の教育も「再生」に迫られている。その実験的取り組み、変革のキーワードになっているのが「ジェネレーター」である。教科書の情報を文科省の教育指導要領に則って教え込む「先生(Teacher)」でもなく、コラボレーション・ワークショップを客観的に取り仕切るファシリテーターでもなく、ジェネレーターは子供に内在する好奇心の動向を察知して、一緒に面白がり、一緒に作り上げる存在だ。それは「大地再生農業」と同様、子供たちが学ぶ場を健康にすれば、自然と子供たちは学び始めるという思想に基づいている。


3:辻信一さんと市川力さんの対談

2023年4月23日に映画『君の根は。大地再生にいどむ人びと(To Which We Belong)』を観て、その後、辻信一さんと市川力さんの対談を聴くため、多くの人たちが神奈川県逗子市の逗子文化プラザホールに結集した。

辻信一さんは、この映画の翻訳と上映権を持ち、大地再生キャンペーンに取り組んでいる文化人類学者。一方、市川力さんは、日本でいち早く「探究学習」を実践した教育者で、最近は、子供だけでなく大人も対象に含め、学びの面白がり屋を増殖させているジェネレーターだ。この2人が映画の上映後に話すのだから、面白くないはずはない。

左から辻信一さん、イベント主催者の伊藤恵子さん、市川力さん。とても楽しそう。

この対談で、わたしのアンテナに引っかかったことが3つあった。

(1)脱近代の農業のヒントは、前近代にある

辻さんの話の中で響いたのは、映画のRegenerateが決して新しいことではないという指摘だ。辻さんはご自身の環境保護の活動から次のような発言をしていた。

辻:「ぼくの少し経験を言わせてもらうと、環境問題に取り組み始めて最初の頃、マングローブの生態系を守って、植林するといった運動に入っていたんですね。それでエクアドルとか、ベトナムとか、ミャンマーとかによく行っていたんですが、マングローブは陸と海の間に生態系がある、塩水の中でも生きられるように進化した植物群、それが森を形成しているわけです。それは日本で言うと干潟とか、西表島に行けばマングローブはありますが、陸と海のあわい(間)こそが生命を育む場所なんです。そう言う場所が最も破壊されてきたんです。日本でも見てください。あわい(間)の部分が全部小クリートで壁が作られちゃったわけです。陸と海が隔てられてしまった。

マングローブの森を歩くと、ズブズブと足が入って抜けなくなる。それで抜くと足が真っ黒になるんです。それが炭素なんですね。半端では無い二酸化炭素を地中に固定化する力を持っているんですね。これが本来の植物の役割じゃないですか。そういう植物が育む森やあわい(間)をぼくらは破壊することによって、気候危機を、自分たちが存続できないほどの危機を引き起こしてしまった。それでは、どうすればいいのか。生命はすごくて、自ずとジェネレートするわけでしょう。ジェネレートして、リジェネレートする。このプロセスに戻るしかありません。多くの科学の分野が、そこに行きつきつつある。映画の中でアフリカの先住民のマサイ族の人が科学者たちからいろいろ学んでいるのだけれど、結局考えてみると祖先がやっていたことと同じことをやっている。これは決して新しいことではないんです。これは重要なメッセージだと思います。」

Source:イベントでの発言から抜粋

実は祖先がやっていたことと同じ。それは言い換えると、脱近代の農業のヒントは、前近代にある、と言うことではないか。確かに日本でも、江戸時代はリサイクル社会が通常で、都市で暮らす人々の人糞も、郊外の農家の肥やしとして戻されていたと言われている。大量生産、大量消費社会で見失っていたのは、前近代の知恵にあり、その礎をもう一度見直してみる必要がある。この辻さんのメッセージを教育分野に横展開すると、次の市川さんの発言につながっているように思える。

(2)無駄を愛でる江戸テク

市川:「ぼくは今ハマっているのが江戸時代なんです。ぼくは色々ダジャレを言うんですが、EdTech(通称エドテック:教育<Education>× テクノロジー<Technology>を組み合わせた造語)をもじって、「江戸テク(江戸のテクノロジー)」っていいなぁと思っておりまして、テクテクテク歩くことから始めようと言っているんです。江戸テクノロジーはテクテクあてもなく歩くと言う無駄の極地で、やたらとしょうもないものを集める。江戸の博物学者って、ちょっとおかしい人多いじゃないですか、なんでこんな石ころのような変なものを集めているんだと言う人がいる。きっと貧乏なんですよ。でも、この人の一生は楽しかっただろうなと思っていまして。そうするとわたしたちのロールモデルって、たくさんいますね。無駄を愛でていた人。」

辻:「もちろんね、人間は無駄なものと役に立つものの区別は歴史的に古いと思うんです。でもね、世の中を役に立つものだけで埋め尽くそうという欲求、これが大きくあり始めたのはものすごく最近です。それがどんどん極まってきているんじゃないかと思いますね。」

Source:イベントでの発言から抜粋

脱近代の教育を実践的に模索する市川さんが江戸時代に興味を持ち、一見無駄なものかもしれない雑を集め続ける博物学者の学びのスタイルにヒントを得ている点は、先に指摘した「脱近代のヒントは、前近代にある」の教育へのスライドのような気がしてならない。この辺り、モリス・バーマンの近著『神経症的な美しさ アウトサイダーが見た日本』(慶應義塾出版会)の最終章「江戸的な現代へ-ポスト資本主義モデルとしての日本?-」につながる。バーマンもまた、アメリカ的資本主義に限界を感じ、ポスト資本主義のあり方のヒントを「日本における古きもののモダニズム」に見ている。実は一見古臭く見える、無駄に思えるものの中にこそ、イノベーションを促すヒントがあるのかもしれない。

(3)愛とは、時間を無駄にすること

対談の最後。辻さんの話が圧巻だった。無駄と愛の繋がりをサン=テグジュペリの『星の王子さま』を引用して話してくれたところである。

「無駄、無駄って言っているでしょう。ぼくたちは無駄なものとか、無駄な人をリストラと言って排除してきたわけ。でも、1番の問題は時間を役に立つものにしていくってことなんです。自分の時間をお金儲けのために役立てている、つまり食っていくことです。人生でね、自分と切り離せないものって時間だけなんです。他のものは明日全部失うことができる。例えば、自分の家とか、自動車とか、服とかね。みんな、明日はわからないですよ。でも、時間だけは死ぬまで一緒なの。この時間をお金に変えるゲームを発明した人がいる。悪魔ですね。みんな、その原理に乗っかってしまった。時間を切り売りしているんですよ。だから、無駄を省く。それで大事な人との時間も無くなっちゃった。かけがいのない子供にすら自分の時間を与えることができない人が出てきてしまった。

それで『星の王子さま』の話をぼくの本で書いたんです。星の王子さまは、自分の星にバラの花を置いて旅に出ちゃう。それで置いてきたバラの花のことが気になって仕方がない。いくつか惑星を旅したのちに、地球にきた時、偶然庭に何千本というバラの花に遭遇する。すると悲しくなって、突っ伏して泣くんですね。なぜなら、自分のバラのことを考えていたからです。あのバラがこの景色を見たら絶望するだろう。いつもあんなに“わたしは世界でたった1つのバラよ、綺麗でしょ”と威張っていたから。バラがわたしは無数にあるバラの1つに過ぎないと思ったら悲しむだろうな、と思って泣くんです。すると、そこに狐がやってくる。この狐は哲学者なんです。星の王子さまのところに来て、“友達になろうぜ”とやってくる。すると、王子様はこういう。“友達になんかなったら別れる時に辛いでしょ”と。なんか現代人みたいですね(笑)。でも、2人は友達になって楽しい時を過ごすんです。しかし、別れの時が来ます。星の王子さまは言うのね。“ほら見ろ。ぼくが言った通りじゃないか。こんなに悲しい。でも、これは君が悪いんだぞ。君が友達になろうって言ったから”。すると狐は“ぼくも悲しいよ。泣いちゃうよ”と言う。すると王子様は“それはおかしいよ!君が悪いんじゃない。友達になろうって言ったから。だったら、これは何にもならないね”。つまり、無駄だったじゃない、と言うことね。すると狐はこう言うんだ。“いや、そんなことはないよ。君がいなくなったら寂しいけれど、君と会う前は何の意味もなかった小麦畑。その小麦畑を見るたびに、ぼくは風になびく金色の君の髪を思い出す”。つまり、友達になる、人を愛すると言うことは、風景が意味を帯るんですね。世界が美しくなる。そして、狐が言うんです。“最後に君に秘密を教えてあげよう。君がバラの花を大切にいるのは、君がバラの花のために時間を無駄にしたからだよ”」

Source:イベントでの発言から抜粋

つまり、星の王子さま、君がバラの花を愛していた証拠だよ、と言う話なのだ。

わたし達は無意識のうちに近代の常識を体で覚えてしまっていて、何の疑いものなく、「効果・効率」病にかかっている。しかし、近代の歪みがいよいよ地球規模で災害となって現れてくる段階になって、ようやく目覚める人が増えてきた。農業ではRegenerate、教育ではGenerateと言ったホットワードが「実践運動」として形になってきている。今回、辻さんと市川さん、全く違う畑の対談ではあったが、2人の奥に流れる地下水脈は、脱近代、ポスト資本主義の実験的アプローチとしてつながっており、この動きは閉塞した世界のさまざまな分野に波及してくことだろう。

その際、重要なのは「生命に立ち返り、物事を捉えなおす」こと、なのかもしれない。

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