見出し画像

ニュースパーク日本新聞博物館(神奈川県横浜市・日本大通り駅)

日本大通り駅、横浜スタジアムのある横浜公園から山下公園の中間あたりにある、まさに横浜観光のメインといえる馬車道エリアの中心にある横浜情報文化センターの中に入っているのがニュースパーク日本新聞博物館である。横浜情報文化センターにはこの他にも放送ライブラリーや接続している建物にも2つの博物館があったりと、ここだけで1日を楽しむことができるほど充実したミュージアムが詰まっている隠れた観光スポット。馬車道エリアの観光というと山下公園を中心に行きがちだけれど、実はミュージアム施設も非常に充実している。

建物内でまず聳え立つ印刷機に目が行く。かつて実際に使用されていた印刷機はまるでバベル。情報という巨大な城がまるでこの世界を支配するようである。考えすぎ。

デケー

館内は2フロアに分かれている。まずは企画展からということで、近代日本のメディアにおける怪異についての特集。江戸時代から現代に連なる報道において、新聞媒体ではどのように怪異と向き合ってきたのか、ということを紹介している。近年で話題になったアマビエについても明治の当時から話題になっていたらしく、語源は海彦=ウミヒコ=アマヒコ=アマビコ=アマビエといった推移だという。人知のおよびつかない天変地異(例えば地震はナマズ、疫病は風の神)といった迷信に近い関連性がまことしやかに語られていた江戸時代はそれらを鎮めるための手段も考えられた。今では東北地方のお土産のイメージがあるあかべこも元々は魔除けの道具だったという。
明治に入って西欧文化の訪れとともに今まで日本になかった病気も入ってくるようになる。西郷隆盛と明治政府が戦った西南戦争ではコレラが日本で初めて蔓延し、これは戦没者の怨霊の仕業と考えられたという。他にも地震の預言者が現れたりと、心地よいオカルトの風潮が当時は本気で信奉された。

妖怪ハンターへの道

迷信といえば、日清戦争では鳩や鷹が艦船に停まったりしたことから厳島神社の使いではないかと言われたり、日露戦争では諏訪大社の二柱が折れたことを伝えられたりと、なにかと関連づけられているのは現在でもたまに見受けられる現象。特に情報が発達した現在は信憑性はそっちのけで拡散のスピードが早くなっていることを痛感してしまう。とはいえ人面牛(くだん)の登場した記事なども報道されているという、おおらかな時代だったといえるかもしれない(ちなみに当時は長崎の博物館に剥製が陳列されたという)。

明治初期には読売新聞や朝日新聞といった大手の新聞社でも妖怪の記事があったことは興味深い。また、錦絵新聞というメディアではゴシップや怪異を取り上げたりしており、月岡芳年や落合芳幾といった画家が挿絵を担当している。かなり悲喜交々、子供が妖怪に襲われた(実は狸)、女房をなめまわす妖怪(自重)、死後に生き返る女、娘姿の狐が旅人を殺す記事などが紙面を飛び交い、現在の毎日新聞にあたる東京日日新聞の創刊者だった条野伝平が新たに発刊した「やまと新聞」では、落語家の三遊亭圓朝が仲良しだったことから圓朝の怪談を次々と掲載したり、虚実ないまぜになっていることがわかる。ちなみに日本で初の妖怪研究家は東洋大学をつくった井上円了と言われている。

もう一つの企画展では沖縄について。日本に復帰してから50年という節目を迎えたことを記念し、アメリカの占領下だった頃から日本へ帰属するまでの経緯と、現在にまで続く諸問題についてを取り上げているという骨太な内容ながら、沖縄出身の有名人の記事を取り上げたりするなどの努力が見られる。印象深いのは本土になる前、1958年に首里高校が甲子園に出場した時のこと。惜しくも敗退し甲子園の土を持ち帰ったところ、国が違うことから防疫官の手で海中へ捨てられたというエピソードがある。なお、それを知った日本航空の客室乗務員がその後、小石を学校へ送ったという話も残っている。

報道写真の展示もある

上のフロアにある常設展では新聞の歴史ということで、江戸時代の瓦版から明治に至って次々と新聞が発刊されたこと(新聞売りで名を馳せた「新聞小政」こと安藤政次郎についても採り上げられている。また現代に至るまでのメディアのあり方、新聞に特化したタイプライターや印刷機の紹介などを経て現代に至るまで(新聞配達の体験など)を網羅しており見応えたっぷり。トイレはウォシュレット式。

新聞の歴史が体系的に学べる


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?