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【シロクマ文芸部】ハチミツは【2000字小説】

「ハチミツは? 入れるんだっけ」

青年の問いかけに、窓際の椅子に腰かけた白髪の女性はため息を吐いた。

「あなた何年私のマネージャーをやってきたの」
「ごめんごめん」
「カモミールティーにハチミツを小さじで2杯。まったく、次聞いたら、今度こそクビにするわよ」

青年はおどけた顔で、肩をすくめている。意に介してはいないようだ。

ティーポットから、ティーカップへと、丁寧な手つきで淡い黄金色の液体が注がれる。ポットも、カップも、メーカーはウェッジウッド、フロレンティーンターコイズ。ボーンチャイナに描かれた美しい幻獣たちは、青年の手に随分としっくり馴染んで見えた。

青年は、白髪の女性の目の前で、きっちり小さじ2杯分のハチミツを入れて見せる。それを見届けて、彼女は頷く。ハチミツは、ティースプーンでくるくると念入りに溶かされている。

ハチミツ入りカモミールティーを淹れたカップアンドソーサーを、青年はゆっくりと彼女の目の前にあるサイドテーブルに置く。

「熱いから気をつけて」

そんな気遣いの言葉に、女性は鼻を鳴らして答えて、ゆっくりと目を閉じた。

かたん、と音が鳴ってしまった。

私が、ドアにぶつかってしまった音だ。青年が顔を上げて私のほうを見る。目と目が合う。
見知らぬ青年は、何か眩しいものを見るような顔をしてから、確かにこちらに笑いかけた。
そうして、すうっと窓から入る午後の光の中に、溶けるようにして掻き消えた。

部屋の中には、窓枠に頬杖をついて目を閉じた女性しかいない。

テーブルの上には、フロレンティーンターコイズ。それは、私がほんの数分前に、用意したはずのものだ。
私は、手の中に握ったハチミツのボトルをぎゅうっと握りしめた。

今のは、なんだったのだろう。

「藤井さん?」
呼びかけられた声にハッとして顔を上げると、白髪の女性、百合子さんが部屋の入口に立ったままでいる私を見ていた。
「おはいんなさい。ハチミツを持ってきてくれたのね」

半世紀以上、世界中の劇場でソプラノ歌手として活躍をしてきた女性、本郷百合子さん。
ほとんど表舞台に立つことがなくなっている彼女が、唯一今でも年に一度、必ず開催しているコンサートが、私が働いているレストランで行われる、この定期演奏会なのだそうだ。

私は、今年入ったばかりの新人で、店に勤めるまで、百合子さんのことは知らなかった。それなのにどういうわけか、今日、本番当日の百合子さんのお世話係に任命されている。

「ありがとうね」
肩にかかった大判のショールを、首に巻きなおしながら、百合子さんが言った。そうして、優雅にカップの取っ手を手にして、中を覗き込むと、かすかに苦笑した。

「どうかされましたか」
「いえ、なんでもないの。……せっかく持ってきてもらったハチミツだけれど、今日はもういいわ。ごめんなさいね」

百合子さんは必ず、本番前にハチミツを入れたカモミールティーを飲むと、シェフが言っていた。きっと今日もそうするからと言われていたのに、私は肝心のハチミツを忘れてしまって、キッチンまで取りに行っていた。

だから、そんなはずはない。

そんなはずはないのだけれど、

「もしかしてですけど。そのカップにはもう、ハチミツが入っていたりしますか?」

百合子さんは、少し目を見開くと、ぱちぱちと瞬きをした。

「もしかして、藤井さん。見ちゃった?」

見ちゃった、という言葉で嫌な予感がしたけれど、百合子さんは気にする素振りもなく、
「あの人ね、死んだ夫。私のマネージャーだったの」
と言ってのけた。

「ごめんなさい、こんなこと言われたら、怖いわね」

怖い、のだろうか。
驚きはしたし、戸惑ってはいるけれど、怖くはなかったかもしれない。

「こわい、とは思わない、です。だって、」
だって、あんまり綺麗だったから、二人の雰囲気が。
そう続けるのは気恥ずかしくて、言えなかったけれど、百合子さんはふんわりと微笑んでくれる。

「夫さん……は、早くに亡くなられているんですね?」
早くに死別して、それでもずっと百合子さんを想って側に居続けているのだろうか。

そう思って、尋ねた私に、

「そう思うわよねえ」
と、百合子さんは大きく鼻を鳴らした。

「見た目が若いもの。でも、ぜーんぜん。亡くなったのは数年前。最後なんて、普通におじいちゃん。なのに幽霊になった途端、あんな格好で、ずるいと思わない?」

鈴が転がるような笑い声が響く。

「彼が現れるのはね、このお店での演奏会のときだけなの。彼もこのお店がとっても好きだったから、きっと私が羨ましくて出てくるのよ」

百合子さんは満足そうに、ハチミツ入りカモミールティーを口に運んだ。

百合子さんが、うちの演奏会だけは必ず開くのは、夫さんに会うためなのか。聞こうか迷って私は口を閉じた。

そんなことは、どうでもいいことだ。


窓から差し込む黄金色の午後の日差しの中で、百合子さんも、私も、フロレンティーンターコイズも、全てがハチミツ色に染まっていた。



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以前からちょくちょく目に止まっていた、お噂はかねがね、憧れの #シロクマ文芸部 さんに思い切って初参加です。

今回のお題は「ハチミツは」で始まる作品。

日曜日が締切、と思っていたので、ああまた参加はできなかったなあと思っていたら、三連休のためか今週は本日24日(月)の23:59締切じゃないですか、

ということに気づいたのが、今日の昼前という。

例によって締切目の前の企画ほど参加したがる……悪い癖ですね。
どうにか本文2,000字きっかりの小品を仕上げてみました。

よろしくお願いいたします。

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