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【白熊杯】短歌大会に参加させていただきます
人の死はいつもだいたい孤独です風呂場の目地に馴染むたんぱく
電気毛布は暖かい僕たちが道を違えて進むとしても
「投稿を取り消しました」パフェとかの写真がアップされる寒晴
はじめましての方も、いつもありがとうございますの方も、こんにちは。
四四田鹿辰です。今回も、短歌で、白熊杯に参加させていただきます。
白熊杯用に詠もう、と思っていたら、なかなかに締め切りギリギリになってしまいました。(十六夜さん、アラートを有難うございます☆彡)
今回のテーマは「なるべく冬っぽい短歌」ということで、冬と聞いて思い出す景色から短歌を作りました。
昨年から、こういった企画に参加させて頂けてとても楽しいです。
機会を有難うございます。
ちなみに
どう詠んでいただいてもまったく問題は無いのですが(だって作品は作者のものでも、作品の解釈は読者のものだから)。一応実際に起きたことから短歌を作ることが多いので、以下は今回の短歌の背景となっている個人的エピソードの紹介です。
人の死はいつもだいたい孤独です風呂場の目地に馴染むたんぱく
子どもの頃、死ぬのがとても怖かった。
どうしたら死ななくてもいいのかを考えて、死んだ人の「どうして死んだのか」の話をやたらと知りたがっていたような記憶がある。原因を知って、そこを避けていれば死なないで済むと思った。
特に怖かった死因のひとつが「ヒートショック」だ。
「温かい浴室と寒い脱衣所の温度変化で心筋梗塞が起きる」とテレビのニュースで説明されていた。
小児喘息だった僕は、温かい浴室から寒い脱衣所に出ると咳が止まらなくなることがあり、温度変化が自分の体に与える影響に自覚的だったので、余計に臨場感があったのだと思う。
浴室は僕にとって、長じた今となってはあまり感じることのなくなった「死の恐怖」と紐づいている。
不動産会社を退職して、次の職場を決める時、「生きている間の人の住処のお世話をしたのだから、次は死んだ後の人の居場所に携わろう」と漠然と思った。よく考えると、理由になっているようでなっていない。
ただ、そう思って、なんのツテもなくエンディング産業界隈に勤めることになった。詳細は省くが、現在の職場だ。
不動産業に勤めている間、昨今取り沙汰される孤独死の問題というのは少なからず馴染みのある言葉だった。今の職場に勤めるようになって、馴染みのある言葉、ではなく、馴染みのある事象、になったように思う。
それにしても「孤独死」という名称は人の危機感を煽る。誰がつけた呼び方か存じ上げないけれど。
少し前に、僕自身の叔父が実際に孤独死と呼ばれる死に方をした。
そうして身近なものになってみて改めて、すべての死は須く孤独死であるように感じる。
いつ何時、死のタイミングが訪れるのかわからない以上、そこに人が居合わせるとは限らない。若かろうが、年を取っていようが、関係ない。仮に生きているものが居合わせたところで、まだ生きていくものが、これから死に至ろうとするものに対してできることは、ある一定のラインを越えればもう何もない。そのラインを一緒に超えられない以上、いつでも誰でも孤独なものだ。僕はそこに「孤独」とは真反対の感触を覚える。
人の死はいつもだいたい孤独である、という点で僕たちは孤独ではない。
電気毛布は暖かい僕たちが道を違えて進むとしても
僕の生家は典型的なDVの家だった。
生じるDVという行為において、加害者の立場に立つことになる父親の精神は常に波があり、生じたDVという現象において、被害者に立たされる僕と母は、不定期に家から逃げなくてはならなかった。
(余談だがDVにおいて、被害者側がその場をとにかく立ち去るというのが、加害者の命も、被害者の命も、どちらも守ることができる最善かつ唯一の行動だと、僕は経験上確信している)
とはいえ、
これもまた典型的なDV被害のひとつではあるのだが、行動を制限され経済能力を持たないようにコントロールされていた専業主婦の母が、子どもの僕を連れて逃げ込める先はそう多くはなかった。
母本人が複雑な家庭環境と、生育家庭での虐待サバイバーの側面を持っていたため、決して望ましい避難先ではなかったものの、他に行く当てもなく母の実家に向かわざるを得ないことも、ままあった。
母の実家は、助けを求める彼女に対して、非常に冷酷な顔を見せるので、母の子どもである僕としてはどんなに自宅が安全ではない状況にあっても、母の実家は好んで行きたい場所ではなかった。
(ただしこれもまた時折他者の話として耳にする不条理ではあるが、母の実家は母の子どもであるはずの僕に対しては、大変親切な対応をすることも多かった)
やはり父の暴力から逃げることになった、とある真冬の深夜が、ひとつ印象的な記憶として残っている。
叔母が、僕と母が一晩過ごせるようにと通してくれた空部屋に、スイッチの入った電気毛布があった。電気毛布はとてもあたたかく、真冬の夜、まさに着の身着のままで逃げてきた僕にとって、強烈な身体的記憶として焼きついた。
僕は、これから先何があっても、この電気毛布の温度と、それをあの叔母が用意してくれたことを忘れてはいけないとそのとき強く思った。
これだけで生きていける。もう二度と会うことがなかったとしても、あの電気毛布を用意してくれたのは彼女なのだ。
あのとき、ありがとう。
およそ20年近くが経過した今も、そのことを忘れずにいる。
「投稿を取り消しました」パフェとかの写真がアップされる寒晴
SNSを個人的なメールや電話のやり取りとほとんど同等に扱うことが増えたように思う。
連絡をし合う代わりに、お互いの投稿をきっと見てもいる。
随分と会っていないけれど、幸福であってほしいと願っている。
君が投稿するパフェとかの写真が、君が君の何か重要なはずのものを踏みにじって入らない袋に無理矢理にしまい込んでごまかした果てのものではなく、寒い日の一瞬の日差しみたいなものでも良いから、幸福で穏やかな時間を過ごした証明であってくれればと思う。我ながら大きなお世話だけど。