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【中編小説】行列
推しに関連する中編小説をnoteにも。
(今年は推しど真ん中のものを書きたい)
15,000字超えなので少し長いかもしれません。
小説家になろうに出している同名作品と同じ内容です。
【あらすじ】
安政七年三月三日。
後の世に言う、桜田門外の変。
その日、その時、その場所にいた一人の名もなき彦根藩士のはかなく短い物語。
安政七年、三月三日。
暦の上ではとっくに春を迎えているというのに、季節外れの大雪が降り続けている朝。
上巳の節句の祝い事のため城に向かう、藩主の乗った駕籠行列。その列のいちばん後ろに、萩原行之助はついていた。国の政治中枢を担う幕府、その君主たる将軍家が住まう江城へと、季節の行事の挨拶に向かう行列だった。
将軍家より、藩という形で各々領地を預かり、自領として治める大名家は、定められた時期になると、自領である国元から、将軍家の城下に所有する自藩の屋敷へと移る。
そうして、季節の行事が行われる日となると、屋敷から江城まで駕籠行列で向かう。
毎度おなじみ、いつものことだ。
昨今、この国は乱れていると口さがない者たちは騒いでいる。
日本は、長きに渡り独自の鎖国政策を取り、自らを守ってきた。だが、時代はうつろい、異国からの脅威が迫るようになった。
七年前の嘉永六年、浦賀の沖に巨大な異国船、いわゆる黒船が突如としてやってきたことでも、時代の変化は十二分に感じられるところであろう。
長らく国を守るのに必要なことと信じられてきた鎖国政策を取りやめての、開国の判断は必要なものであったのか否か。
いつの世でも、大きな決断には賛否はつきものだが、黒船来航当時、時の老中首座阿部正弘公が、なまじ広く意見を募ったことから、意見は分かれて政治は大いに荒れた。それに乗じて、幕府に仇なそうという輩が日増しに多くなっているようだ。
世間で戊午の大獄と噂されている、不逞の者たちへの取り締まりの強化などでも、それがわかろうというものだろう。
それでも、こういった、昔から取り決められていることは変わることなく行われるもののようだ、と行之助はため息交じりに思った。
これは、定められていることであって、雪が降ったからといって、日延べすることはあり得ない。端からわかりきっていることではある。だが、白い雪にすっかり覆われた道を目にしていると、何もこんな日にまでと思われて、朝から恨めしい気持ちでいた。
行之助の家が代々仕えている彦根藩は、現藩主井伊掃部頭直弼公が大老職にあることでもわかるように、藩主が幕府の要職を務めることが当たり前のような、譜代大名筆頭とも言われる藩だが、萩原家はその中でも下から数えてみたほうが早いくらいの、ごく小さな武家だった。
家も小さなものだったが、行之助自身もまた、取り立てて秀でたところがあるわけでもない男だ。
三男坊で、上に二人も兄がいた。三人目の男児は親にすら気にかけられることもなく、世間ではもっと目に留まりようがない。もめ事を起こして、家の名に傷をつけることはなかったが、そうなるともう人に名を知られる機会も特にない。
どこにでもいる、いてもいなくても構わない、ただ武家育ちであるというだけの男だ。
そんな平凡な男は、行列のいちばん後ろでこっそりとため息をついていた。
大粒の雪、というよりは粒が大きく間延びしすぎていて、いっそ鳥の羽のような形の白い雪を、灰色の空はどっさりと吐き出し続けている。
とにかく、この季節外れの雪が、鬱陶しかった。
手がかじかんで指の感覚はなくなるし、足元は濡れて歩きづらい。体は寒さで痛いほどで、ひと足歩くごとに自分の体は重くなっていくが、うっかりすると、足を滑らせて転びそうにもなる。転ぶときばかりは、重たいはずだった体が急に軽やかになるもので、滑った足の勢いのまま、いとも簡単に体は持ち上がって、次の瞬間にはあちこちぶつけながら地面へと寝転んでしまう。
そうはならないようにと、気を付けて気を付けて地面を睨んで歩いていると、不意に吹き付けた風にあおられて、肩に羽織った雪除けの蓑がめくりあがり、無防備にさらされた顔を叩かれる。
うへえ、と間の抜けた声が思わず口をついて出た。
行之助がどうため息をつこうが、間の抜けた声を出そうがお構いなしに、行列は雪の中を進んでいくので、行之助も諦めて歩くしかない。
城をぐるりと囲んでいる堀沿いの道。
水を湛えた堀の上を、風は渡って来る。昨日までの春めいた陽気とは打って変わって、すっかり冬に逆戻りになってしまっている今日は、堀の水もところどころ凍っているようだった。そんな水の上を波立たせて渡って来る、ひゅうと音を立てて吹き付ける風が、もちろん暖かいはずもない。行之助は顔をしかめると、恨みがましく堀へと目をやった。
行之助が恨みがましく見やる、雪にけぶる堀の向こうには、ぼんやりと薄桃色の固まりが並んでいる。
たしか、あそこに植わっているのは桜の木であるはずだった。
きっと、あの薄桃色の固まりは満開の桜なのだ。
この雪と風の勢いでは、おそらく誰も見ている人間などいはしないだろう。
今日、あの桜に目を止めるのは自分だけかもしれない。
と、行之助はなんとなしに思った。
こんな調子の天気では、今日一日で花もだめになってしまうだろうか。それは、気の毒なことに思えた。
桜などには目もくれない、といった調子で、行列は粛々と進んでいく。
行列には、正式な家中の臣下ではない、日雇いの外の者も随分と使っていた。表向きにはあってはならないようなことだが、もう何年も、内々に行われていることだった。
朝早くからの支度や、登城をしたのち、帰るまでの間ただただ待たされ続けるだけの時間を嫌う者が、行之助のように若い者の中には特に多くいた。そもそも屋敷から城までは目と鼻の距離で、それを支度に手間のかかる仰々しい行列で行かねばならないことだって、前時代的でバカらしいと、口に出すことこそはばかられるけれど、胸の内で思っているものは少なくなかった。
どうせ何も起こりはしないのを、決められていることだからと致し方なく行列で向かう。
いつのころからか、行列の見栄えさえ整えばいいだろう、という風潮が藩の中で強くなっていた。そうして外の者を、この日のためだけに雇い入れるようになった。
おそらく、よその藩でも似たようなことはしているだろう。行列を成す、揃いの衣装に身を包んだ者たちの中に、本当の家中の人間はどれほどいるのだろうか。
形ばかりの駕籠行列に雇い入れられた者たちは、行列の支度に手慣れていた。
朝から、寒い寒いと支度をする者で騒いでいると、こんな寒い日は袖先をくくるんだ、と言って、着物の袖先を結わえている男が一人いた。
屋敷では見かけたことのない男だった。
日雇いの男なのだろう。
行之助が、一体どうするのかと興味を抱いて横から見ていると、男はくくった袖先を、刀の柄の上に引っ掛けた。そうして、もぞもぞと体をくねらせると、自分の腕は袖から抜いてしまい、そのまま着物の中で懐に突っ込んだ。自分の体で暖をとる格好になるらしい。
こちらのほうが暖かいぞと、着物の袖を結わえた男は笑いながら言った。
腕の入っていない結わえた袖は、手を前で合わせて、腹の辺りに添えているように見えなくもない。腕が入っている分下腹は妙にむくんで見えて、その代わりに肩や肘のあたりは妙にスカスカと薄くなって揺れているけれど、よくよく見なければわからない。
行列で通り過ぎるだけなら、気がつかれないですむだろうか。
雪除けに蓑も羽織ってしまえば、余計に傍目にはわからなくなりそうだった。
何人かの男たちが真似をし始めた。
そんな風に袖から手を抜いて、いざという時に手が出せなくて困るだろう、と誰かが言った。袖を結わえて見せた男はさらに笑って答えた。
「何、どうせ行列ん中でしずしず歩くだけだ。別に何も起こりやしない。後ろのほうの数合わせのお供の手が、出ていようがいなかろうが、誰も気にしたりはしないものだ。城の中に入ったら、その時は袖を戻せばいい。」
男はそう言っていた。
聞きながらそういうものか、と行之助は思ったが、結局は真似をせずにいた。
雪の中で、風に吹きさらされながら歩いていると、今更ながら、真似をすればよかったと、少し悔やむような気になりつつ、こうまで寒いと、あれくらいのことでは変わらないのではないかとも思えた。
あとで、やってみた者に聞いてみよう、と行之助は考えながら歩いた。そうしてもし少しでも暖かいようだったら、帰りは真似てみてもいいかもしれない。いや、それよりも帰る頃には止んでいてもらいたいものだ。
挑むように雪の空を見上げると、水っぽい大粒の雪がちょうど目の中に飛び込んでしまって、慌てて目をしばたたかせる。顔を振ってみても、目の中の違和感はなかなか消えずに、なんだか嫌な気持ちになった。
雪の中で、何が面白いのか、田舎から出てきたらしい旅装の男たちが呆けたように口を開けたまま、通りに立ってこちらを見ていた。
城に向かう駕籠行列は、田舎の人間にとっては物珍しいものだと聞いている。
以前にもこうして見物客が待ち構えていることがあった。だからといって、何もこんな雪の日の朝にまでいることはないだろうに、行之助の胸の内に呆れるような、嘲るような思いがふつふつと沸いた。
武艦を大っぴらに手に握りしめ、しきりに感心したように頷きながらこちらを見ている。
大名や役人の家名、家紋などを記録した武艦は元来、武家に出入りをする町民たちのためのものであったはずだが、この頃は田舎から江戸見物に出てきているらしい武士も、武艦を買い求めて名所案内か何かのように扱っていると聞く。
大方、この連中もそうなのだろう。
見物している側は気楽なものだ。
見物人を横目で見ているうちに、行之助はつい笑いだしそうになった。なんとか真面目な面持ちでいられるように堪えながら、しずしずと歩みを進める。
見物人に気をとられていて、行之助は自分のすぐ前を歩く者の足が止まっていることに気がつくのが遅れた。前の男の背中にぶつかりそうになって、慌てて立ち止まる。
何があったのか、行列は、いつのまにか動きを止めていた。
城内へと入る門の前に、そろそろ差し掛かろうというところだった。
一体何に足を止めたのだろうか。
不思議に思うより先に、行列が止まってしまったことがわずらわしくて、行之助はのんきに浮かびかけていた笑みを、しかめ面と何度目かのため息に変えた。
足袋は雪に濡れてすっかり冷たくなっていた。
このまま凍傷にでもなって指がちぎれてしまうのではないかという気がした。もぞもぞと足を動かしても、鼻緒を掴む指先が雪に濡れるのを、避けることなどできはしない。
それでも、少しでもマシになりはしないかと、行之助は足元を睨みながら諦め悪く指先を縮めたり、反らせたりした。濡れてしまった親指は、じんじんとしびれてきていた。冷えすぎて痛みもあるようだった。寒さが足先から伝わって、ふくらはぎは強張っている。太ももまでだるくなっている。寒い中に、こうしていつまでも立っていたくはなかった。
にわかに、列の先のほうが騒がしくなった。
何か、起きているのか。
わずらわしさが先に立っていた行之助も、さすがに気になり始めた。
とはいえ動こうにも、列の内で与えられた持ち場をむやみに離れるわけにもいかず、隣り合っている者同士で、いったいどうしたのだろうと、顔を見合わせた。
何が起きたのかわかっている者は、誰一人いなかった。相手が明確な答えをもちあわせているわけでもないのだから、顔を見合わせたところで意味なんてないというのに、まごまごと顔を覗き合うばかりだ。
誰も、決められているより他のことをしようとはしなかった。
するわけにはいかなかった。決められていることを、決められていることとして、全うするのが誰にとっても己の役割だった。何が起きたのかわからない以上、仮にわかっていたところで、定められた以外のことを、勝手な判断で行ってはならない。隣り合った者同士、沈黙の内に、見合わせた顔の中で互いにそう確かめ合った。
その途端、ドン、と火薬が火を放つような音がした。
風に乗って、切れ切れの怒号のような音が聞こえた。
「撃たれた」と、誰かが叫んだ。
撃たれた、という声は、列の中ほどで聞こえたように行之助は思った。
その辺りには藩主である直弼公を乗せた駕籠があるはずだった。あれは多分火薬の音だ。そう思いはしたのだが、こんなところでどうして、火薬の音が聞こえるのだろうと、その場の誰もが首を傾げた。
短銃の音だ、と誰かが言った。
興奮したような声の調子で、周囲の数人がざわりとうごめいた。まさか、と行之助は思ったが、では何の音かと言われても答えはわからない。
短銃が、駕籠に向けて放たれたとでもいうのか。
まさか。
殿が狙われたのか。
誰に。
それともそうではなく、別の誰かを撃ったのか。
誰を。
撃ったのは誰だろうか。
誰だ。
いや、あれは本当に短銃の音だったのだろうか。
本当に。
本当は別の何かの音ではないのか。
何かとは。
そうかもしれない。
そうではないかもしれない。
どちらだろうか。
行列のいちばん後ろで、いたずらに立ったままでいても、答えなどわかるはずもない。
明らかになりようもない疑問だけをグルグルと自分の頭の中で追いかけながら、行之助は首を伸ばして列の先を何とか眺めようとした。
爪先立つようにして、けれど持ち場からは動けないままおろおろと前のほうを見通していると、列の丁度中ごろで、駕籠のすぐ後ろに控えていた家中の幾人かが唐突に、ぐらりと動いた。
列が乱れるのと、通りに立った田舎者の見物人たちが、猛る声を突然に発したのとは、ほぼ同時だった。
さっきまで、呆けたような顔をして、行列を物見高そうに指さして、口を開けて、目を丸くして、微笑んですらいた見物人たちは皆、被っていた笠や合羽を脱ぎ捨てると、白鉢巻きに、たすき掛けの姿を露わにした。
捨てた衣装のどこに隠し持っていたのか、手には抜き身の刀が光っている。聞こえた叫び声に思わず振り返った行之助は、少し離れたところで刀を抜きはらった相手、つい今しがた、行列が通り過ぎたときには見物人然としていたはずの男の顔を、真正面から目にすることとなった。
男の目に浮かんでいる爛々とした光と、男が手にしている刀の生々しい光。
その双方に、行之助はぎょっとして身をすくませた。
見物人だったはずの男たちは、口々に叫びながら、行之助同様、突然のことにすくんだまま動けなくなっている井伊家家中の者たちへと、容赦なく跳びかかってきた。
「討ち取れ」だの、「首」だのという言葉が聞こえた気がするが、定かではなかった。
全ては怒号に飲み込まれ、正確に、誰が何を言っているのかはよくわからない。
わーわーという叫び声が、幾重なりもの音のひとかたまりになって、大きくうねるようにあたりに広がっていく。
おろおろと立ち尽くしていた行之助は、すぐ後ろから気を発するような「きええい」という威勢のいい声を聞いた。
声に振り返ろうとしたが、振り返るよりも先に、背を勢いよく殴りつけられ、体に与えられた衝撃に立っていられず、雪の上に転がった。
殴られた痛みだけではなく、転がった痛みにも、ぐっと息が詰まる。
げほ、と息を吐き出しながら、雪にまみれた顔を慌ててぬぐう。そのまま起き上がろうと、這いつくばった姿勢で顔を上げた行之助の目の前に、間髪を入れずに、ずしゃ、と大きな音を立てて男が一人倒れてきた。倒れた男の顔は、行之助のほうを向いていた。その男と、目が合った。
間近で見合ったその目に、理由はわからないまま異様な気配を感じた行之助は、思わず這いつくばった姿勢のままで飛び退った。
目が合った、と思ったのもつかの間、男の目は、見開かれたまま瞬きもせず、急速に生気を失っていく。そうして、男は作り物の人形のように動かなくなった。
(死んだ、のか。)
行之助の心臓が大きくどくんと鳴った。あまりにも大きく鳴って、外に聞こえているのではないかという気がした。
男は、同じ家中の人間だった。藩邸で見かけたことが幾度かある。特に親しい相手ではなかった。けれど、同じ藩の者同士、全くの見ず知らずの相手ではない。そんな男の、見開かれた真っ黒い目に、行之助は射貫かれたように動けなくなった。
辺りの怒号は増すばかりだ。行之助は男から目を離せずにいる。手が、小刻みに震えている。
「えええぃ」
と、また頭上で声がして、びくりと体が跳ねた。先ほど聞いたものとは違う声のようだ。
背後で、ずさぁっっと、大きな音を立てて、何かが倒れる。その何かが倒れた勢いで舞い上がったのだろう雪が、背中から行之助へと降りかかる。うなじに、びちゃりと冷たい雪が触れる。ゾッとして、途端に縮こまっていた背筋が伸びた。
カチャカチャと何かがけたたましく鳴っている。
頭に響いてひどくうるさいその音が、自分の歯が立てている音だと、行之助は気がつかずにいた。
手は相変わらず小刻みに震えている。震える手を持て余しながらも、どうにか自分の腰に手を伸ばす。腰に差している刀は、雪の支度で柄袋に入れてあった。
指が触った布の感触に、行之助の心はひどく焦った。
刀を抜かなければ、それには、柄袋を取らなければと、わかってはいるのに、指は思うように動かなかった。
人が叫び、何かそういった玩具であるかのように、どさり、どさりと雪の上へと続けざまに男たちが倒れていく光景の中で、目の前で倒れて動かない男の見開かれた眼球を見つめたまま、行之助は座り込んで、柄袋の上から刀をぎゅうと握りしめていた。
それから、どれほど時が経ったのか。
いつの間にか静かになった大通りの真ん中で、行之助は一人、うつぶせに横たわっていた。
紋付袴に、雪除けの蓑を羽織ったまま、白足袋に草鞋を履いて、投げ出された足は袴がめくれ上がり、剝き出しになった脛が雪に触れて赤く腫れている。ひどい有様だったが、行之助は生きていた。
( 痛 い )
そう頭の中に言葉が浮かんで、行之助は意識を取り戻した。
体中に、無数の刀傷ができている。
足の腱は深く切られ、背中、肩口、腕、顔も傷を負って赤い色に染まっている。頭から流れる血がこめかみや額を伝う。伝った血が目の中に溜まっているのか、閉じた瞼の下で、ごろりと気色の悪い感触がしている。
目を開けられない。
足は動かない。
腕も上げられない。
腹は何かを押し当てられているように奇妙に熱い。
口の中も切れている。
けれど不思議なことに、行之助はそういった体に受けた傷それ自体を、痛いと思って目覚めたのではなかった。
では何が痛いのかといえば、それは、肩に羽織っていた蓑の先が、わずかに頬に当たっている、というただそれだけのことだった。
痛い、というよりはこそばゆいと言ったほうが確かかもしれない。
ただ、かさかさと肌に触れ、ちくちくと刺さる藁がわずらわしい、その感触を「痛い」と思って、彼は目を覚ました。
行之助はぼんやりとした頭で、開かない瞼を無理矢理にこじ開けようとした。こじ開けるとき、耳に、ぬちゃ、という粘つく水音が聞こえた。
どうにかこうにか開いた目に、白い色が飛び込んだ。
一瞬、その白い色が自分の目を貫くような気がして、行之助は目を細めた。咄嗟の反応に頬がひきつれる。眩しいからと開けた目を閉じる、たったそれだけの動作に耐え難い痛みが生じた。思わず声を上げようとしたが、それは「ぐう」という、かすれた小さな呻き声にしかならなかった。
ひきつれた頬の痛みに小さく呻きながら、もう一度今度はゆっくりと目を開ける。
白い光に思わず閉じた目を、改めて開けて見れば、そこに広がっているのは白ではなく、薄汚い灰色の大地だった。
少し前までなら、純白の雪に覆われていたのかもしれない。今は無残な程に踏み荒らされ蹴散らされ、薄汚くよごれている。雪は水気を含む黒々とした土にまみれ、べちゃべちゃとした灰色のぬかるみになっている。
その上に、赤い色が広がっていた。一見すると黒いようにも思えたが、その色が、赤だ、ということが行之助にはわかった。見慣れているわけではない。けれど、それが血であることが、彼にはわかった。
誰のものともつかない大きな血だまりがいくつもあった。
そういった血だまりの傍には黒い塊が歪な形で横たわっていた。行之助のまだかすんでいる視界に、黒い塊は、寺の石庭に、神妙に据えられている岩のように映った。或いは、海先のほうでかすんで見える遠い島影のようでもあった。
刀を手にした男たちの姿は、見当たらなかった。
どこかへと立ち去ったのか、そうではないのか。
男たちの姿は見当たらないのに、キン、キン、と刀の触れ合う音が、どこか遠くで聞こえている。
気のせいなのか、本当に聞こえているのか、行之助にはどちらなのか判断が付かなかった。耳鳴りのようにいつまでも響く微かな音を聴きながら、行之助の意識は段々と目覚めていった。
それと同時に、ようやく全身が焼けるような、貫かれるような痛みが襲ってくる。割れた額、裂かれた肩口、抉られた腹は熱を持ち、火に炙られているようで、その耐えがたい痛みをごまかしたくても、体は動かない。歯が割れそうなほど強く噛み締めると、行之助は短い呼吸を何度も繰り返した。
痛みでバラバラになりそうな自分の体に、ぐ、と力を込める。
こんなにも痛いのに、その痛みで体がバラバラにほどけて、散って行ってしまわないことが不思議な気がした。
鉛のように頭は重く動かない。痛みに驚いた心臓が早鐘のように打っている。その騒がしい鼓動から来る微細な振動が、また体に痛みを与えてくる。
動かなければ、と行之助は思った。
動かなければ。動いて何をしようという考えはなかった。ただ、倒れているままではいられない。動かなければ。
歯を食いしばって、腕に力を込めて、どうにか持ち上げる。持ち上げる、と言っても大して持ち上がりはしない。
わずかに首が浮き上がる。そんな動きにも、力を込めなければならず、そうして力を込めすぎて、首の血管は浮き出て今にも裂けてしまいそうだった。
着物は湿って重たく、手をついたところが滑りよろけるのを、肘でどうにか支えた。
力を入れた腹がきゅうと筋肉を縮こませて、生ぬるいものが収縮した筋肉に押し出されるようにじんわりとにじみ出る。
歯が、ごり、と嫌な音を立てた。
顎がひどく痛む。
痛む体から気を逸らすために、あたりを見渡す。
見渡してみて、黒い塊と見えたものが、どれも人間の体ということに気が付いた。驚きはしなかった。
うめき声を上げたり、身じろぎをしている者もいるが、気配もなく静まり返り、動かない体もある。それらを、確かめるようにしてしばらくの間じっと見ていた行之助は、力が抜けたように、突然頽れた。冷たい雪の広がる上に、とさ、と思いのほか軽い音をさせて支えていられなくなった頭が落ちた。
自分たちは襲われたのだ、と、頭に浮かんだ事実を、行之助は倒れたまま、ゆっくりと体に染み込ませるように思った。
雪の上、自分の力なく投げ出された手の先に、柄袋に包まれたままの刀が見えた。
その刀を見つめるうち、じわり、と目頭が熱くなってきた。結局自分は刀を抜くことさえ出来なかったのだ。袋の上から刀をぎゅうと握りしめて、目の前の光景を見ているばかりだった。
視線をそっとよそへ向ければ、静かに倒れている者の中に、袖をくくったままの男がいた。顔は見えない。
生きているか死んでいるか。動く様子のないところを見ると、おそらくは、もう死んでいるのだろう。いざという時に手が出なくて、困っただろうか。そんなことを思う暇もなかっただろうか。
袖をくくったままでも、逃げ出せた者はいた。
行之助には、誰かの駆けていく後ろ姿を目にした記憶があった。誰だったのかまではわからない。中身のない袖を振り、ひたすらに駆ける後ろ姿は無様だった。
けれど、何も出来ずに、ただ切りつけられて倒れるよりは、よほどマシだ。
何もかもを放り出して、自分には関わりがないとばかりに逃げ去っていく、幾人かの後ろ姿を、柄袋越しに刀を握りしめたままで行之助は見送っていたのだ。
羨んだわけでも、腹を立てたわけでもない。
思わず、見た。
ただ、見た。
何かを思う暇もなかった。
逃げる彼らを真似て追いかけることもせず、呆然と座り込んでいた。
誰かに背中を殴られた。
いや、今にして思えば、殴られたのではなく、あの時斬られていたのだろう。そのあまりの込められた力の強さに、行之助は倒れた。ろくに知らない男の顔が目の前に倒れこんできた。目が合った。その目を見つめて、行之助は体を起こすと座り込んだ。そうして、逃げていく者たちを見送った。
いつまでも座り込んでいたような気もするが、わずかな間のことであったのかもしれない。
思い出せない。
それから、立ち上がった。
立ち上がったはずだ。
そんな気がする。
けれど定かには思い出せない。
立ち上がったのであろう。
立ち上がってから誰かに頭を、足を、腕を斬られた。
はずだ。
手にした刀は、柄袋に覆われたまま、するりと地面に落ちた。その刀が、今傍らに放り出されている。柄袋に包んでしまって、咄嗟に抜くことも出来ない刀を握りしめて、自分はいったい何をしようとしていたのだろう。
行之助は胸のあたりがざわざわと痛んだ。目の中に、生温かいものが込み上げて溜まる。鼻の奥のほうがつんと痛んで、むずかゆいような感覚を伝えてくる。
どうしてこんな目に合うのだろうと、子どもがふてくされでもするような言葉が頭の中に浮かんだ。
冷え切った体が、痙攣を起こしたように震えている。足は、腱が傷ついているのだから、立つこともできない。だが、行之助自身はそのことに気が付いているのかいないのか。
とにかくここで倒れているばかりではいられないと、先ほどまでと同じように深い考えはないまま、もう一度体を動かそうと力を込めた。力を込めた腕が、傷口から血を噴き出した。ぶしっ、と耳障りな音がして、痛みが、行之助の体に走った。
生温かい血が、噴き出した腕の傷口からすうと、肌の上を撫で伝って、ポタと地面に赤い染みを作る。
じくじくと腕の傷が痛い。
力を込めたせいでずれた体の下では、腹のあたりがぬるりと生温かくなっていく。濡れた感触が広がっていくのは、自分の腹から流れる血のせいなのか、そうではないのか。見ようにも、思うように動かない体では、自分の腹の下にすら目をやることはできない。
ふと、目だけを動かした先、片隅に駕籠がちらりと見えた。藩主を乗せて、行列の中心に会ったはずの駕籠が、雪の上に投げ出され、倒れている。
行之助は、そういえば殿はどうしただろうかと、急に気になった。
何よりもまずは、そのことを思うべきではなかったかということに、今更ながら気が付いたのだ。焦る心に、どこか頭の中の奥の奥で、本当にそうだろうかと問うような声が聞こえ、その声を行之助は自ら打ち消した。
慌てて首を巡らし駕籠のほうへと目を向ける。ギリギリのところで何も見えない。
かろうじてそこに、ただ駕籠があるのだということがわかるだけだ。その周囲がどのようになっているのかは、行之助からはまるで見えなかった。
今更こんなふうに気にしたところで、もう何もかも終わってしまっている。と、また頭の奥で声がした。それを無視して、行之助は腕を伸ばし力を込めた。
ふたたび、腕から全身へ痛みが走る。
けれど、いつのまにか、足の痛みは少しずつ感じなくなってきているようだった。痛みに、体が馴染んできたのだろうか。ふわふわと、何かに包まれているようなぼやけた感触がするばかりで、足の痛みは薄くなっていく。
せめて足だけでも、痛みの消えていくことに行之助は安堵した。
伸ばした手で、地面を掴むように指を立て、ぎゅっと力を込める。爪に、雪が食い込む。土と混じり合って砂粒の紛れた雪が爪の隙間に入り込む。じゃり、と気味の悪い感触が走り、肌が粟立った。入り込んだ砂粒がどうにも痛くて、行之助は力を込めることに躊躇した。
よほど体に受けた傷のほうがひどい有様なのに、やわらかな爪の隙間に入る異物は、確かに痛かったし、気色も悪かった。
身をすくませ、手を縮こませると、爪の間から砂粒を取ろうと彼は躍起になった。
けれど、かじかんだ指は言うことを聞かず、ただかちかちと爪をぶつけ合わせるばかりで、砂粒は挟まったまま、余計に奥まって痛みは増した。
それしきのことに泣きそうになりながら、行之助は迷った末、もう一度指を立てて、体を引きずった。
瑣末なことだと懸命に言い聞かせて、気色の悪さを我慢しようとして、口を居心地悪げにもぞもぞと動かし、奥歯を噛み締めながら地面を這った。
ずり、と体を引きずる。
体が、ほんのわずかだけ動いた。
力を込めた手に向かって、体を近づける。
それだけで息が詰まりそうだった。
もう一度、手を伸ばす。
ずり、と体を引きずる。
腕が痛み、
背中が痛み、
腹の下ではぬるりと湿った感触がした。
苦労をして痛みに耐えても、体はわずかずつにしか動かない。
虫が這うような、のろのろとした動きだ。それでも、体の向きを駕籠が見えるように動かしていく。時折、痛みのあまり詰めてしまう息をハッと吐き出しながら。
本当にわずかにだけ、体を動かして、そうしてようやっと倒れた駕籠の、さっきまで見ることができなかった辺りを、多少遠目にではあれ確かめられるところまで動くことができた。
行之助は、一度そのまま顔を落とすと、泥まみれの雪に頬をこすりつけるようにして、深く息を吐いた。
熱い息が出て、喉の奥が乾いていた。手を握り締めて、爪を自分の手のひらに食い込ませる。
そうして一呼吸を置いてから、視線を駕籠に向けて、そこで目に入ったものに行之助は絶句した。噛み締めた歯の奥、乾ききった口の中で、無理に唾を飲み込もうとして、喉にはひきつれるような痛みが走る。けれど、視線を向けた先から逸らすことはなかった。
駕籠の戸は、開け放たれていた。
横倒しになっている駕籠に、体半分を押しつぶされるようにして、地面に投げ出されている姿があった。
見覚えのある着物だ。
今日、行之助は屋敷を出るときに、伏せた視線の先からそっと盗み見た。
自分と同じように頭を垂れる者たちの向こう、駕籠に乗ろうとする藩主直弼公の姿を。
その時に見たのと同じ着物。
仕える主君と同じ着物をまとった体が、雪の中に投げ出されている。
下半身には駕籠がのしかかっているのだろう、不格好にはみ出した上半身が身につけている上等な着物、その上に、
あるべきはずの首がない。
行之助の喉が、奇妙な音を立てた。
唾を飲もうとしたが、飲み込むことができずに、ぐっと喉の奥からせり上がってくるものを感じた。
込み上げるものを抑えようとして咽る。咽て、咳をすることでさえ、体全てに痛みが走る。鼻の中につんと、胃からせり上がった水が入ってきて、息がつらい、鼻をすすることもできない。吐き出すように開いた口から、涎が零れていく。実に情けない醜態だが、恥じる余裕もない。
あれは違う、と行之助は首を振った。
それが、ごまかしであることを本当は知っていた。
駕籠の中からはみ出た体が着ているのは、間違うことなく、直弼公が着ていたものだ。
けれど、打ち消すように行之助は首を振る、誰から尋ねられているわけでもない、自分の思考に、自分で答えて、違う、違うと首を振っている。
違うというのなら、ではあれは誰だ。
いや、あれは何だろうか。
人ではない。人とは思えない。
人とは。
人とは胴の上に頭があるものだ。
物のようにごろりとただ転がっているあれは、何だろうか。
震える体を叱咤して、もう少し、と駕籠に近づいていく。行之助が角度を変え、回り込むようにして駕籠へ向かうのに合わせて、彼に見える景色もまた、ゆっくりと角度を変え、行之助の目に飛び込んでいく。
刃によって断ち落とされたのであろう、肉と骨とが剥き出しになって、薄桃色の濃淡が奇妙な絵図でも描いているかのような、色鮮やかな切り口が、やけにはっきりと目の前に迫ってくるように感じて、行之助はそれ以上近づくのをやめた。
そんな音はしていないはずなのに、血の滴り落ちるような水音が、ぴしゃん、と行之助の耳の中で大きな音を立てて跳ねた。
転がった駕籠、そこから投げ出された首のない体を中心に、あたり一面が他のどこよりも赤く染まっている。まるで、大きな血の川が流れていたかのように。
ああ、と行之助は声にもならないようなかすかな音を唇から漏らした。
これ以上近づかないでよかった。
そう浮かんだ言葉を、打ち消すような声は、もうどこからも聞こえては来なかった。
駕籠の影で、直弼公の体に縋るようにして折り重なっている男の姿があった。
顔は伏せられていて、誰なのかはわからない。身につけている装束からすれば、行之助よりは上役の者だろうか。動く気配のないところを見ると、もう既にこと切れているのだろう。
庇おうとしたのか。それとも首を失った主を思って、そのうち捨てられた体を人の目から隠そうとしたのか。どちらかはわからない。
行之助は、眺めながら、たいしたものだと、感心するようなことをぼんやりと思った。どちらにしても、自分には到底できるとは思えない。
結局は自分も息絶えるほどの手傷を受けていながら、胴体だけになった主の体に、あの人間はああも縋ることができたのだ。
自分であったらどうだっただろうか。触れることができただろうか。あの、生々しい色を見せる肉の塊に。
行之助は、脈絡もなく微笑みを浮かべていた。
何に対しての笑みなのか、彼自身にもわかってはいない。
ただ、声が出るものなら声を出して、大きな声で笑いだしたいような気もしていた。しかし、実際には声など少しも上がらずに、頬がほんの少し震えただけだった。微笑みも、ひきつれて歪んでいて、およそ笑顔と呼ぶにはあまりにも醜く、かといって彼にそれを指摘する者も今は誰一人いない。
倒れたままの行之助の顔の上を、つう、と目頭から鼻の付け根をまたいで、水のようなものが地面に向かって滑り落ちた。行之助は、触れて溶けた雪が露になったのだろうと思った。そうして、後から後から溢れるように続いていくその雫が、自分の目から溢れていく涙だと気が付いた時、にわかには信じがたい心地がした。
自分は何に対して涙など流しているのだろうか。
人前で、泣いたことなど子どものころ以来ついぞなかった。
行之助は、自分自身の心の在り様が、急にわからなくなった気がして、そのわからないという事実が恐ろしいと思った。
恐ろしい、と思ったとき、ぶるりと体が震えようとしたようなのだが、大きく体を震わせるだけの力はなかった。ただぴくぴくと、雪の上で肩の辺りがかすかに揺れた。
動けなくなったこの体は、このままどうなるのだろうか、と急に不安な気持ちになる。
ざく、ざく、と雪を踏んで進む音が、どこか遠くで聞こえている。
倒れ伏した地面越しに、何かが近づいてくるらしい気配が伝わってきていた。地面が揺れている。何が近づいているのか、と思う暇もなく、行之助は誰かに足を強く乱暴に掴まれ、その勢いのままに思い切り持ち上げられた。
掴まれた足よりも、腹から上へと激痛が走り、叫び声をあげたと思ったが、彼の口から出たのは、言葉としての意味を持たない、か細いうめき声だけだった。
驚いている間に、ずるずると、雪と血の混じり合う土の上を引きずられる。開いた口の中に、土と雪が入り込んでくるのを防ぐこともできないで、吐き出そうと動かした舌の裏が引きつって余計に苦しい。
どさり、という音と共に放り出された。放り出された体に衝撃が走る。ぐっと息が詰まった。一体何をされたのかもわからず、行之助は口を開ける。
口の中にじゃりじゃりとした苦みがある。吐き出したいのに、吐き出すことができずに、口に入った土や砂が、水分のない乾いた舌に絡みついている。喉が焼けるように乾いていた。水が飲みたい。けれど、水を飲むことなどできそうになかった。
目の前の、土の中で辛うじて白く残っている雪が目に留まる。
せめてこれで構わないからと思いついて、雪を舐めとろうと舌を伸ばすが、雪が口に入ることはない。開いた口から息を吐くたびに、かっ、かっ、と乾ききった音がする。息が苦しい。舌も千切れそうだ。どくどくと、心臓がもう一つ腹の下にできたように脈を打っている。
その振動の熱さとは裏腹に、手足はどんどん温度を失っているようだった。首の後ろが冷たい。カクカクと痙攣を始めた体の震えは寒さによるものなのか、今度は震えのおさまらなくなった体で、つらいとも、苦しいとも、言葉は頭に浮かんで、そのどれにも、今の自分をうまく当てはめることができずに、脳裏に浮かんだ言葉は端から靄がかるように消えていく。
ざく、ざくという雪を踏む音が行之助のすぐ間近で聞こえた。目の前に影が落ちたような気がして、ふっと視線を上げると、中心に駕籠を担いだ、身支度を整えた男たちの行列が目の前を横切っていた。
しずしずと、恭しく、脇目を振ることなくただまっすぐに、行列がゆっくりと行き過ぎる。
行之助は、夢か、幻を見ているような心地がした。
白い雪の中で、黒い影のようにぼんやりと浮かんで見える行列は、自分たちの姿のようだった。
あの駕籠に乗っているのは、殿で、本当の自分は行列の中にいる。
自分たちの駕籠行列は、まさに今雪の上を、列を成して歩いているのだ。そうなれば、夢か幻なのは、ここでこうして倒れて行列を眺めている自分のほうだろうか。
つい先ほどまで、そこここに散らばっていた傷つき倒れた男たちは皆、全て道の端に退かされているようだった。
未だ血の染みが残る道を、何事もないかのように踏みしだきながら、傷を負って倒れている者に目をくれることもなく、駕籠を戴いた行列は粛々と進んでいく。
通り過ぎる行列の一番後ろにいた、笠をかぶった男が一人、こっそりと振り返った。
振り返った顔は、まだ若く少年のような面差しをしていた。
溌剌とした体を持った若い武士だ。雪の寒さに、露わになった頬が薄く桃色に上気している。吐き出す息の白さが、若者の周りにまとわりついてから、ふっと空気に溶けて見えなくなっていく。
若者の、怖れと好奇が入り混じって見開いた目と、倒れ伏した行之助の虚ろな目と、互いの視線が合わさった。
行之助は、自分を振り返った若者をぼうっと眺めた。顔が似ているわけでもないのに、なぜか自分を見ているような気がした。
若者を見つめながら、行之助は痙攣を繰り返して、体を跳ね上げた。
やがて体を跳ね上げる動きも、ゆっくりとした間隔になっていく。
びくん、と最後に大きく跳ね、彼の体はじっと動かなくなった。
自分の体が、自分自身の意思とは関わりなく動き、そして動かなくなることを、行之助は不思議なように思ったが、その疑問も緩やかに遠のいていく。全てが雪の中に埋もれて、見えなくなっていく。
立ちすくんでいた若者は、行之助を見つめていた顔に一瞬はっきりとした嫌悪の色を浮かべて眉を寄せると、首を振って目を逸らした。
そうして少し離れてしまった行列へと、駆けるようにして戻っていく。不吉なものから顔を背けるように、向けられた背中は、行列と共に遠ざかっていく。
遠のいていく行列の背が、見送る視界が、全て白くなっていくのは、雪が舞うせいだろうか。
行列が通り過ぎた銀世界は、眩しい光を放っている。
倒れた男たちにためらいもなく降り続けていた雪は、いつの間にかぴたりと止んでいた。
雪が止み、動くもののなくなった中で、行之助はゆっくりと首を傾けて空を仰ぐと、ほう、と大きく息を吐く。
行之助の仰いだ先、灰色の空の向こう側には、未だ雪雲に覆われてはいるものの、確かにそこにあるのだろう陽の光が、ぼんやりと丸く、浮かび上がって見えていた。