『本心』平野啓一郎
「もう十分なのよ。‥‥‥もう十分。」
母はこう言って自由死を望んだ。「もう十分」とは‥‥‥?
ストーリー
舞台は2040年。自由死が合法化された近未来の日本。
自由死‥‥‥。映画『PLAN75』を思い出してしまう。
裕福ではないながらも、母と息子で仲良く慎ましやかに生活をしてきた。誰が見たって仲の良い親子であり、母親思いの息子だと評判だった。母は健康だったし、まだ七十前だった。
しかし母は「自由死」を望んだ。それを望む母の本心は分からないままだ。
結局母は自由死をすることなく、不慮の事故で命を落としてしまうのだが。
生前自由死を望んだ母の本心を知りたい息子は、三百万円で母のVF(ヴァーチャル・フィギア)を作成することを決める。VFは、生前の様々な資料を提供して作成する。資料が子細なほど精度が上がる。写真、動画、遺伝子情報、生活環境、ライフログ、、、
そして息子は高度なAI技術で本物そっくりに生き返った(ような)母と対面する。ヘッドセットをつけて。
VFの母を通じ、本心を探っていくうちに出会った人たち。母と親しかった友人、母と関係があったという老作家。彼らによって、自分が知らなかった母に出会うこととなる。
ヴァーチャル・フィギアの役割
VFの母は、提供した資料によって作成されているため、自由死を望んだ理由はインプットされていない。母とはただ、他愛もない話をするだけだ。一日の出来事を語る、過去の記憶を確認し合う。でも、そんな他愛もないことができる環境にいるというのはとても幸せなことなんだなと思う。
高度なAIによって本物のようなVFができる。しかも学習能力が高いから、会話や話題も豊富だ。もはや、心がないただの機械だとはいえない。
VFに依存してしまうのは危険だろうか。危険なのかもしれないけれど、こういうのが作れるなら私も欲しいな。理想の恋人が作れそう。いいな。でもVF廃民になりそう。私だけじゃなく、リアルに適応できなくなる人多発しそう。
でも、リアルの人間関係が構築されていくと、おのずとVFの母と話す時間も減ってきている。やっぱり現実には勝てないんだろうな。
でももし、温もりとか匂いとかがあるVFができたら‥‥‥。
リアルアバターという仕事
二十九歳になった朔也は「リアルアバター」の仕事をしている。それは「体を丸ごと貸す」という仕事だ。つまり、リアルアバターとなる人間がカメラ付きのゴーグルを装着し、そこで見る映像を依頼主に見てもらう。依頼主は自身の体のように、リアルアバターの身体を通じて見て、耳で聞き、歩く。何かのリサーチ、旅行代理、時間がないなどの理由で「行ってきたことにしたい」人、あるいは行きたいが病気でいけない人、など、依頼は様々な形に及ぶ。
需要ありそう。でも、世の中が嘘だらけになりそう。どこからがリアルだろう…などと思ってしまう。
孤独の中の奇跡
この作品には、多彩な社会問題が詰まっている。格差社会、移民問題、遺伝子提供、他にも色々。
私が一番感じたのは「孤独」だった。環境、年齢や性別を問わずそれぞれの孤独の形がある。それを癒してくれるのがVFでありVRだと言えるかもしれないが、、、
しかし結局、リアルには勝てないようだ。そんなことは分かってるけれど、ヴァーチャルの世界もリアルに手が届くところまで進化している気もする。
それでも奇跡は起こる。
人間の強い感情が奇跡を生むのかもしれない。でもそれ長くは続かない。奇跡は一瞬だ。だからよけい淋しく感じてしまった。泣いた。
確かなのは、部屋にいるのは、一人だけ。
愛する人の他者性
作中、こんな言葉が出て来る。
「愛する人の他者性」こそがこの作品の一番のテーマなのかもしれない。
愛する人だって結局は他者になるし、よく考えてみると、家族だって自分じゃないんだから他者だと言っていい気がする。自分以外の人間は全て他者だ。
「本心」は自分にしか分からない。いや、自分にさえ分からないこともあるんだから他人になんて分かるはずがない。
私だって息子に言えないことがいくらでもある。たぶんこれからも出て来る。
どんなに愛している人にでも、触れてほしくない部分はあるものだろうし、そういうのに無理やり触れようとするのはいじめなのかも…とも思った。
でも、、、触れてほしい部分もあったりする。