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小説:コトリの薬草珈琲店 6-1
6章 もうひとりの母親
笠原凛は、幼い頃から自分の名前に囚われてきていた。「凛とした美しい女性」という意味で両親からつけられたその名前を、凛自身も気に入っていた。そして、何かをして大人たちに褒められるたびに、それが「凛とすること」なんだと理解した。ただそれはいつしか、頑張って他者からよく見られることへの渇望へと形を変えていった。
もちろん、勉強ができることも、他者を思いやって善い行いを施すことも悪いことではない。さらにそれを誰かに認めてもらえるならば、やりがいもあるというものだ。しかし、どんな人間にも持って生まれた才能や、一日に使えるエネルギーに上限はある。
なんとなく頑張っていたら目立った存在でいられた小学校時代とは異なり、中学校ではなすべきことも多く、自分が不得意なことが浮き彫りになってきてしまう。凛はバスケットボール部に入っていたのだがそのスポーツとの相性が良かったわけでもなかったようで、中一から中二へと進むにつれ、レギュラーから補欠へと転落・・・してしまった。
凛には憧れの先輩がいた。男子バスケットボールの先輩だ。補欠の宣言を受けた際、その先輩からも引き離されてしまったように思え、ダブルのショックを受けていた。部活が終わり、ひとり教室に戻る夕刻。「凛としなくては」と思い、頑張って笑顔を取り繕って廊下を歩いていくが、誰もいない教室に着き、自分の席に座ったとたんに感情が溢れてしまった。
自分の席に座り、顔を腕に埋めて涙を流していると、不意に横から誰かから声をかけられた。凛はビクっとする。
「凛ちゃん、大丈夫?」
涙目でその声の主を見上げると、いつも静かで、いや、静かすぎて存在感の薄い同級生が心配そうに自分の様子を伺っているのが見えた。中学時代の今里琴音だった。教室に偶然、琴音が残っていた訳だ。今日も琴音があまりに静かに過ごしていたため、凛はその存在に気付かなかったのだろう。
「ふぅぅ・・・。今里さん、教室にいたんや。ごめん、私、ちょっと泣いてて。カッコ悪いやんな」
「ぜんぜんカッコ悪くないよ。泣いたらすっきりするって、この子も言ってるよ」
琴音はそう言うと、凛に手のひら大の丸い葉っぱを渡した。丸みを帯びたそのかわいい葉っぱを見ると、凛自身もその葉っぱが応援してくれているような気になった。そして、ひとしきり、泣いた。
少し時間がたって凛は気を取り直し、家に帰ろうと準備をはじめた。が、教室を見渡すと、まだ琴音も残っていた。
「今里さん、まだ帰らへんの?・・・もしかして、私のこと、待っててくれたん?」
「うん、一緒に帰る?」
「そやなあ。・・・うん。今日はとにかく、帰ろう」
坂の上にある中学校。そこから、二人は肩を並べて下ってくる。
「今里さんと二人で話すの、もしかしたら今日が初めて?」
「かも。私、そもそも、あまり誰とも話さないから。」琴音はそのことを特に恥じたり憂いたりせず、笑顔でそのように答えた。人の目が気になる凛からすると、その笑顔に少し驚きを感じた。
「ふうん。みんな、今里さんのことをコトリって呼んでるけど、あれ、なんでなん?」
「私、下の名前が琴音って言うんだけど、それでコトリってことになったっぽい」
「“ことね”って言うんだ。どんな漢字を書くの?」
「お琴の琴(こと)に、音の音(ね)」
「なんか可愛い。いい名前やん」
「ありがと。でも、奈良って古い都・・・古都(こと)って言うでしょ?どうやら古い都と音楽の琴をかけてるらしい・・・」
「シャレってこと?ははは。でも、古い都のほうも、何かロマンがあっていいやん」
「ありがと。そう言ってくれた人、あんまりない」
「じゃあ、私もコトリちゃんって呼んでいい?」
「うん、いいよ。凛ちゃんは凛ちゃんでいい?」
「いいよ!」
凛は、この静かで不思議な感じのする同級生と友達になれて嬉しく感じた。いつも周囲にいる友達とは違って、誰とも群れず、かといって寂しくみじめな感じがする訳ではない同級生。そう、琴音は自分とは違ったタイプの「凛とした」女の子だと直感的に思ったのだ。そして、もっと、この子のことを知りたいと思ったのだろう。
「コトリ・・・ちゃん、そういえばさっき、葉っぱを渡してくれた時、『この子も言ってる』とか言わへんかった?あれってどういうこと」
「うん・・・えっと・・・。そうそう、私の言葉を葉っぱさんに言わせてただけ笑」
「ははは。そうなんや。でも、お陰で元気になったし、ありがとう。」凛は大きな声で笑った。そのお陰か、悩んでいることが馬鹿々々しく思えてきて、心のダメージは大きく回復した。
「うん。良かった」
「なんか・・・コトリちゃんって、癒しのオーラを発してるんやけどなぁ」
「癒し?」
「うん。うまく言えないんやけど、こうやって話をしてたら癒されるっていうか」
「ふうん、自分では分かんないけど、そうなんだ。」実際は、琴音がいつも植物とばかり話をしているために言葉遣いが優しくなっていっただけなのだが、それを凛は癒しと感じたのだろう。
「ねぇ、コトリちゃん、今度、コトリちゃんの家に遊びに行ってもいい?」凛の口から自然と発せられたその言葉に、琴音は「うん、いいよ。」と笑顔で返す。それが、琴音と凛とが仲良くなるきっかけとなった。
・・・
休日。凛は琴音に書いてもらった地図を頼りにお目当ての家に向かう。ここだ、大きな椿のある白壁の一軒家。チャイムを鳴らすと玄関の扉が元気よく開いた。40歳前後の女性が出迎えてくれている。
「あ、いらっしゃ~い!」
「お邪魔します」
「さぁ、入って入って」
琴音のお母さんの暁子(あきこ)さんだ。
「凛ちゃん、紫蘇のジュースとか飲んだことある?」暁子さんが聞いてくる。
「いや、ないですけど、飲んでみたいです」
「お、じゃあ試してみる~?」
透明な赤色の液体を、暁子さんがペットボトルから注いでくれる。凛は一口飲んで、甘酸っぱいそのアロマに感動した。
「美味しい~」
「でしょ~笑。琴音が庭の赤紫蘇を旬なタイミングで持ってきてくれるから、私はそれをジュースにするだけ。」ふふふ、と暁子さんが笑う。「・・・でも、琴音が友達を連れてきたのってホント久しぶりだよね~」
「あの、琴音ちゃんのお母さんって標準語なんですか?琴音ちゃんの話し方も関西弁じゃないっていつも思ってて」
「うん、私、元々は東京の人だったんだけど、結婚してこっちに来たんです。パパのほうは奈良人だったんだけど、琴音が小さいときに亡くなってしまってね」
「そうだったんですか。大変じゃないですか?」
「そうだね~、でも、私は保険の外交員をやっていて。保険って分かる?」
「分からないです」
「例えば、家族でお金を稼いでいた人が亡くなってしまったとするでしょう?そうすると、残された家族ってお金で困ることになるよね?そんな時に、お金で困らないようにするのが保険。それをそれぞれのご家庭にピッタリな形で紹介するのが外交員の仕事。色々と言われることもあるけれど、私は人助けの仕事だと思って自信をもってやってる。そんな感じでバリバリ働いているから、お金の面だけで言うと大変ではないかもです」
「人助け。カッコいいですね」
「あれ、凛ちゃんに褒められちゃいました。」ははは、と暁子さんは笑う。琴音に比べてよく笑う女性だ、と凛は思った。チラリと琴音のほうに目をやると、琴音も赤紫蘇ジュースを飲みながら会話を楽しそうに聞いている。
しばらく会話を続けてから、凛は琴音の部屋を見せてもらった。明るい南東の角部屋。南の庭にも通じている。窓際にはいくつかの鉢が並んでいて、色々な種類の植物がそこに植わっている。ひと通りそれらの植物のことを凛に紹介してから、琴音は「水を汲んでくるね。」と空のジョウロを持ち上げて部屋から出ていった。
気づくと、暁子さんが横に立っている。
「琴音はちょっと妖精みたいなところがあるけど、私の大事な大事な宝物なんだ。よかったら、これからも仲良くしてあげてね」
「はい。でも、妖精なんですか?」
「植物とか花が大好きな不思議な生き物といったら、妖精でしょ笑」
「不思議な生き物って笑。でも確かに、学校でも机の上に植物の葉っぱを置いていたり、教室の鉢植えの植物をよく手入れしていたりはしています。・・・あ、そんな感じだから、私たちは琴音ちゃんのことをコトリって呼んでます。植物が好きなコトリって感じで」
「琴音(ことね)を少し変形させて」
「はい。変形させて」
ふふふと、暁子さんが笑う。そこに、水のいっぱい入ったジョウロを持った琴音が戻ってきた。
「さっきから妖精とかコトリとか聞こえてきたんだけど、何か私の悪口言ってませんか?」
「言ってません~」「言ってません~」暁子と凛が同じタイミングで同じ言葉をハモらせたので、三人は顔を見合わせて笑ってしまった。
暁子さんはとてもカッコいい。仕事もこなしていて、明るくて包容力があって、優しい。すごく「凛としている女性」だと凛は感じた。でも、自分とは違って、無理をしない自然体だ。・・・そんなことを考えていると、暁子さんがこんなことを言ってきた。
「君たちふたりは陰と陽だな」
「陰と陽?」凛が聞き返す。
「うん。琴音が陰で、凛ちゃんが陽。陽は太陽のような存在。周りを照らして、人を幸せにする存在。でも、時々熱くなりすぎるから冷却が必要。陰は水のような存在・・・一般的には月のイメージで語られることが多いけど。静かではあるけれど、その水は周囲を癒してくれる。二人は互いに陰と陽の補い合う関係なのかもね」
「私が陽ですか?」
「うん。今は少しだけ落ち込んでいるみたいだけど笑、他の人を照らす明るさのようなものを感じるかなぁ。もしかして・・・失恋とか?」そう言いながら、チラリと悪戯な笑みを見せる。
凛は一瞬ドキリとしたが、「いえ、そんなんでは・・・」とうそぶいた。琴音は話についていけないようで「?」という表情だ。
暁子さんは微笑みながら、話を続ける。「ごめん・・・変なこと聞いちゃったね。仕事柄、たくさんの人を見ていると分かるようになるんです。色々な人の性格が。・・・あ、でもごめん。私の言葉に囚われないでね。凛ちゃんも、周囲の人を明るくしなきゃとか、そんなことは考えなくていいからね。二人とも、自分の幸せのことだけを考えたらいい。まぁ私が言いたかったのは、二人は相性がピッタリだってこと笑」
「・・・かもね笑」「分かるかも笑」凛と琴音は顔を見合わせて笑ってしまった。
琴音の家からの帰り道、凛は自分の価値観が少し変化したことに気づいた。自分の根底にある「凛とすること」を忘れることはできない。でも、何が凛としていることなのかは、もっと自由に考えていい。自然体で凛とできるなら、なおのこといい。成長した感触を喜びながら、凛は自分の家へと向かった。
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