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小説:コトリの薬草珈琲店 5-2
薬草好きで、かつ、奈良の歴史に興味ある人が集まった時に、よく話題に挙がるテーマがある。そのテーマとは、「施薬院」のことだ。かつての寺は、現代の大学に近い存在であった。医療や建築など、人々の生活の質を高めるための学問が集積している場所であった。その寺に併設されている医療施設が「施薬院」という訳だ。奈良時代においては、内薬司が皇室の医を、典薬寮が高級官僚の医を司っていたのに対して、施薬院は民衆の病気の対処を行っていた。
施薬院が魅力的に映るのは、かつての人々がどんな生活をしていて、どんな身体の不調を感じて、どんな治療を受けていたのか。そこで薬草類はどう使われていたのか。そんな風に想像力を掻き立てられるからだろう。
その例にもれず、この日曜日の夕方に、(客が2人だけだからなのだが)静かに開店しているときじく薬草珈琲店においても、話題がそちらの方向へと向いていった。
「・・・ですよね。みなさん、施薬院のこと知りたいですよね笑」と、やや福田君の歯切れが悪い。「でも、実際は、あまりたくさんのことは分かっていないらしいんですよ・・・関係する本を読みこんできたらもうちょっとはお話できたかもしれませんが」
「でも確か、光明皇后が作ったと聞くんですけど」
「ええ。本当の一番はじめは、聖徳太子が四天王寺・・・大阪の四天王寺に施薬院を建てたのが最初とも言われているんですけど、奈良時代に光明皇后によって民衆向けに開かれたのは確実なようなんです」
「確実・・・」
「はい。続日本紀に書かれている、らしいんです」
「なるほど」
「もともとは藤原家のための医療施設だったようなんですけど、730年あたりに皇后宮職(こうごうぐうしき)が設置されると同時に民衆向けに開かれたと言われています。皇后宮職というのは、天皇の代理人である皇后が政を行うための執行機関ですね。ただ、それが今の法華寺のあたりのことなのか、長屋王の邸宅があった場所のことなのか、ちょっと勉強不足で分からないです・・・。さらに、そこでどのような治療が行われていたのか、とか、薬草をどう入手していたのかなどは、木簡の記録くらいしか残っていないんじゃないかなぁ」
「そうなんだ・・・」
「でも、そんな施薬院の文化や知識は平安時代にも受け継がれていって、日本の医学の基礎となっていったんですよねぇ。・・・でも、光明皇后の活躍した奈良時代は激動の時代でしたよね」
「うんうん。」そう琴音は相槌を打ちながら、福田君の次の言葉を促す。
「平城京の外では干ばつによって飢え死にする人が続出するわ、大地震が起こるわ、天然痘が蔓延して人口の何割かが失われるわで。そのようなイベントと並行して光明皇后が施薬院や悲田院を建てて民衆の救済を始めたり、興福寺の五重塔を建てたり、新薬師寺を建てたり、聖武天皇と一緒に鑑真和上を迎えて唐招提寺を建てたり。そして、聖武天皇も大仏を建てたりと。聖武天皇と光明皇后は大変な世の中を仏教で何とかしたかったんでしょうね」
「なんか、中学か高校の歴史の授業を思い出した笑」
「かもしれませんね笑。でも、奈良に住んでいるとそれらが全部身近にあるので、たとえ教科書的なお話でも、結構、リアリティを感じられるんですよね」
「それは何か分かる笑」
コーヒーの残りを飲んで少し一息ついてから、福田君が話を続け始めた。川原君もスマホから顔を上げて、話を聞く体制になる。
「店長さんの薬草珈琲に触発されて、個人的に、奈良の薬草文化の流れを整理してみたんですよ」
「へぇ~、すごい。聞きたい」
「はい。ひとつは奈良南部の山岳信仰、役行者たちから生まれたものです」
「役小角(えんのおずぬ)の陀羅尼助ですよね」
「さすがにご存じですね笑。役小角は西暦650年から700年あたりに生きたとされています。それで600年代の最後のほうに奈良西部の當麻寺(たいまでら)で陀羅尼助を伝えているんです」
「そうなんだ、知らなかった。當麻寺って言ったら、近くにヨモギ餅の美味しい店があるお寺ですよね?」
「お~、中将餅。美味しいっすよね笑。」川原君も参加してくる。
「すごく柔らかいし、ヨモギの香りもはっきりしていて美味しいですよねぇ。」琴音が少し、うっとりしたような顔を見せる。
「みなさん、食べ物の方面にはお詳しいようで笑。・・・中将という名前がちょうど出てきましたけど、その當麻寺で薬草を学んだ人間のひとりに、中将姫という方がいます。だいたい、役小角の100年後、奈良時代の方ですね」
「中将姫・・詳しくは知らないけど、名前だけ聞いたことある」
「はい。元は貴族の出身の女性ですが、當麻寺で修業されていたんですけど、中将姫が宇陀に行った際に身体の不調を訴えた女性がいて、その女性に薬草の処方を伝えたと言われています。それが代々伝わって・・・、1,000年以上の時を経て、明治時代に漢方薬として東京で発売されたんですよ。株式会社ツムラの「中将湯」という漢方薬です」
「千年って!ヤバいな。」川原君が驚きの声をあげる。
「漢方薬のほうは知ってたけど、奈良とそんなつながりがあったなんて知らなかった。」琴音も驚きを隠せない。
「でしょ笑。でもね、また、時代を遡ります」
「おぉ」「おぉ」
「役小角よりも時代が古い西暦600年過ぎに、推古天皇が宇陀で薬狩りをしてるんです」
「そっちも有名ですよね」
「はい。毎年、5月5日に薬狩りをしていたようで。宇陀は良い狩場でもあり、良い薬草の採取場所でもあったようです。男は狩り、女は薬草狩りって感じで。そんな風に薬草にゆかりのある宇陀に中将姫が立ち寄って・・」
「さっきの話につながる・・・と」
「はい。そんな宇陀の町ですが、時代が大きく流れて、江戸時代、薬問屋が立ち並んでいたと言われています。今もその名残がありますけどね」
「宇陀松山の歴史地区ですよね」
「はい。徳川吉宗の時代に、薬草を輸入に頼らず国内で生産しようという動きがあって、全国の薬草の分布が調査されていたんです」
「採薬師、植村政勝のお話ですよね」
「おお!店長さん、さすが詳しいですね!」
「私の知り合いに、植村政勝に会ったことのある子がいるんです笑」
「へ?いったい何百歳なんですか、その人。ははは、店長さん、面白い」
「古い巨木なんですけどね笑」
「あぁ、なんだ、木ですか。でも・・・へぇ~、植村政勝にゆかりのある木なんですね。人かと思って、びっくりしましたよ笑」
“その子はスキンシップが好きな巨木なんだけどね”と言ってしまうとさすがに引かれると思って、琴音は言うのをやめた。
「でしたらご存じだと思いますが、植村政勝が奈良巡りをする際にお供をした森野藤助が、今も残る森野旧薬園の創設者ということですよね」
「ですね」
「そんな宇陀をゆかりとする、日本を代表する製薬会社が何社もあるんです。武田薬品、ロート製薬、ツムラ、アステラス製薬など。実は宇陀って辰砂(しんしゃ)と言って・・・」
「ごめん、ちょっとついていけなくなった・・・」川原君が後輩の際限のないおしゃべりを止める。どうやら川原君の脳が息切れしているようだった。
「あ、すみません。・・・ですよね笑」
「福田さん、要するに、推古天皇や役小角が薬草に注目して、それが宇陀の場を中心に千年近く育まれて、現代の製薬会社にもつながっていったってことでいい?」琴音が整理する。
「ありがとうございます。簡単に言えば、そういうことです。でも実は、役小角や推古天皇よりもさらに前に薬草、というか東洋医学を日本にもたらした人がいて、500年代後半の知聡(ちそう)という人なんですけど・・・」
「福田さん、もうそろそろ休憩・・・」と、次は琴音が制止する。
「店長さん、すみません・・・。あ、先輩・・・」
すでに川原君は硬い笑顔のまま、石化してしまっていた。
分かりやすい話題にしなくてはと、琴音が宇陀のお店の話へと話題を移す。「でも、宇陀に薬草関連のお店、増えましたよね。薬膳カレー、薬草を使ったビール、薬草風呂や薬草茶を楽しめるお宿とか。あと、大和当帰を使った料理のお店も何件かあるし」
「・・・琴音さんもさすが、詳しいですね。そんなに色々とお店があること、知らなかった。」少し息を吹き返した川原君は琴音に尊敬の眼差しを向ける。「でも、薬膳カレーかぁ、行ってみたいなぁ。」カレー好きなのか、川原君の自然な心の声が漏れ出てきたようだった。
「うん、その店のマスターも知り合いなので、機会があったら行きましょう」
「おお。ぜひ、機会を“見つけて”行きましょう」
福田君は薬膳カレーの話で盛り上がる二人のやりとりを笑顔で見守っていた。新婚の彼はおそらく、そのお出かけには参加しないつもりなのだろう。
少し時間がたった今、男性二人はスマホを触ったりしながら思い思いの時間を過ごしている。琴音は食器を洗うなど、店の仕事を進めていた。でも、どうやら、今日のときじく薬草珈琲店には、もう客が来なさそうだ。・・・そんな雰囲気を感じた琴音の口から、ふと、アイデアが漏れる。「よかったら、散歩しません?」
「散歩。今からですか?・・・でも、楽しそうだな。」川原君が少し乗り気の表情を見せる。
「散歩ですか。」福田君は少し考えてから言葉を続けた。「さっき話題に出た、光明皇后の陵などはいかがです?聖武天皇陵と並んで建てられていて、今も二人は一緒にいらっしゃるんです」
「ここから近いん?」
「うん、近いです。」と、琴音がフォローする。実は、聖武天皇陵と光明皇后陵は琴音がかつて住んでいた家から近い場所にあった。
「川原先輩が車で来ているので、乗せていってくれたらすぐに着きますよ。」福田君がいたずらっぽい顔で川原君のほうを向いている。
「え、車?まぁいいけど。じゃあ、行きますか?・・・琴音さん、お店のほうは大丈夫ですか?」
「うん、たぶん今日はもう誰も来ないから、閉めちゃおうかと。」そう言うと、琴音は急いで閉店の準備を進めた。
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