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ケガレについて思ったこと 修二会の清浄性
ケガレという意識について、思ったこと。
レストランで食事中、外国のかたが近くにいらして、スプーンを落とした。
落としたわぁ、と思って見てたら、彼女はサッと拾ってそのままそれを使い始めたので、びっくりした。
外国の人はおおらかだなぁとか、3秒ルール以内だよね!と考えられる以外に、奈良 東大寺 二月堂で行われる修二会のことを思い出していた。
修二会は、奈良時代から一度も途切れることなく続いてる法会で、今年で1272回目を数えるというすごいもの。
練行衆というお坊様が、徹底的に身を清めた上で、国家の安泰や五穀の豊穣を祈ってくださる。
清らかな身でないといけないということで、行が始まる前から隔離生活をして、この世の濁りにふれないようにされ、使うお道具や暖をとる炭まで俗人のものとは分けられる。
行の場となる二月堂には結界が張られる。
清めた場所の清らかさを守るためで、道に注連縄を張っている場所のあるし、輪になった輪結界というのを張る場所もある。
![](https://assets.st-note.com/img/1693111084264-RRNjrXvezD.jpg?width=1200)
この輪結界はかなり沢山作られて、あちこちに架けるのだけど、その前に儀式がある。
輪結界を境内にある「遠敷明神」という神様がいらっしゃる場所から投げて、受け止められたものだけを使う、という習わしがあるのだ。
下に落ちたものは「チリ」と呼ばれ、使われない。
このくだりを拝見したとき
「修二会の清浄とはすごいのだな。ああやって、選別して、落ちたものは不具合がないはずなのに、捨てられるのか」と感心していた。
修二会だから特別なのだと思っていた。
でも、違うのだ。
この清浄性を尊ぶ気持ちは、おそらく日本人に根付いたなにか根源的とでもいうべき感情であって、特別なものではないのだ。
床に落ちたスプーンは、「ケガレ」てしまったからもう使わないのだ。
そこはゴミが付着したから、とかウィルスが・・・という合理的な精神からではない。気持ち悪いから使わないのだ。
これって、おおまかには「上」と「下」の境界だと思う。
スプーンも、テーブルの上でもスプーン置きとかお皿の上に置くけれど、テーブルの上ならOK。落ちたらダメ。
台拭きも、テーブルという上を拭くものとして扱い、それで床掃除はしない。
上と下には境界線が引かれている。
修二会に内包されている精神世界は、現代人の私たちにとって失われた、遠い世界だと思っていたけれど、案外そうでもないかもしれない。
私たちは、今でも修二会が成立した時代と、同じ気持ちで生きている。
巻頭イラストは猿萩レオンさんのものを拝借しました。ありがとうございました。
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