もっと石を見つめたい~足元の石~
日本は木の文化ばかりか?
日本は木の文化とよく言われます。
法隆寺を筆頭にお寺の名建築はだいたい木造ですし、お伊勢さんに代表されるお社は、木でできていて作り変えることを前提にしています。
四季のある日本。
お魚など鮮度が命の日本。
命がめくるめく循環することで永遠を感じる日本。
でも同時にちゃんと石の文化もあります。
奈良の飛鳥に行くと、大掛かりな古墳が沢山あります。
石舞台古墳のような巨石を積み上げたものから、高松塚古墳のようにきれいに整形されて彩色までされた古墳。
それらの加工技術は渡来人がもたらしたと言われます。
日本の技術の多くは海外からもたらされました。
新しいところでは明治のお雇い外国人だってそうだし、iPhoneも外からやってきたものです。
古代の日本で石物が作られた時、それは凝灰岩が多かったそうです。
石は硬いので、その加工が難しく、凝灰岩は比較的扱いやすかったのでしょう。
鎌倉時代くらいから、花崗岩を使った堅牢な石の作品が登場し始めます。
それは中国から渡ってきた人々の技術でした。
鎌倉時代初期に重源上人という方が活躍します。同時に新たな石材加工による作品が多く登場するのです。
重源さんが導入した石工職人たちの技です。
東大寺にある南大門に、巨大な仁王さんがいらっしゃって目を引くのですが、その後ろ側にししこまさんが座っています。
南大門の大きさからすると、あきらかに別の場所にいらしたであろうししこまさんは石でできています。
これこそ重源上人が招いた中国の石工団のひとり「伊氏」の作品だと言われています。
なめらかで直線的なフォルムを持つししこまさんは、ほかのししこまさんとは違う存在感を放っています。
当時、日本人には扱えなかった花崗岩。ここから新しい「石」時代が始まります。
重源さんが築いた「シン」石の時代
東大寺からほど近い場所に春日大社というお社があります。
ここに『中臣祐定記』という書物が伝わっており、寛喜四年閏九月十三日の項に「若宮御前水垣四面壇南北ヲ唐人之作石ニ天」とあるそうで、春日大社の若宮さんの社殿の瑞垣を、唐人~中国からやってきた~職人が手入れしたとあるのです。
寛喜四年というと、1232年のこと。
重源上人が大仏殿復興のために奔走し、その手伝いをした石工たちが根をおろし始めた頃でしょうか。
この若宮さんの御社殿の仕事は、伊氏たち石工の誰かの仕事の可能性があるのです。
お社の土台に関わるあたりなど手掛けても、特に銘文を入れたりなどなかったでしょうから、彼らの仕事の全貌はよくわかりません。
見えない、わかりにくい所で、彼らの活躍が見えるのです。
でも、よくよくみれば他とは違う、堅牢で丁寧な仕事が見えるのです。
春日大社のご本殿を囲む回廊の土台も、よく見ればきれいな石でもって作られていて、その上部には化粧が施されています。
人が乗っている横長の石の下に縦長の石が設置されていますが、その間に細い段というか線が入っています。
これ別にいらないですし、普段まったく気づきません。
でもこんな風にちょっと刻みをいれて丁寧に仕上げているのです。
職人さんのこだわりが見えます。
古事記に出てくる物語で、コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの姉妹の物語があります。
美しいコノハナサクヤヒメは、天照大神の子孫であるニニギノミコトから求婚されます。
父親は、姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせるのですが、イワナガヒメだけ返されてしまいました。
実はイワナガヒメは不死の象徴であり、彼女を拒んだために天皇は不死でなくなったという物語です。
目先の華やかさに囚われて、大切なものを得られなかったお話ですが、わたしたちの身近なものも、つい目を引くことがらだけに囚われて、大事な土台を見落としているかもしれません。