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よしながふみ『愛すべき娘たち』を読んで
衝撃を受けました。よしながふみという作家に出会うまでに27年もかかってしまったことを少し後悔するほどに、『愛すべき娘たち』という作品は私の心を鷲掴みにしてしまったのです。
このnoteでは、作中の印象に残ったセリフを一部引用しながら、自分自身も誰かの愛すべき娘である私の経験や考えをまとめてみたいと思います。
あらすじ
「女」という不思議な存在のさまざまな愛のカタチを、静かに深く鮮やかに描いた珠玉の連作集。オトコには解らない、故に愛しい女達の人間模様5篇。
あらすじには”オトコには解らない”とありますが、きっと誰が読んでも「愛」というものについて何かしらの気付きを得ることができる珠玉の一冊だと私は思いました。
「親だって人間だもの」
「親だって人間だもの」は、第1話の主人公・雪子の母・麻里のセリフです。
仕事で疲れてイライラしている麻里は、部屋を散らかしっぱなしの雪子の背中を蹴飛ばしながら小言を言います。
雪子は驚いた顔をして「なんで蹴るのよ…!? こういうのって八ツ当たりだとあたし思うの!!」と言い返します。
すると麻里は「え? そうよ八ツ当たりよ それのどこがいけないの?」と平然と言い放ち、以下のように続けます。
親だって人間だもの
機嫌の悪い時くらいあるわよ!
あんたの周囲が全て
あんたに対して
フェアでいてくれると思ったら
大間違いです!
『愛すべき娘たち』第1話 p.11
これは目からウロコの発言でした。
こんなことを母から言われたら驚くだろうけれど、きっと子が自立していくうえでも、親自身が子離れするためにも重要なことなのだと気付かされました。
私は、自分が出産して子育てを経験するまで、母も一人の人間であるということにいまいち気付けていなかったのです。
「お母さんはお母さんという生き物だ」と捉えてしまっている節がありました。
私の母は完璧な人で、子供の前では決して弱音を吐かず、いつも家はピカピカ、外食は少なくいつも美味しい自炊の料理が出てきて、きれいに畳まれた洗濯物も温かいお風呂も、すべてが当たり前のように毎日そこにあったのです。
きちんと早起きしてお化粧して、家族を送り出した後はパートにも出かけて、子供たちのピンチは必ず解決してくれる、最強の存在でした。
しかも若くて美人で、まさに自慢のお母さん。
完全無欠な存在だと認識していました。
母は子供たちに一切家事の手伝いもさせませんでした。
決して母のせいだと言いたいわけではありませんが、母が完璧だったがゆえに、子供たちは「お母さんだって一人の人間である」ということにピンと来ないまま大人になってしまったのかもしれません。
私は憧れの存在である母と自分を重ねるたびに落ち込みます。
母はもっと素晴らしいお母さんだった、それに比べて私はたった一人の息子を相手にするだけで音を上げて泣きべそをかいている……と。
そんな私に救いの手を差し伸べたのが、先ほど引用した麻里の言葉です。
「親だって人間だもの 機嫌の悪い時くらいあるわよ!」
そりゃそうだ! 拍子抜けしました。
お母さんだって人間だからね、
生理2日目は腹痛や眠気がひどくベッドで一日中ゴロゴロ過ごしてしまうこともある。
どうしてもやる気が起きなくて掃除機がけをさぼってしまう日だってある。
洗濯物を二日分ため込んでしまうことも、皿洗いを翌朝に持ち越してしまうことも、夕飯は出前を取ってしまおうかと家族に提案するようなことだってある。
私は子供の前で完璧なお母さんであろうとするのをやめよう、自然体でいよう。
あくまで一人の人間として、麻里のように自由にふるまえたらいいなと考えるようになりました。
(2歳半の我が息子ですら、とっくに私のことを「完璧なお母さんではない」と気が付いていると思うけれど)
麻里と雪子の母娘関係はお互いがしっかり一人の大人として独立していて、そのうえで親子として想い合っていて、私としては理想的な距離感だなと感じ、じんわり涙しながら第1話と最終話を読みました。
最終話のラストの雪子のセリフと、それを受けて麻里が最後に見せる表情には、泣かされます。
「恋をするって人を分け隔てるということじゃない」
第3話(前編)・(後編)では、才色兼備で気立ても良いものの祖父の介護をしているうちに結婚のタイミングを逃し、親類の紹介で何度かお見合いをすることになる莢子(さやこ)という女性が主人公です。
莢子は、祖父からの「誰にでも分け隔てなく接しなさい」という教えを守り、他人のために尽くせる心優しい女性です。
それゆえ、”特定の人だけを特別扱いできない”という気持ちを持っています。
また、”自分を特別扱いされるのがつらい”とさえ感じているように見えます。
彼女は誰と付き合っている時も
いつもどこか自分を責めているような
瞳をしていた
『愛すべき娘たち』第3話 p.110
相手から”特別”を受け取るのがしんどい。自分自身は誰にでも分け隔てなく愛情を注ぎたいと考えているから、相手から渡される”特別”に対して自分の”特別”を返してあげることができない。
「あなたが一番だよ」「あなただけだよ」と言ってあげることができないし、心からそう思うこともできない……。
人は誰かの”特別”でありたいと願うもので、自分の好きな人は大切にしたり贔屓したりするものであると思っていたけれど、莢子のような優しすぎる人間にはそれが耐え難いつらいことなのだと知りました。
莢子は、大学時代の友人である雪子(第1話の主人公)にこう話します。
でもあたし気付いてしまったの
恋をするって人を分け隔てるということじゃない
『愛すべき娘たち』第3話 p.130-131
半ば呆然としたような、悟ったような、「気が付いてしまったの……」という莢子の表情も相まって、このシーンを読んだときハッとしました。
私はこれまで、友人、家族、自分の好きな人たちを大切にしてきたけれど、それはその他の人たちを大切にしていないということと同義であり、自分にとって大切な人以外をどうでもいいと考えないがしろにしてきたのかもしれない、と。
きっと私は莢子のようにみんなを分け隔てなく愛することはできない人間だから、これからも身近にいる大切な人たちを贔屓して生きていくのでしょう。
それでも幼かったころよりは確実に大切にできる範囲が広くなっていると感じています。
たとえば、自分が妊娠出産を経験した後は街を歩く妊婦さんがよく目に付くようになったし、ベビーカーを押している人の大変さや、道端で駄々をこねて寝転ぶ子供に困り果てる親の気持ちが分かるようになって、そういう人たちに親切にしたいと思えるようになったのです。
それまではなんとも思わず、素通りしたり、気が付きすらしなかった人たちの存在を、はっきりと認識して声をかけたりできるようになったのです。
経験を積む、余裕が生まれる、そうしてゆっくりゆっくりと、大切にできる人の範囲を広げられるようになるのかもしれません。
莢子が風邪をひいて寝込む姪っ子の看病をしているシーンがあって、それが個人的にとても印象に残っています。
姪っ子が布団に横になったまま嘔吐してしまい、そのまま「おばちゃーん」と泣きながら莢子に抱きつきます。
莢子の服には吐しゃ物がつきます。それでも莢子は「ああ かわいそうに 気ーき悪かったね がまんしなくていいのよ あとで拭くから大丈夫だからね」と優しく声をかけ、「おお かわいそだったね びっくりしちゃったね」と笑顔で姪っ子を抱きしめます。
さらに嘔吐してしまう姪っ子の吐しゃ物を、莢子は嫌な顔一つせず「おととと」と手で受け止めるのです。
私も自分の息子の吐しゃ物であれば素手で受け止めることができる自信がありますが、それ以外の人間であれば正直ちょっと厳しいかも……。
ま、それでもいいかなって思います。
莢子のような”全方向への愛”を持てたらそれはもちろん素晴らしいことだけれど、私は少数の人間と”双方向の愛”を通い合わせる方がきっと好きで。
そうすることによって結果的に人を分け隔てることにはなってしまうのだけれど、それも一つの生き方ですよね。
「専業主婦になっちゃおうかな」
第4話は、第1話の主人公・雪子が同棲している恋人との家事の分担についてちょっとしたモヤモヤを感じるようになるところから始まります。
雪子はふと、中学時代に仲の良かった牧村という友人の言葉を思い出します。
結局女が闘うしかないんだよね
割食ってる方から文句言うしかないのよ
でなきゃ家庭内の男女平等なんて
成立しないよ
『愛すべき娘たち』第4話 p.148
牧村は、「あたし女検事とか女弁護士とかって 職業の名前の上にいちいち”女”って付けるのどうかと思う」と突然言い出したり、
「女にとってまだ働きづらい民間でがんばった方が 後々の働く女の人のためになるでしょう」と将来への決意を口にしたりと、
”女として人生を生き抜くこと”について中学生にしてすでに向き合っているような少女でした。
高校進学後「編集者になりたい」と夢を語り、その後16歳で「高校は辞めることにしたけれど夢のために出版社でバイトを始めることにした、家を出て自活する」と人生をどんどん前に進めていく牧村。
牧村と同じ高校に進学したもう一人の友人・佐伯はそんな彼女のことを見守っていましたが、牧村は出版社のバイトも辞め、受けると言っていた大検も受けず、書いていたという小説に対する情熱も冷めており、しまいには以下のように言い放ちます。
あたし結婚したいな
専業主婦になっちゃおうかな
妊娠すりゃいいのよあいつに黙って
そしたらあいつだって
そしたら…
『愛すべき娘たち』第4話 p.160
強く人生を生き抜くんだと決意し夢を語っていた友人が、逃げ道としての結婚や専業主婦を選択しようか、その手段として妊娠しようかとまで考えている……。
この状況の切なさ。
世知辛さ。
身を貫かれる思いです。
私も身に覚えがないわけではなく、「お金持ちの男性と結婚して専業主婦になれたらいいな」と考えたこともあるし、「子供ができたらこの人も私と結婚しないわけにはいかないだろう」と考えたこともあります。
(実際に専業主婦をやってみたらすごく大変で、家で一人っきりで子育てをするのも想像以上にしんどくて、当時の自分をぶん殴ってやりたいですが)
牧村に自分を重ねずにはいられません。
私自身も「20代中盤までバリバリ働いて、20代後半で子供を産みたい! 産休育休を取得したらそのあともワーママとして第一線で活躍したい!」だなんて大口を叩いていたのですが、実際はまったく思い通りにならず。
仕事は楽しかったけれど体調を崩して退職することになったり、無職のまま妊娠出産をして専業主婦になり、キャリアが新卒で入社した会社での2年間しかないまま無職のアラサーになろうとしています。
思うようにいかないのも人生。
妊娠や出産、子育て、家庭内の男女平等の獲得、社会の荒波、いろんなものに翻弄されながらも必死に生きていく、女としての人生。
雪子・牧村・佐伯、3人の少女はそれぞれ違った道を辿りそれぞれ大人へと成長していきました。
私だってそうだし、みんなそうです。
それぞれの道を進むだけです。
この物語の最後、モヤモヤを抱えながら旧友に宛てて雪子が書いた手紙が、佐伯の元に届きます。
私はその手紙を読み、まだ中学生だった彼女たち3人の笑顔を見て、涙しました。
「母というものは要するに 一人の不完全な女のことなんだ」
最終話では、第1話で「親だって人間だもの 機嫌の悪い時くらいあるわよ!」と言い放った麻里の幼少期が描かれます。
麻里は雪子の母でありますが、その前に祖母の娘でもあるのです。母娘の関係がそのあとに続く母娘の関係にも大きく影響を与えるのです。
あたしが親になった時
あたしだってきっと完璧な親じゃない
理不尽な事で子供に八ツ当たりもするだろう
でもその時あたしは絶対にその子に
「あんたのために叱ったのよ」
なんて嘘はつかないんだ
『愛すべき娘たち』第5話 p.184
麻里が雪子に対して「自分だって一人の人間だ」と主張し、母としてだけでなくあくまで一人の女としてふるまってきた理由が明らかになります。
さて、また個人的な話になりますが、私には尊敬する母がいます。
母は、私の容姿について褒めることも貶すこともありません。
赤ん坊のころは(小動物を愛でる感覚に近いような感じで)「かわいいかわいい」と言って育てられたと思いますが、物心ついて以降、母から「かわいい」「きれい」もしくは「不細工」「太った」などという容姿に関するコメントは一切ありません。
私は現在27歳で、ほんの少し目尻のシワが気になってきたり、傷の治りが遅くなってきたりと、ぼちぼち年齢を意識するようになりました。
20歳前後の若い女性を見ると「かわいくていいなぁ」「お肌がピチピチだなぁ」などと羨ましく思うことも増えました。
私には娘はいません。
だから、”娘を持つ母”としての一人の女の気持ちというのは、きっと一生分かりません。
自分は老いる一方で、しわやシミが増えたり、髪の毛が減ったり、そんな中で反比例するようにどんどん女ぶりに磨きがかかり綺麗になっていく娘の姿を見て、嫉妬せずにいられるものなのでしょうか。
嫉妬して娘を貶すような母もいるのでしょうし、うちの母のように何も言わない母もいるのでしょう。
(うちの母は私のことを本当になんとも思っていなかっただけの可能性が高いですが……笑)
親子関係に正解などないとは思いますが、「何も言わない」という選択は多くの場合、正しいような気がしています。
作中で麻里も「他人に言われたのならこんなに気にしてないわよ 身内の言う事 特に親の言う事っていうものは 胸に突き刺さるものなんですよ」と話します。
その通りです。
大学生になりたてのころ、アイシャドウが厚塗りになってしまった私を見た父から「おいおい! 誰かにぶん殴られたみたいになってるぞ!笑」と言われたのは今でも根に持っています。笑
将来息子が容姿に気を遣い出したときに、「アンタも色気づいちゃって~」などとからかったりせず、黙ってそっと見守る、そんな親でありたい。
母というものは要するに
一人の不完全な女の事なんだ
『愛すべき娘たち』最終話 p.199
祖母と会話して母というものが一人の不完全な女なのだと気付いた雪子。
我が子から「この人は母でもあり、同時にただの一人の女の人なんだ」と認識してもらえるように、「親だから」「母だから」と肩ひじ張らず生きてゆきます。
将来、大きくなった息子から「うるせーな! 何イライラしてんだよ!」と言われたときには「親だって人間だもの 機嫌の悪い時くらいあるわよ!」と言い返してみようかな。