山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』を読んで
私は女性として生まれ、女性として自分自身を認識して、世間からも女性だと認識されて女性としての扱いを受け、日本在住の一人の女性としての人生を歩んできました。
女はつらいよ、な人生だなぁと、思いながら生きてきました。
外見至上主義の世の中、男性たちから(時には女性同士でも)品評されるしんどさ、若さに依存した美しさがじわじわ失われていく恐怖、月経・妊娠・出産・子育てという一連に求められる(ように感じてしまう)自己犠牲の精神、いわゆる”良妻賢母”であらねばならないという強迫観念……。
しかし男にもあるのです、”男らしさ”に馴染めない孤独が。
『選んだ孤独はよい孤独』を読み、私は絶望的な諦めの感情とともにほんの少しの希望を持ちました。
あらすじ
みんな可哀想なんだから、あなたも泣かないで
本書は22もの短編から成っています。一つひとつの物語に言及していくと膨大な文章量の論文を書き上げる羽目になりそうです。
収録されている短編は数10ページのものからたった1ページのものまで様々ですが、通底するのは男たちの孤独、男として生きる人生のしんどさでした。
「男なのに仕事ができないなんて」
「結婚して、子どもを持って、ローンを組んで家を建てて、それでこそやっと立派な大人の男だ」
「ドッジボールが下手くそな男の子なんて格好悪い」
「男は死ぬまで働き続けなきゃいけないんだから」
みんな縛られているのです。
私は思いました。
そうか、男性たちも、私と同じなんだ。
「女なのに料理ができないなんて」
「結婚して、子どもを持って、家事と育児をきちんとこなして、それでこそやっと立派な大人の女だ」
「ブスな女の子なんて絶対にいや」
「女は常に気が利いて穏やかで優しくて美しくなきゃいけないんだから」
私が世の中から女性として見られる中で感じていた様々な圧力を、内容は違えど男性たちも感じながら生きているのだと気が付きました。
女性には家事や育児の負担や期待が重くのしかかるけれど、男性にも、一生働き続けて家族を養っていかなければならないという重圧があるのです。
「男の人は良いよね、お腹を痛めて我が子を産むわけじゃないんだから」
「女は良いよな、仕事が無理だと思ったら結婚や出産を機に辞めちゃえるんだから」
「男の人は良いよね、顔が格好良くなくなったってスポーツや仕事や、何かしらで実力さえあれば正当に評価されるんだから」
「女は良いよな、なんの取り柄も才能もなくても、何なら努力しなくたって、顔さえ良ければちやほやされるんだから」
ぜんぶ裏返し。
だからもうやめよう。
男だって女だって、みんな可哀想なんだから。
”女らしさ”に馴染めない、ある女の話
『選んだ孤独はよい孤独』に登場する男性たちは、世間から求められる”男らしさ”に馴染めず苦悩したり、馴染もうと苦戦したり、順応し過ぎた結果大切な人を失ったり、それぞれに孤独を抱えながら生きています。
さてここで、彼らと同じように”女らしさ”に馴染めないある女性の話をしてみようと思います。
彼女は幼少期から戦隊モノが好きで、男の子とばかり遊んでいました。
いつも髪はショートカットでボサボサ。
女の子たちの間で流行っていたメゾピアノの洋服ではなく、ユニクロで買ってもらった水色のフリースばかり着ていました。
スカートは苦手、ピンクも苦手、イケメン芸能人にも興味がありませんでした。
少年マンガの主人公に憧れ、自分もこんな風に格好良くなりたい、と思っていました。
だけどある日、気が付くのです。
自分は男の子たちの中にずっといられるわけではない。何かが違う。心から受け入れて仲間にしてもらうことはできない。
それに、男の子とばかり仲良くしていると、女の子から嫌われちゃうんだ。
彼女は、男の子たちと口をきくのをやめました。
大きくなった彼女には、はじめての好きな人ができました。「可愛いと思ってもらいたい」、そんな感情が芽生えました。
彼女は髪を伸ばし、チェックのミニスカートとブーツを履き、ふわふわのニットと黒のコートに身を包んで好きな人とのデートに出かけました。
「すごく可愛いよ!」
彼女は嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。
素敵な女の子だと思ってもらいたい、まるでお姫様みたいに女の子扱いされたい、可愛いと思ってもらいたい、綺麗だと思ってもらいたい、男の子たちからチヤホヤされたい、……
彼女の願いはエスカレートしていきました。
そうしていつの日か、彼女は少年マンガの主人公への憧れを捨て、イケメン芸能人に詳しくなり、ユニクロのフリースではなくROPE PICNICのニットを着て、男の子たちの前ではいつもより少しだけ高い声で喋り、笑うときは口を手で隠すようになりました。
さらに時が経ち、彼女は子どもを産みました。結婚もしました。
保育園の送迎で自転車を使う彼女は、なかなかスカートが履けなくなりました。家事がしやすいように身体のラインがでないゆったりした服を好んで着るようになりました。お風呂上りはバタバタするので髪を短く切りました。
彼女の見た目はちょっとずつ幼き日のそれに戻りつつあるようでした。
ルミネの2階や3階で本当に好きなのかどうか自分でももうよく分からなくなりながら服を買うこともなくなったのです。
男性の前でも普段と同じ喋り方をするようになり、面白いときには誰の前でも大きな口をあけてケラケラと笑います。
イケメン芸能人のことは、どうやらいまでも好きなようです。
そんな彼女は、主婦であるのに料理が苦手でした。食べ物の好き嫌いが多くて献立を考えられないのです。
そんな彼女は、母親であるのに子どもと接するのが苦手でした。遊んでと言われて遊び始めても間が持たず、用意した料理が残されるのにもいちいち落ち込み、人から「ママ」や「お母さん」と自分が呼ばれていることへの違和感が何年経っても拭えず、
小さくて温かい我が子の手を握り返しながら、孤独な気持ちに圧し潰されそうになっています。
はたから見たら幸せな人生のはずなのに、私は苦しい苦しいと感じてばかり。これは本当の私ではない、なんて考えてばかり。
”女らしさ”の呪縛からやっと抜け出せたと思えたら、今度は”母親らしさ”の糸にがんじがらめにされていたのです。
でもこれは、彼女が自分で選んだ孤独なのです。
料理も満足にできない、一緒に遊んであげるのも下手くそ、ちょっと駄々をこねられるとすぐに自分もパンクしてしまう、こんな人間として不出来な自分。
小さな小さな手で彼女の手をぎゅっと握り、「ママだいすき」と曇りなき全力の愛情をぶつけてくる存在。
その重たさを耐え難いと感じてしまう自分への罪悪感。
私の頼りないこの胸を必要としている存在がいると理解しながらも、怯え、それでも後戻りできず、どうにかこうにか綱渡りで張りつめた日々をこなす彼女の孤独。
彼女が選び取った孤独。
選んだ孤独は、よい孤独。