
犬追物に学ぶ。我思うゆえに我あり。
週末、諏訪湖の温泉旅館に行く♨️ゴルフからの美味しいお料理と日本酒で部屋風呂で最高な予定
さらに最高にするために諏訪が舞台のアニメを見始めた。逃げ上手の若君というアニメ。
アニメにほんっっとに疎い私め、初めて聞いたし、アマプラでちいかわ以外のアニメ初めて見た
面白いね🤣アニメ🤣実写じゃ表現できないポップな感じと画質の明るさと分かりやすさ。
北条の時代の話だから普通に首斬りとかある。
血飛沫系見れないので実写は嫌だけどアニメだから見れるね🤔
アニメ=子供が見る物って思ってたけど、アリですね🙌ハマりそう🌸
そんな中で、犬追物という娯楽を知った。

こういうの🥺
馬に乗って犬の向かって矢を放つ遊び。
この矢は本物じゃないから犬は矢が当たっても大丈夫とのこと。(でも現代じゃ絶対許されない遊びだよね🐶)
ただ、犬に当てれば良いんじゃなくて、決まり手があってその決まり手によって点数が加算されていく仕組みなのだそう。
左側に向かって放つことを弓手と言うらしい。読み方はユンデ。これは流鏑馬でも左側の的に向かって放つから分かりやすい。
逆に右側に放つ打ち方。これは馬手と言うらしい。読み方はメテ。自分が馬に跨って弓を打つことを想像するとこの馬手の方がはるかに難しい。体を捻る。
馬手の方が点数高いんだって!納得。
へぇ〜射撃姿勢なんて考えたことなかった。
面白いねぇ😳🐶

↑これだと、下2人は弓手。上1人が馬手。となるのだ。
転じて、左手のこと弓手。右手のこと馬手。
とも言うらしい。語源は左手で弓を持って、右手で馬の手綱を持つからとのこと。

どうでも良いが、私たちアラサー世代は小学校の国語の教科書にスーホの白い馬という作品があったじゃん??内容は全く覚えてないけど、スーホが私の体で馬頭琴を作ってくださいそしたらずっと一緒🫶みたいな感じ?スーホで作った馬頭琴の音色がまた素晴らしく良くて少し切ない。みたいな感じ。だったと思う。

この馬頭琴、弦も弓も馬の尻尾から出来ている。
さっきの犬追物の話では。左手は弓手。右手は馬手。のはず。
でもこのモンゴルのおじ、左手は弦。右手は弓。あれ?逆。右手に弓持ってるよ。しかもどっちも馬。
ん??あれ???
こう、少しでも話が複雑になると私の思考回路では追いつかなくてショートしてしまう。
何が何だか分からなくなってしまう。
起承転結のない文章になろうとしている。
ただ唯一、言える確かなこと。
コギトエルゴスム。
かの有名なデカルトさんの言葉で日本語だと
我思う故に我あり。
「われ思う、ゆえに我あり」は、デカルトが「方法的懐疑」に基づいて提唱した命題である。
「方法的懐疑」とは、すべての知識や認識について疑問を持つという思考の方法である。感覚、常識、先入観、先人の教えなどの一切合切を疑うわけである。
そのように一切合切を疑ってみると、絶対確実といえるものは何もないかのように思われるが、「私という存在が物事を疑って見ている」という事実だけは否定しようがないということが見出される。
私が思考しているということは、思考している私が存在するということの証である。つまり「私は考える、ゆえに私は存在する」。「われ思う、ゆえに我あり」は、これの文語的な表現である。
何が何だか分からなくなった時は、コギトエルゴスムだねぇ🤔と結論付ければなんとかなる。と思っている。
だってその真否はどうであれ私が考えていることは事実だもん🤔
サンキューデカルト✌️