映画「利休にたずねよ」を観ました
茶道の何たるかを知らない僕がこの映画について何かを書くなど恐れ多いことは承知の上ですが、一昨日アマプラで借りて観たのでうっかり感想を書きました。映画ガチ勢、歴史ガチ勢、茶道ガチ勢の三方からダメ出しされそうでこわいです。
感想というよりは紹介文のようなものですが、ごく微量のネタバレを含みますので、映画も小説もまだの人はご了解の上で駄文にお付き合いください。
映画「利休にたずねよ」の予告編
映画「利休にたずねよ」を見る前に
切腹の年から年代をさかのぼって戻ってくる変則的なスタイルなので最初は少し混乱するかもしれません。あらかじめ利休さんの生涯についてざっと復習しておくとよいと思います。特に利休さんと信長や秀吉との関係、戦国末期から安土桃山における茶人の役割についての理解があるとより味わい深くなるはずです。
利休の生涯や信長・秀吉との関係性を1分で理解する
・堺の豪商茶人であった今井宗久、津田宗及とともに堺を代表する高名な茶人でした。織田信長が堺を直轄地とする過程で、彼らは茶頭として召し抱えられます。この三人は後に秀吉の北野大茶湯の茶頭を務め天下三宗匠(てんかさんそうしょう)と称されます。
・この時代の茶頭は茶会プロデューサーというだけでなく、側近として政治顧問のような役割を担いました。政治と繋がりの深い政商でもあったわけです。利休は入手困難な鉄砲の玉を信長に調達したりもしています。現代風にいうと安倍政権と電通の関係のようなものなのでしょうか(想像)
・本能寺の変で信長が没した後は、秀吉の黄金の茶室を設計、北野大茶会を主管して茶頭を務めるなど、太閤秀吉の側に仕える茶人として天下に名を馳せるようになります。聚楽第の中に屋敷を構え、秀吉の政事にも関与していたようです。
・侘茶を完成させたといわれる利休さんですが、独自性を出すようになったのは本能寺の変以降の話だそうです。つまり派手さと同一線上にある下品さ悪趣味さを次第に露呈させる秀吉のもとで、その対極にある侘び茶を大成させたということになります。
・1591年(天正19年)、利休は秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられました。大徳寺三門上の利休の木像が直接的な原因とされますが、秀吉と利休の間にあった積年の確執(性格の不一致)が表出したようにも思えます。堺での蟄居を経て聚楽屋敷内での最後を迎えます。享年70歳でした。
原作の小説「利休にたずねよ」
原作の小説「利休にたずねよ」は直木賞を受賞しています。ぼくは2013年に映画化される少し前のタイミングで読みました。読後しばらく脱力感をおぼえるほど感銘を受けたことを記憶しています。読み進めるほどに山本兼一さんが描く利休の美の世界に引き込まれていきます。
映画も見よう見ようと思っているうちに思わぬ歳月が過ぎてしまいました。今回7年越しにようやくその機会を得て、再び心地よい脱力感に襲われることができたことに満足です。
当時の僕は歴史小説/時代小説を読み漁っていたのですが、利休さんは戦国末期の歴史小説には高確率で登場するキャラ。僕にとって利休の人物像は完全にこの「利休にたずねよ」が基礎となっています。創作をゆるさない一部の史実原理主義者からすれば不見識この上なしです。(原作を読んでいない人はぜひに。地域の図書館にたぶんあります)
「利休にたずねよ」の俳優陣が豪華すぎて倒れそう
映画「利休にたずねよ」に出演している俳優さんがめちゃくちゃ豪華です。市川海老蔵(千利休)、中谷美紀(宗恩)をはじめ、伊勢谷友介( 織田信長)、大森南朋(豊臣秀吉)と役者さん全員ぴたりと役にはまっているので映画を見ながら興奮して鼻血が出そうになります。
市川團十郎が利休の師である武野紹鴎役として特別出演しています。親子共演でも話題の映画だったんですね。映画を見るまでは出演者についての知識なしだったので目を疑いました。今更感のある感想でどうもすいません。晩年の利休のメイクが意識的に市川團十郎に似せてあるように見えてちょっと違和感がありました。
伊勢谷友介の織田信長が正しい織田信長に見えるのはあれでしょうか、「麒麟が来る」の信長様と比較してしまうからでしょうか。麒麟が放送再開されると、しばらくは伊勢谷友介の正しい織田信長が脳裏にちらつきそうでこわいです。
「利休にたずねよ」の中での利休の美の原点
映画の中では利休の美の原点、あるいは茶道の原点となる「高麗の女」さんなのですが、原作を読んだときにいまひとつ鮮明なイメージを持てなかったのです。ぼくの想像力の欠如、あるいは、ぼくがこれまで本当の「美しいもの」を見たことがないからかもしれません。小説を読みながら彼女の容姿や表情がいまひとつぼんやりと浮かんでこないままでした。
文章で表現された「美」を映像化するのは勇気のいることです。原作を読む人は各々の経験にもとづいて最大限の「美しいもの」を想像します。脳内の表現力は無限で、実写映像ではとても表現できないレベルの美しいものを脳内限定でこしらえることだってできます。
これらを凌駕しつつ正解のない「美」を模索し映像に表現するわけですから、監督さんも役者さんも大変です。
一方、本当の美しいものを見たことがなく想像ができなかった僕にしてみれば、原作を読んでから7年間ずっと不鮮明なままだった「高麗の女」のイメージがクリアになって救われたような気分になりました。霧の向こうでもやっとしていたものがようやく見えたような、そんな感じです。早く映画見ればよかった。
海老蔵を海老蔵様と呼びたくなる気持ちがわかる
世の中に海老蔵の私生活に興味津々な人たくさんいますよね。知ってます。僕の身近にもアメブロを日々チェックしている海老蔵ファン(あるいは歌舞伎ファン)が2人います。歌舞伎にも海老蔵にもそれほど興味のない僕にはまるで理解できなかった行動なのですが、映画「利休にたずねよ」での海老蔵さんの演技を見てから少しわかったような気がします。
表情と目線だけで語る場面が随所にあります。中でも「見たほうがよさそうな何かがこちらにありますが見たいのならどうぞ」的に斜め上をチラリと見上げて目だけで語ろうとする嫌味な仕草などゾクゾクします。海老蔵様と呼びたくなる気持ちがよくわかります
利休の家族
映画の中では、妻 宗恩(中谷美紀さん)・娘 おさん(鳴海璃子さん)の三人家族のように思えてしまいます。
実際の千家はもう少し色々あって、先妻の宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ)との間に一男四女、後妻である宗恩(中谷美紀さん)との間に一男、養子や庶子を含め六男六女だったそうです。
表千家・裏千家・武者小路千家のいわゆる三千家は、六女の亀さんと後妻 宗恩さんの連れ子である小庵の子である宗旦から継承されるわけですが、作品の中では触れられていません。
史実を超えた創作、という批判はその通りなんだが野暮だと思う。そんなこと百も承知だから。
「利休にたずねよ」では史実を超える創作が多々はいっています。高麗の女なんて作家さんの勝手な想像ですし、待庵の名の使い方に及んでは史実をゆがめているような気もします。でも、それでよいではないですか。
史料だけでは現代まで伝わらない部分があり、作家さんは卓越した想像力でその空白を補ってくれます。その力を借りたらよいと思います。歴史上の人物が時空を超えて現代のぼくたちの前で輝くのはこうした作家さんの技術のおかげです。ぼくたちが人生を生きる上で歴史をつくってきた第一級の人物と対話(妄想上の対話ですよ)できるのは彼らの創作があるからです。それがたぶん歴史小説の役割だと思います。
だから「史実とは違う」「勝手な創作だ」という批判の意をこめてレビューの★を下げるのは違うと思うのです。「史実の正しさ」は評価基準から外すべきですよね。歴史書の評価ではなく、小説の評価なのですから。水戸黄門は諸国を漫遊などしていない、と怒るのは野暮でしょう?
もちろん、小説を愉しむのとは別で「正しい歴史」は勉強すべきです。本作を通じて利休や茶道に興味を持った人(ぼく)はさらに学びを深めるとよいでしょう。その上で「利休にたずねよ」の利休、別の作品の利休、それぞれの利休と対話できればいいのだと思います。
利休の美の原点が10代の未熟な経験にあるのはあながち外れていないのではないかという願望
後半部分の描き方は賛否両論あるでしょう。原作者が意図したイメージに近いのかは分かりません。利休の美の原点、茶のすべてを教えてくれたのが「高麗の女」だなんて真剣に論じる話ではないかもしれませんが、映画の中でクララさん演じる「高麗の女」さんよかったです。
後半の創作部分を一刀両断するレビューが多い中でアレですけど、高麗から連れてこられたという部分はともかくとして、ぼくは実際そのような原体験に利休さんの美の原点があったのではないかと思えてなりません。というかそうであってほしい。(個人の願望です)
+++
海老蔵さん演ずる利休の所作が美しすぎて震えてしまう映画です。そこを見るだけでも価値があります。ぼくは冷蔵庫のお茶をとりだしてグラスに注ぐたびにその仕草を真似していますが、いまのところ誰も震える様子はありません。精進したいと思います。
映画「利休にたずねよ」(amazon prime video)
amazon prime videoだと48時間レンタル 400円、購入は2500円。
山本兼一「利休にたずねよ」(文庫本)
原作の小説もぜひ読んでほしい。第140回直木賞受賞作。
三浦綾子「千利休とその妻たち」
少し幅を広げて深めたいときは三浦綾子さんの「千利休とその妻たち」がおすすめです。上下巻あります。