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【トーハク】呉昌碩から書という芸術を学ぶ(3)


東京国立博物館の東洋館 8室では、2024年1月2日(火) ~ 2024年3月17日(日)まで、 「生誕180年記念 呉昌碩の世界—金石の交わり—」が開催されている。
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2638
書を観るのはとても難しい。
そして毎回思うことだが、自分がここから何を得ているのだろう。
この展示物をきっかけにインプット&アウトプットを試みたいと思う。


これまで学んだこと

石鼓文って何(続き)???

石鼓文は、王の狩猟の様子などがうたわれた韻文が太鼓形の10個の石に書かれている銘文のことをいう。
この銘文の文字を「大篆(だいてん)」というのだ。

【参考サイト】

大篆(だいてん)?

大篆とは、漢字の書体のこと。

えーーーっと、ますますわからない。
昔の書体ということは、隷書とかの類か?

書体の変遷を知りたいと思い、探し当てたのがNHK高校講座の「書道Ⅰ」だ!これ、すごくわかりやすい。

最も古い書体が「甲骨文」。
紀元前13世紀頃の中国では、農耕や狩猟などの様々なことを占いによって決めていた。
その占いで使うのが牛の骨や亀の甲羅などの動物の骨であった。
骨には占うことの内容やその結果を文字で刻んでおり、その文字を「甲骨文」という。
骨に直接文字を彫るため、この時代の文字は直線的なのが特徴だ。

「甲骨文」の次に誕生したのが「金文」である。
それまで骨に直接彫っていた文字が、青銅器に文字が鋳込まれるようになった。
この変化は劇的なものだったに違いなく、直線的な文字だったのが、曲線を含む文字を表現できるようになったのが特徴的だ。

さらに時代が進み、春秋戦国時代(紀元前770~221年)にはたくさんの国が生まれ、国や地方ごとに文字の表現が少しずつ異なっていった。
混沌とした時代を経て、秦の始皇帝が国の統一を果たすとともに、文字の統一も行われた。その文字の書体が「小篆」だ。
そして、「小篆」の元になった書体を「大篆」という。
周時代の宣王の時、史籀(しちゅう)が作ったものとされる。

やっと出てきた「大篆」!

「小篆」は「大篆」を簡略化して筆写を便利にした書体で、さらに簡略された文字が「隷書」となる。
お~、漢字の書体の流れとはこういうことだったのか!
ちなみに、甲骨文・金文・大篆・小篆をあわせて「篆書」と呼ばれる。

さて、呉昌碩はなぜ大篆が刻まれた石鼓文に執心したのだろうか。
文字のデザイン性に心奪われたのだろうか。
小篆の元として、簡略化される前の文字をもっと知りたいと思ったのだろうか。
呉昌碩は臨書を繰り返すことによって

「金石の気」と呼ばれる特異なオーラに満ちた、質朴で重厚なものへと昇華

出典:1089ブログ「呉昌碩の世界」その1 真骨頂の書」

させたとあるが、何を感じ取って「金石の気」まで到達することができたのだろうか。
ランナーズハイみたいな?ゾーンに入るみたいな?感じ???

いいなーそういう経験をしてみたいナ。

今日はここまで。

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