職員室の雑談~『遅いインターネット』を受けて⑴~
橋本:先生は、この本を読んでどう考えましたか?
I先生:俺がロスジェネ世代だっていうことで、「自由」と「カベ」という言葉に興味を持ったね。俺たちは、そこに線引きされた方が、生きやすいというのが本音だろうし、大衆社会での象徴でもあるしね。というのも、「自由」という生き方が許される「自由」度であったり、「自由」に意味を持たせるには、その時代背景が絶対に必要だと思うんだよ。その一方で、「カベ」(枠のなかで行動を制限するもの)のなかでの「自由」は、「自由」ではないんじゃないかな。
橋本:なるほど。「自由」のレベルが時代背景によって違うということか。でも、「カベ」がある時点で「自由」にはなり得ないということですか。宇野さんの「Anywhere」と「Somewhere」でいうと、「Somewhere」な人々ですよね。
I先生:そうそう。つまり、「カベ」の外からの圧もないし、「カベ」の中で安全に暮らせるなかで、あえてそこに「自由」を求めて生きる必要はないってことですよ。
橋本:あー、それはなんだか『進撃の巨人』のイメージですよね。あのアニメは、巨人が外からの圧として描かれていますが、巨人が現れなければそのまま暮らしていたわけですからね。
I先生:でも、万が一「カベ」が崩壊した時に、その「カベ」を乗り越えた人間とそうでない人間に分かれるんじゃないかな。世代としては、「カベ」が崩壊したにもかかわらず、「カベ」の幻想の内側で生きようとしていたバブル世代と、「カベ」の幻想をそもそも「カベ」と思っていないロスジェネ世代がまさにそれだと思うんだよね。そして、そのロスジェネ世代にこそ、本当の「自由」があったのかもしれない。
橋本:んー、だからこそ、ポスト・ロスジェネ世代の僕なんかは、「カベ」の意識がないロスジェネ世代にあこがれるんですかね。今の時代の空気として、「カベ」が崩壊したからこそ、より強固な「カベ」を! という流れになってきてますよね。『遅いインターネット』で「Somewhere」な人々が、「トランプのアジテーションを『信じたい』んだ」と語られていたように。
I先生:もう少し細かく分けると、ロスジェネ世代の中にも「カベ」の幻想を見ていた者と「カベ」の幻想を乗り越えた者がいるんだよね。俺は、前者を「自由ロスジェネ世代」、後者を「不自由ロスジェネ世代」と呼んでいるんだ。
橋本:なんか本格的になってきましたね。
I先生:60年代、70年代のヒッピー時代に構築される「自由」は、宇野さんが言うように、その後のインターネットの発達へつながっていくのだけれど、それってヒッピー時代の若者と、そのヒッピーを許した親父たちとの関係があるのではないかと思う。この親父たちは、若者ヒッピーを「信じた」わけではなく、そのヒッピーという若者の可能性を「信じた」のだと思う親父たちがいるという時代背景があったからじゃないのかな。
橋本:だからこそ冒頭の「時代背景」という話になってくるんですね。新しい文化の創造には、確かに親の価値観は重要かもしれませんね。
〈続く〉
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